年の実りが、熟する時であって、ものを食べることの意味を考えたら、日本人にとって、これ以上の祝《ことほ》ぎはない。
私なぞは、都会生れの都会育ちで、米の成る木を知らない方で、収穫の喜びを云々する、ガラではないのだが、四国疎開の一年有半の間に、秋の�とりいれ�というものの意義が、身に沁みて、わかった。
私のいた地方は、半農半漁で、お百姓は麦と甘藷を常食とするくらいで、米どころというには、遠いのだが、それでも、山と山の間の平地には、水田があり、秋になれば、黄金の波を打つのである。
そんな地方でありながら、収穫の喜びは、実に神聖で、また、盛大だった。日本人が先祖代々、伝承してきた喜びの儀式が、あまり崩されないで、私の前に展がった。
秋祭りというのを、東京流に、神社の賑わう日だと思ってたが、参詣に行く人は少く、その代りに、町をあげて、祝い狂うのである。もっとも、その日、神様は神社にいないで、ミコシに乗って、町を巡廻するからかも知れない。東京のオミコシとちがって、面白半分に担ぐ連中は、一人もいず、エボシに白衣の姿で、町を駆ける。その声を聞くと、各戸の人が家の前に飛び出して、拍手し、合掌し、賽銭のオヒネリを投げる。
そして、獅子舞い、鹿踊り、ハヤシ屋台、歌舞と称する伎芸者、牛鬼という南伊予特有の巨大な怪物なぞが、絶え間なく、町を巡る。
音曲と騒音とが、平素は静かな町を、沸騰の状態にする。そして、各戸ともに、酒肴の用意をして、立ち寄った何人をも、
「まァ、一ぱい、やんなせや、お祭りじゃけん……」
と、座敷へ上げる。
土佐の皿鉢《さはち》料理と同型だが、ちょっと趣きがちがって、ここでは鉢盛料理と、名も変る。数個の大皿に、サシミや、スノモノや、口取りや、焼き魚、煮魚、巻き鮨、煮ウドンの類まで、盛り込まれるが、秋祭りには、菊の花が一輪、食べ物の中心に、插してある。終戦から二年目の頃だったが、物資豊富の土地で、カマボコも、卵焼も、皿を飾ってた。
私も、もの珍しさに、町の知人の家を、午前から、数軒歩いたのだが、どこへ寄っても�一ぱい、やんなせ�で、午頃には、すっかり酔ってしまった。
家へ帰れば、今度は、来客の対手をして、また飲まなければならぬから、酔いを醒ますために、町を流れる川の向う堤まで行き、木の下で、憩んだ。
よい天気だった。ほんとの秋晴れで、雲一つない。田圃は黄熟し、喜色を浮べてる。川の流れも、田へ注ぐ役目を終って、悠々としてる。そして、向側の町では、笛太鼓の音が湧き上り、牛鬼の竹ボラも混じる。一筋町の長い甍の連なりの下では、誰も業を休み、ヨソ行きの着物に改め、朝から飽食し、大酔して、敗戦の打撃なぞ、どこ吹く風であった。
正月でも、盆でも、雛節句の野遊びの時でも、町の人は、こんなに騒ぐことはなかった。秋の祭りが、町の最大の行事であることも、眼のあたりに知った。それは、決して、単なる神社の祭礼ではなく、米という大切な食べものを、今年も手にした、昔ながらの喜びが、彼等の血のなかで、踊るのだろう。南欧のブドー収穫の時には、今もって、陽気な祭りをやるが、それと同じことなのだろう。無論、神への感謝につながるのだろうが、東京の秋祭りは、少し忘恩である。この地方へきて、初めて、秋祭りとは、どういうものか、わかったのである。
それに、現在でも、この地方の人々の米に対する愛着は、都会人の想像に及ばない。米どころではないので、かえって、米を貴重に思うのかも知れないが、ご馳走といえば、飯を大食することだし、また、米飯料理の種類も多い。新鮮で美味な、魚介類の多い地方なのに、彼等は多種の副食物よりも、米飯料理一種の方に、喜びを示す。
