アフリカ・チョンガーを訪ねるとき、わたしがかならず持ちあるかなくてはならないものがある。愛用のナイフだ。ナイフといっても、エンピツをけずるのに使うような、可愛らしいものではない。短刀のような形をした刃わたり二十センチはある、狩猟用のナイフ。東アフリカでは、サファリ・ナイフと呼ばれるやつだ。
この刃物がなくては、手ぎわのよい日本料理はつくれない。日本料理といえば、ごちそうの中心になるのは魚。魚といっても、アフリカのマーケットで、サシミや切り身を売っているはずはない。七十センチくらいはあるカツオを一匹買ってきて、頭、尾を取り去り、三枚におろして、サシミ、焼物、あらだき、内臓は塩辛にする。
アフリカ流の魚料理だったら、なんでもかでも胴体をブツ切りにして煮てしまう。そこで、ナタのたぐいで切ってしまうのだが、日本風に魚を処理するには、どうしても、出刃庖丁がほしいところだ。
アフリカ・チョンガーでも、器用な人は、サシミくらいだったら、自分にでも出来るだろうと思って、魚を一匹求めてきて、ばらしかけた試みくらいはある。だが、現地で買ったペラペラのクッキング・ナイフでは、どうもうまく魚をおろすことができない。骨をたたき切るわけにはいかないし、皮をうまくはぐことができない。そんなことで、せっかく海に面した都会にいながら、サシミといったら、イカかタコしかたべたことがないという話になってしまう。おまけに、イカのサシミでも、皮をむく手間をおこたって、そのままブツ切りにしてしまうから、噛みづらいことおびただしい、汁気のあるスルメみたいな|代物《しろもの》である。
切れ味のよい薄手の狩猟用ナイフは、万能の調理庖丁となる。また、薪割りやナタの役目もするし、いざという場合の護身用の武器でもある。本来は、獲物の解体、ブッシュでの枝はらいなどに使用するようにつくられている。
日本で登山用ナイフと称して、皮製の鞘に入れて腰からぶらさげるようになっている刃物があった。近頃は、刃物がなければ殺傷事件が減るだろうという、あさはかな迷信のおかげですっかり姿をひそめてしまった。この登山用ナイフをもう少し薄身にして、刃渡りは二十五センチくらいのものが、使いよい狩猟用ナイフである。なんのことはない、日本でいったら、|匕首《あいくち》に当るかっこうのものだ。
タンザニアの首都ダレーサラムの街の鉄砲屋のウインドーで、ゾーリンゲンの使いやすそうなサファリ・ナイフを見つけた。値段は三千五百円。わたしには、高価すぎた。お役所から、わたしに渡された半年分の調査費で、八カ月現地にがんばって仕事を続けようと考えていた。すべてを切りつめなくてはならなかった。
毎日、鉄砲屋の前を通るごとに、このナイフを横目でのぞいていた。そのうちに、刃の輝きはますます光ってみえ、いかにも切れそうであった。誰か買手がついて、ウインドーから姿を消したら、わたしは落胆するであろう。とうとう、誘惑に屈して、ある日わたしは、鉄砲屋のドアを押した。わたしの東アフリカでの一番高額の買物であった。
このナイフで、シマウマの肉を切りとり、サバンナの木を切り倒した。日本へ持ち帰ったら、とたんに目をつけられて、友人にまきあげられてしまった。
愛用の狩猟ナイフの二代目は、友人につくってもらった。腕のよい機械屋の友人は、最上等の鋼棒の芯だけを使って、すばらしい切れ味のナイフをつくってくれた。北アフリカで酷使を重ねたので、ずいぶん刃こぼれがしている。それでも、桃の皮をむくことができるし、ホウレン草のオヒタシのように、やわらかなものを切ることが出来る。ニンニクの一房をミジン切りにすることだって可能だ。背が三ミリほど厚さがあるのに、刃こぼれをしないうちは、サシミをきれいに引き切ることができたのだ。ヒゲそりさえできた。刃先と|鎬《しのぎ》の間の地を削いで凹面にした友人の苦心の作のせいで、薄刃の庖丁同然に切れるのであろう。
