さて、議論はやめて、食べる方だが——
暑かった八月も、いつか去ったことになるが、九月に入ったって、ほんとは、まだ暑く、食欲は振わない。
でも、妙なものである。九月にならぬ前、八月の二十日頃から、わずかながら、食思が動いてくるのである。昼間は、三十度を超えても、日が短かくなった証拠に、早い夕暮れのたたずまいと、涼風と、そして、いい按配に、縁の下から、コオロギの声でも、耳に入れば、忽然として、秋の食べ物が欲しくなり、胃袋に活気が出てくるというのは、人間ならではの現象だろう。
この時に於てか、走りの食べ物の効用を、躊躇なく、享くべきである。�走り�嫌いの私だって、九月の初旬に、柚子《ゆず》の香を愉しむことは、大賛成なのである。それを、六月から、料理屋が用いることに、文句がいいたいだけなのである。これから、夏の峠を超えようという時に秋に思いを致したって、何になるのか。季節の味というものは、ほんの少し魁《さきが》けるところに、詩情も食欲もそそるのであって、ただ早く食ったって、何の意味もない。それにしても、�走り�に拘泥して、シュンを忘れたら、ものを食う人の態度ではあるまい。世上の�お茶をやってる奥さん�たちの態度を、私は気に食わない。あの連中の�走り�好きは、料理屋以上に、愚劣である。商売人は、金をとる目的で、�走り�を使うのだから、まだ、わかってるが──
秋の芋。
ジャガ芋は春だが、日本種の芋は、秋のものだろう。芋というものの性質からいって、秋に穫れることに、自然を感じる。新芋という語はサツマ芋の場合に使われるようだが、小芋といえば、新里芋のことで、共に、初秋を感じさせる。
小芋を、東京風に煮ると、コッテリと、甘味《あまあじ》にして、酒のサカナに向かなくなるが、あれはあれで、一つの料理だろう。日本橋の�まるたか�なんて、飲み屋へ行くと、その典型的な小芋を、食べさせる。しかし、東京の下町風の味つけも、いつか、稀《めず》らしいものになってしまった。
でも、新秋を味わうつもりだったら、やはり、京都風の薄味の方が、いいにきまってる。野菜は何でも、京都に敵わないから、小芋だって、そうだろうと思うが、昨年だったか、柴又の川魚料理屋の主人と会ったら、ウナギや鯉の自慢をしないで、あの付近の新里芋の味を、ひどく誇ってた。昔から、名物なのだそうである。来年の秋には、届けるといってたが、是非、一食したいと、思ってる。そして、それが美味ならんことを、祈ってる。というのは、なんでもかんでも、京都のものがウマいというのは、業腹《ごうはら》なので、里芋ぐらい、関東に軍配をあげてもいいだろう。また、関東の畑の土は、黒々として、何だか、秋の芋を産するに、適してる気がする。少くとも、サツマ芋だけは、関東が断然優秀で、京都の食いしん坊が、川越の芋を、わざわざ、取り寄せてるのを、私は知ってる。
私は、子供の時は、ご多分に洩れず、サツマ芋が好物だったが、酒を飲むようになって、食えなくなった。その状態は、長く続いた。一体、私は何でも食うのだが、トーナスだけが嫌いだったのに、中年過ぎてから、少しは、味を解するようになった。しかし、サツマ芋は、どうしても、口にできなかった。
ところが、数年前から、サツマ芋も、そう嫌ったものでもないと、思うようになった。京都の�雲月�のおかみさんが、秋の軽い懐石の献立てのカラー写真を、雑誌に出してたが、その時のサツマ芋の扱い方が、何気なく、気持ちがよかった。家でやっても、そう上手にはできないが、幸いにして、私のところへは、優秀なる品種が、届くようになった。
朝日新聞の懇意な人が、川越に住んでるのである。この人が、秋になると、必ず、芋を届けてくれる。最初は、食思も動かなかったが、ふと、食って見ると、まるで、普通のサツマ芋と、味がちがう。色や形も、ちがう。
「やはり、名物はちがいますね」
と、お礼をいったら、川越にも近頃は、ホンモノが少くなって、よほど前から頼んで置かないと、手に入らないのだといった。
川越に川越芋が乏しいとは、おかしな話と思ったが、やはり、戦時中の増産のために、収穫の多い、何トカいう他地産を使うようになって以来、それに圧倒されてる由なのである。庄内米の場合と、同様なのである。
しかし、従来の川越芋も、少しは作ってるらしく、それを、川越名物の芋菓子屋が使うので、いよいよ、払底となり、川越人も、あまり川越芋が食えないのだと、いっていた。
その人に連れられて、川越へ、遊びに行ったことがあったが、古くて、趣きのある町だった。
やはり、城下町のせいだろう。土蔵建築が面白く、中でも、芋菓子屋の店構えが、一段、目立った。芋せんべいというものに、郷土菓子として、創意があり、ヘンに甘くしないところが、感心だと思った。
とにかく、川越の芋のウマいことは、確かであり、私の少年時代に、東京に多かった焼芋屋の芋は、それを使ってたのだろう。形と色に、見覚えがある。しかし、焼芋屋の始まるのは、初冬であり、秋の芋を使っては、商売にならなかったろう。
