大正の終りか、昭和の初め頃だと思うが、仲秋名月の夜に、文士なぞが集って、滝野川のソバ屋で、ソバを食う会というのが、催された。
当時の私は、まだ文士ともいえず、翻訳や芝居の仕事をしてたに過ぎなかったが、勧誘を受けて、出席した。
そのソバ屋は、有名な店であって、主人の長髯の老人が、その晩に限って、自分でソバを打ってくれるという前触れだった。その会の世話人は、校正の神様とかいわれた人で、文壇に顔が広いのだそうだが、私はまだ彼に校正されるほどの文章を、書いていなかった。
ソバ屋は、案外、小さな店であって、探すのに骨が折れたが、通された二階も、会をするというほどの面積ではなかった。もっとも、以前は、どこのソバ屋でも、二階があって、女連れの客なぞが利用したが、殺風景な座敷が多かった。
その狭い二階に、もう、ずいぶん人が集まってた。私の前側に、和服で鼻眼鏡をかけた佐藤春夫が坐ってた。会ったことはないが、写真で顔を知ってた。私の隣りには、久保田万太郎が洋服を着て、アグラをかいてた。この人には、芝居の方で、多少の面識があった。佐藤春夫と久保田万太郎は同じ三田派なのに、挨拶もせず、久保田は黙り、佐藤は附近の人と饒舌してた。私は文壇のことなぞ知らぬから、二人が不仲ということも知らず、文士とはそういうものかと思ってた。
その他、私が顔も知らぬ文士が、大勢いたと思うが、階段に近いところに、二老人が、何か仲間外れのように坐っていて、それでもニコニコと、二人で話し合ってた。同行者が、その二人は幸田露伴と上田万年であることを、教えてくれた。
やがて、鮎の塩焼が運ばれ、酒となった。ソバはなかなか出て来なかった。ずいぶん待たしてから、最初のセイロが、座敷の中央に積まれた。打つのに手間どるのか、その数は多くなかった。
そうなると、誰も手を出すのを、遠慮するのだが、やがて佐藤春夫が立ち上って、中央へ出、二つばかり、自分の席へ持ち帰った。その態度に、傍若無人のところがあり、私は気に食わなかった。それに、ソバをとりに行きながら、洩らした言葉が、面白くなかった。
「年寄りは、腹が空かないだろうから、後でいいや」
というようなことを、幸田、上田の二老人に聞えよがしに、いったのである。
すると幸田露伴が、
「年寄りだって腹が空くよ」
というようなことをいい返したようだったが、顔はニコニコ笑ってた。当時の佐藤春夫は、何を書いてたか、忘れたが、流行児であったことは、明らかであり、一方、露伴の方は、再認識がまだ起らない前であり、明治文士の生残りとして、影が薄かった。
私は二人を比較して、佐藤春夫の方が不快だった。従って、露伴が気の毒になって、誰か彼のところへ、ソバを早く持ってってやらぬかと、思った。すると、世話人の校正の神様が、そういうことには気のつく人らしく、やがて、二老人のところへ、セイロを運搬し、ヘンな空気も解消してしまった。
私は最後までソバに手を出す気になれず、やがて、ドッと運ばれた時に、やっと味わって見たが、なかなかうまいソバだった。そして校正の神様に会費を払って、外へ出ると大変美しい月が空にかかってた。仲秋名月というよりも、赤味の多い夏の月の趣だったが、それでも、記憶に残るほどの良夜だった。
でも、私はその晩の会が、愉快でなかった。文士の集まる会へ出たのは、初めてだったが、こんなことならもう止めようと思った。
その後、私も文士の仲間入りして、時には、会合に出ることもあったが、いつも、つまらなかった。近頃は、どんな会合にも(実に会合が多い世の中になった)ご免を蒙っている。最初の時に、失望したからだろう。