切れ味のよい狩猟用ナイフは、本当に重宝なものだ。重量を利用して、ニワトリを骨ごとブツ切りにする。堅いスジ肉をトントンたたいて、細かいヒキ肉のようにする。
ヒキ肉など売ってないオアシスの町で、このナイフがあったばかりに、ハンバーグステーキや、ギョウザを作って、一年振りにチュウインガムのように堅い肉を噛まずにすんだと邦人から感謝された。また、十キロもある大きな肉の塊りから、関節をはずし、骨から肉を筋肉にそってはがしていく作業などにはもってこいだ。薄刃の庖丁では刃が曲ってしまう。
切り身の魚を売ってないところ、肉屋は|斧《おの》で一塊りを切りとって渡してくれるようなところでは、狩猟用ナイフは、欠くことのできない道具だ。わたしが、アフリカまで行くと料理の名人にされるのは、庖丁によるところが大きい。
むかしの家だったら、出刃庖丁、さしみ庖丁、菜切り庖丁の三種は、台所においてあったものだ。理想をいったら、この三種の日本庖丁に、ペティ・ナイフを加えた四本があったら、どんな材料、どこの国の料理でも切りさばくことが可能である。
だが、実際問題として、四本も庖丁をそろえることは、財布が許さないであろうし、その手入れもたいへんである。とくに、地金と鋼をはり合わせてつくってある日本庖丁は、やわらかな手ごたえのある気持のよい刃物だが、それだけに、使ったあとがめんどうである。水気をよくぬぐわないでおくと、翌日の料理に鉄のいやなにおいがつくことがあるし、出刃庖丁、サシミ庖丁のようにふだんあまり使わないものは、おうちゃくをしていると、いつの間にか赤さびにおおわれてしまう。
最近の女どもは、刃物はといで使うという大原則を知らない。台所に|砥石《といし》がおいてない家庭がおおい。本当によい日本庖丁は、原理的には日本刀と同じつくりなのである。武士が刀をみがくように、庖丁も、いつもとぎすましておかなくてはならないものである。本当は、毎日一度はとぐことだ。
だが、こんな説教は、いまでは、本職の板前にしか通用しない言いぐさである。家庭での常用の器物は、なるべく維持に手がかからず、それでいて、万能の機能をもつものであるのが望ましい。万能の機能をもつものは、すべての特殊化した用途の場合に、少しずつの欠陥をもつものであるが、目をつぶろう。サシミは魚屋がつくってくれ、肉は肉屋が骨や筋をとりのぞいて売ってくれる、わたしたちの国のことである。よろしい。庖丁は、一本ですますことにしよう。
ステンレス・スティール製で切っ先が三角形の刀身の西洋庖丁一つで、一応の料理はことたりよう。そのかわりに、安物だけは買わないこと。切れ味の悪い刃物を使うほど、いらだたしいことはない。庖丁は台所用品のなかで、一番ケチをしてはいけない道具である。よい庖丁を持つことが、料理上手になる秘訣である。
刃物は使いようともいう。庖丁の使いかたで、一番の原則は、やわらかなものは引き切ること、野菜のように硬いものは押し切ることの二点である。案外、こんな刃物の使い方の原理を知らない人が多いのである。ガマの油をつけると、紙も切れなくなるという、|香具師《やし》の実演のさいは、やわらかな紙に刀を押しつけるようにするのである。
サシミを押して切ったら、切り口がなめらかではないし、肉がばらばらになることすらある。手前へ引きながら一息に切ったらよいのである。ただしトウフのような生物組織のないものは例外。
キュウリやキャベツは押して切る。野菜を押し切る場合には、トントンという音が規則的に聞えるようだったら、まちがいがない。モールス信号のように、不規則な音がする場合には、厚さが平均に切れておらず、厚いものと薄いものが雑居している。こんなしたごしらえの材料を使うと、味のしみたものと、しみないもの、煮あがったものと、生煮えのものがまじりあうことになってしまう。
