辻留のオヤジが、新刊の自著の本を、二冊持って、来訪した。
「また、出たんですか。これで何冊目になります」
「へ、へ。十二冊目です」
「それは、驚いた。立派な著述家ですね」
私は、卒直に、所感を述べた。
十二冊も、本を書けば、堂々たる著述家である。しかも、その著述たるや、誰にも書け、彼にも書けるというものではない。女と寝たとか、転んだとかいう小説なぞと、わけがちがう。
それなのに、オヤジさんは、しきりに頭を掻いて、
「飛んでもない……」
と恐縮する。
何をそんなに謙遜しめさるか。これだけ立派な料理の本を十二冊も書いたら、フランスあたりなら、勲章が貰えるかも知れない。
私は、辻留料理本の熱烈なる愛読者である。�茶懐石��包丁控�以来、私は実に愉しんで読んだ。いや、見た。見るべき本なのである。カラー写真が、まるで、名画の複製のように美しい。包丁の冴えと、盛り方の腕が、何とも美しい、単に美しいのみならず、食いたくてたまらなくなる。食欲をそそらない料理なんて、何の意味もない。辻留本を見ると、猛然と食欲が起る。そして、それぞれのウマさが、頭に浮んできて、しまいには、ほんとに食ったような気持になるのが、不思議である。
婦人雑誌の料理のカラー写真なぞ見ても、絶対に起らない現象が、辻留本を見てると、起るのである。つまり、想像的美食が、成立するのである。しかも、いくら食っても、腹に溜らない。胃弱の私には、もってこいである。
今度の�やきもの�という本が、たいしたものである。例によって、実にウマそうな料理が、美術館秘蔵の名器に盛られて、その調和と適合の美しさが、ウーンといいたくなる。最高の料理美の姿を、カラー写真が語ってる。そして、最高に食欲をそそるのである。実にこういう写真を見ると、文句なしに、懐石料理は世界第一の料理であることを、考えさせられる。最高のゼイタクであり、また、最高の食いしん坊料理であることを感じさせる。
しかし、私はちょいと別なことを考えた。
こんな最高の料理を、どこへ行ったら食えるのか。写真撮影の現場へ、行けばいいのか。それとも、銀座の辻留へ行けばいいのか、美術館秘蔵の名器を、ちょくちょく借り出せないのは、知れた話だが、かりにその幸運に浴せたとしても、銀座の辻留で、あの本の与えてくれるイメージを、舌が味わえるかどうか。
どうも、私は辻留本の読者で終る方が、幸福なような気がしてきた。あの本を見てれば、最高の味が求められるのである。何を苦しんで、銀座の雑踏にまぎれ、あのコンクリートの建物の中に入る必要があるのか。