暑かった八月も、いつか去ったことになるが、九月に入ったって、ほんとは、まだ暑く、食欲は振わない。
でも、妙なものである。九月にならぬ前、八月の二十日頃から、わずかながら、食思が動いてくるのである。昼間は、三十度を超えても、日が短かくなった証拠に、早い夕暮れのたたずまいと、涼風と、そして、いい按配に、縁の下から、コオロギの声でも、耳に入れば、忽然として、秋の食べ物が欲しくなり、胃袋に活気が出てくるというのは、人間ならではの現象だろう。
この時に於てか、走りの食べ物の効用を、躊躇なく、享くべきである。�走り�嫌いの私だって、九月の初旬に、柚子《ゆず》の香を愉しむことは、大賛成なのである。それを、六月から、料理屋が用いることに、文句がいいたいだけなのである。これから、夏の峠を超えようという時に秋に思いを致したって、何になるのか。季節の味というものは、ほんの少し魁《さきが》けるところに、詩情も食欲もそそるのであって、ただ早く食ったって、何の意味もない。それにしても、�走り�に拘泥して、シュンを忘れたら、ものを食う人の態度ではあるまい。世上の�お茶をやってる奥さん�たちの態度を、私は気に食わない。あの連中の�走り�好きは、料理屋以上に、愚劣である。商売人は、金をとる目的で、�走り�を使うのだから、まだ、わかってるが──
秋の芋。
ジャガ芋は春だが、日本種の芋は、秋のものだろう。芋というものの性質からいって、秋に穫れることに、自然を感じる。新芋という語はサツマ芋の場合に使われるようだが、小芋といえば、新里芋のことで、共に、初秋を感じさせる。
小芋を、東京風に煮ると、コッテリと、甘味《あまあじ》にして、酒のサカナに向かなくなるが、あれはあれで、一つの料理だろう。日本橋の�まるたか�なんて、飲み屋へ行くと、その典型的な小芋を、食べさせる。しかし、東京の下町風の味つけも、いつか、稀《めず》らしいものになってしまった。
でも、新秋を味わうつもりだったら、やはり、京都風の薄味の方が、いいにきまってる。野菜は何でも、京都に敵わないから、小芋だって、そうだろうと思うが、昨年だったか、柴又の川魚料理屋の主人と会ったら、ウナギや鯉の自慢をしないで、あの付近の新里芋の味を、ひどく誇ってた。昔から、名物なのだそうである。来年の秋には、届けるといってたが、是非、一食したいと、思ってる。そして、それが美味ならんことを、祈ってる。というのは、なんでもかんでも、京都のものがウマいというのは、業腹《ごうはら》なので、里芋ぐらい、関東に軍配をあげてもいいだろう。また、関東の畑の土は、黒々として、何だか、秋の芋を産するに、適してる気がする。少くとも、サツマ芋だけは、関東が断然優秀で、京都の食いしん坊が、川越の芋を、わざわざ、取り寄せてるのを、私は知ってる。
私は、子供の時は、ご多分に洩れず、サツマ芋が好物だったが、酒を飲むようになって、食えなくなった。その状態は、長く続いた。一体、私は何でも食うのだが、トーナスだけが嫌いだったのに、中年過ぎてから、少しは、味を解するようになった。しかし、サツマ芋は、どうしても、口にできなかった。
ところが、数年前から、サツマ芋も、そう嫌ったものでもないと、思うようになった。京都の�雲月�のおかみさんが、秋の軽い懐石の献立てのカラー写真を、雑誌に出してたが、その時のサツマ芋の扱い方が、何気なく、気持ちがよかった。家でやっても、そう上手にはできないが、幸いにして、私のところへは、優秀なる品種が、届くようになった。
朝日新聞の懇意な人が、川越に住んでるのである。この人が、秋になると、必ず、芋を届けてくれる。最初は、食思も動かなかったが、ふと、食って見ると、まるで、普通のサツマ芋と、味がちがう。色や形も、ちがう。
「やはり、名物はちがいますね」
と、お礼をいったら、川越にも近頃は、ホンモノが少くなって、よほど前から頼んで置かないと、手に入らないのだといった。
川越に川越芋が乏しいとは、おかしな話と思ったが、やはり、戦時中の増産のために、収穫の多い、何トカいう他地産を使うようになって以来、それに圧倒されてる由なのである。庄内米の場合と、同様なのである。
しかし、従来の川越芋も、少しは作ってるらしく、それを、川越名物の芋菓子屋が使うので、いよいよ、払底となり、川越人も、あまり川越芋が食えないのだと、いっていた。
その人に連れられて、川越へ、遊びに行ったことがあったが、古くて、趣きのある町だった。
やはり、城下町のせいだろう。土蔵建築が面白く、中でも、芋菓子屋の店構えが、一段、目立った。芋せんべいというものに、郷土菓子として、創意があり、ヘンに甘くしないところが、感心だと思った。
とにかく、川越の芋のウマいことは、確かであり、私の少年時代に、東京に多かった焼芋屋の芋は、それを使ってたのだろう。形と色に、見覚えがある。しかし、焼芋屋の始まるのは、初冬であり、秋の芋を使っては、商売にならなかったろう。