私が初めて京都へ行ったのは、算えて見ると、六十二年前で、日露戦争中だったか、私は中学一年生で、暑中休暇に、一人で神戸まで旅行して、途中、京都の親類の家に、泊ったのである。
京都で汽車を降りて、駅前へ出ると、何て、田舎くさいとこかと思った。その頃の京都駅は、平屋建てで、駅前に、ズラリと、人力車が列び、それが赤毛布の膝かけだったと思うが、夏のことだから、思いちがいかも知れない。
その車に、烏丸通り夷川上ルというところへ、やってくれといった。多分、暗誦してたのだろう。今でも町名を覚えてるから、不思議である。その親類の人というのは、日本画家で、父の従弟か何かだったか、私は会ったこともなかった。知らぬ土地の知らぬ人を、訪ねて行くのだが、一向に、不安がなかったのは、明治の冒険少年の心意気だろう。
実際、車屋はすぐ目指す家を見つけてくれたし、その家の主人は、二晩か、三晩泊る間に、私を親切に、京都の名所を案内してくれた。
といって、私は京都の名所に、何の興味もなかった。中学一年生に、古都を愛する趣味のないのは、当然だが、京都について知っていたことは、五条の橋で、牛若丸と弁慶が戦ったことぐらいだった。私は金閣寺と三十三間堂へ案内されたことは、記憶に残ってるが、まだ方々へ連れていかれたことと思う。しかし、どこへ行っても、つまらなかった。そして、どこへ行っても横浜から来た私には、田舎くさくて、閉口した。電車は走ってたと思うが、極く一部分ではなかったか。家並みが低く、どうも日本家屋ばかりで、洋食屋なんか、一軒も見当らなかった。
ただ一つ、東京も横浜も、敵し難いものがあった。夕涼みに、京極へ連れて行かれて、氷屋に入ったが、パノラマのような、ペンキ画の背景のある大きな店で、売ってる氷水の種類も、豊富だった。私は金時というのを食べたが、それは東京の氷アズキのことだった。容器も味も、東京や横浜より優れてた。
私は氷水屋だけに感心して、京都を去ったのだが、今から考えて見ると、あの頃の京都は、例のタワーもなく、四条河原町の東京化も始まらず、静かな京都だったにちがいない。京都人だけの京都で、観光客も少く、さぞかしよい京都だったろう。食べものや菓子なぞも、あの時分の方が、きっと、うまかったろう。その他、今ではもう消えてしまったものも、あの時分には、まだ残ってたろう。
私の泊った日本画家の家にしても、町中の門のない、紅がら塗りの二階家で、見たところは貧弱だが、奧が深く、そして、家の中がキチンとして、狭い庭に、樹や石が多かった。今から考えて見ると、一流画家でもないその人は、よほど快適な環境で、生活してたようである。
私は二階に寝かされたが、夏の朝早く、物売りの声で、眼を覚まされた。引ききりなしに、もの売りがくるのである。その中で、
「ノーリー」
と、いうのがあった。私は海苔を売りにきたのかと思って、家の人に聞いたら、糊だということだった。
糊なんか売りにきて、どうするのかと思った。その頃の京都人には、糊を必要とする生活があったのだろう。今の京都には、そんな呼び声も、聞かれないだろう。