最近、都内の料亭で、ナマの白魚を出された。ワサビ醤油で食う仕組みなのだが、どうも手が出なかった。
「お嫌いですか」
と、女将がいうから、
「オドリ食いなら、食うが……」
と、心にもないことをいってしまった。
生きてる白魚を、酢醤油につけて食うのを、最上の珍味のようにいう人もあるが、私はそう思わないのである。口の中で白魚が、飛んだり跳ねたりしたって、くすぐったいだけである。味に格別のことはない。といって、その料亭の白魚のような、グンナリしたのを、口に入れろというのは、ムリな相談である。
私が白魚の味を覚えたのは、四国疎開中だった。それまでは、特に好物というわけでもなかった。
その四国の町に、海に近い川があり、二月の上旬の寒い日に、白魚の群れが上ってくる。肉眼でわかるほど、大群である。それを網ですくうのだが、土地の人はオドリ食いなぞ、ご愛嬌に過ぎないことを知ってるから、誰も汁にする。汁といっても、都会の白魚の吸い物のような上品なものではない。人参やシイタケのセン切りを煮た汁に、多量の白魚を投入するのである。すると、白魚から驚くほどヌメリが出て、中国料理のアツモノのような濃さになる。
そのウマさといったら、生涯に何度も味わえるものではない。ほんとのウマさである。お椀を拝みたくなるほどである。もっとも使う白魚は、オドリ食いにするほどの鮮度でないといけない。
惜しむらくは、白魚がとれるのは、二週間ぐらいしかない。それも、毎日はとれない。それで、一層、珍重なものとなる。そして、魚の形状も、東京の白魚の三分の一ほどの大きさで、名前もシラウオといわず、シライオという。古語だろう。