ボッカケ飯というのがある。
人参、牛蒡、コンニャクを刻み、鶏とか、兎、キジ、山鳥なぞの肉と共に、東京の牛飯よりもやや薄い味つけの汁にして、飯にかけるのである。薬味は、ミカンの皮。ボッカケは、ぶっかけの意だろうが、見かけは悪いけれど、味は淡泊で、わりと食が進む。とはいっても、土地の人のように、十ぱいも食べることはできない。女でも、三、四はいは、お代りをする。
サツマというのも、飯料理であるが、これは、諸所で紹介されてるようだから、詳しくは述べない。白身の魚を焼き、身をほごし、骨も炙《あぶ》って、ダシをとる。そのダシで、味噌を溶き、冷汁にする。ほごした魚の身と混じて、飯にかける。薬味は、ネギ、ミカンの皮なぞを、用いる。サツマという名は、薩摩汁の変種の意味だろうが、薩摩にはない料理である。
その他に、三宝飯とかいうのがあった。
甘鯛のような魚の細づくりを、熱い飯の上に載せ、生卵のキミとゴマを主にした汁をかける。この飯料理が、彼等にとって、最高のご馳走らしく、特に珍重するようである。
とろろ汁や五目飯も、彼等の好物だが、麦とろというわけではない。麦飯は、ご馳走の部に、入らないのである。米飯のとろろだから、私たちには、しつこくていけない。
要するに、彼等は、比類のない、飯好きなのである。東北地方の米に比べると、遙かに味が劣るのであるが、前に述べた理由で、米が貴重であり、ご馳走となるのだろう。
南伊予の人々ほどでなくても、私だって、飯の好きな時代があった。今では、毎食一椀の少量に過ぎないが、それでも、米のウマさを感じる時がある。しかし、米のウマさは、そんな僅かな分量では、堪能できず、ある程度の大食が、必要らしい。それも、副食物を多くせず、よい海苔と、よい沢庵と、ウマい味噌汁ぐらいが、結構である。そんなおカズで、五はいの飯を食った時代の、遠く、なつかしきかな。
しかし、私なぞは、米の知識もなく、たまたま手に入った庄内米を、讃美する程度だが、友人のフランス文学者、鈴木信太郎君は、非常な米通で、その品種や産地のことに明るく、従って、ウマい米というものは、戦後、地を払ったことを、知ってる。彼が愛用した米は、東北地方産ではなく、東京に近い、越ケ谷あたりの農家が、つくっていたもので、甚だ収穫量が少いのだという。それは、彼の好事癖ではなく、江戸人のゼイタクな食味の遺産らしいが、戦争によって、まったく影を止めなくなったそうである。フランスあたりでもそうだが、戦後、パンもブドー酒もマズくなった。戦争は美味の伝統を、痩せさせ、元へもどるには、大変、時間がかかる。
新米の味を解したのは、壮年以後からで、都会生れの者は、ほんとは、飯なぞどうでもよかった。しかし、味を知って見ると、忘れられない。独特の匂いが、いかにも、新しい米を感じさせ、新穀感謝の念さえ、そそるのである。
パンも、ウマいが、米も、ウマい。そういう半日本人的味覚は、自慢にならないのだけれど、明治生れの運命として、甘受する外はない。ただ、半分は、米のウマさを知ってるから、古い日本人の気持もわかり、秋祭りの意義も、どうやら、同感できるのである。
パンといえば、私は四十年来、毎朝、トーストとコーヒーの食事を、続けているが、コーヒーの味は、秋口になって、引き立ってくる経験を、重ねてる。暑いうちは、ダメだというのは、味噌汁と同断である。といって、紅茶に変える、気もしない。