庖丁とマナ板は、日本ではつきもので、この二つが一つのセットを構成するのだが、アフリカの多くの場所では、マナ板のない台所が多い。材料を手に持って宙でけずりとるように切って、したにおいたナベあるいは容器に落す。ヨーロッパの家庭では、マナ板に相当するものがあっても、円形のナベブタのような可愛らしいものを使っていることが普通のようだ。中国のマナ板は、ギョウザ屋でごぞんじの通り、木の切り株のようなもの。重量感のある中国の庖丁を使うには、絶好の台であるが、これではサシミを作るのはむずかしかろう。
リビア砂漠では、マナ板にする板を手に入れるのに苦労したことであった。
この刃物がなくては、手ぎわのよい日本料理はつくれない。日本料理といえば、ごちそうの中心になるのは魚。魚といっても、アフリカのマーケットで、サシミや切り身を売っているはずはない。七十センチくらいはあるカツオを一匹買ってきて、頭、尾を取り去り、三枚におろして、サシミ、焼物、あらだき、内臓は塩辛にする。
アフリカ流の魚料理だったら、なんでもかでも胴体をブツ切りにして煮てしまう。そこで、ナタのたぐいで切ってしまうのだが、日本風に魚を処理するには、どうしても、出刃庖丁がほしいところだ。
アフリカ・チョンガーでも、器用な人は、サシミくらいだったら、自分にでも出来るだろうと思って、魚を一匹求めてきて、ばらしかけた試みくらいはある。だが、現地で買ったペラペラのクッキング・ナイフでは、どうもうまく魚をおろすことができない。骨をたたき切るわけにはいかないし、皮をうまくはぐことができない。そんなことで、せっかく海に面した都会にいながら、サシミといったら、イカかタコしかたべたことがないという話になってしまう。おまけに、イカのサシミでも、皮をむく手間をおこたって、そのままブツ切りにしてしまうから、噛みづらいことおびただしい、汁気のあるスルメみたいな|代物《しろもの》である。
切れ味のよい薄手の狩猟用ナイフは、万能の調理庖丁となる。また、薪割りやナタの役目もするし、いざという場合の護身用の武器でもある。本来は、獲物の解体、ブッシュでの枝はらいなどに使用するようにつくられている。
日本で登山用ナイフと称して、皮製の鞘に入れて腰からぶらさげるようになっている刃物があった。近頃は、刃物がなければ殺傷事件が減るだろうという、あさはかな迷信のおかげですっかり姿をひそめてしまった。この登山用ナイフをもう少し薄身にして、刃渡りは二十五センチくらいのものが、使いよい狩猟用ナイフである。なんのことはない、日本でいったら、|匕首《あいくち》に当るかっこうのものだ。
タンザニアの首都ダレーサラムの街の鉄砲屋のウインドーで、ゾーリンゲンの使いやすそうなサファリ・ナイフを見つけた。値段は三千五百円。わたしには、高価すぎた。お役所から、わたしに渡された半年分の調査費で、八カ月現地にがんばって仕事を続けようと考えていた。すべてを切りつめなくてはならなかった。
毎日、鉄砲屋の前を通るごとに、このナイフを横目でのぞいていた。そのうちに、刃の輝きはますます光ってみえ、いかにも切れそうであった。誰か買手がついて、ウインドーから姿を消したら、わたしは落胆するであろう。とうとう、誘惑に屈して、ある日わたしは、鉄砲屋のドアを押した。わたしの東アフリカでの一番高額の買物であった。
このナイフで、シマウマの肉を切りとり、サバンナの木を切り倒した。日本へ持ち帰ったら、とたんに目をつけられて、友人にまきあげられてしまった。
愛用の狩猟ナイフの二代目は、友人につくってもらった。腕のよい機械屋の友人は、最上等の鋼棒の芯だけを使って、すばらしい切れ味のナイフをつくってくれた。北アフリカで酷使を重ねたので、ずいぶん刃こぼれがしている。それでも、桃の皮をむくことができるし、ホウレン草のオヒタシのように、やわらかなものを切ることが出来る。ニンニクの一房をミジン切りにすることだって可能だ。背が三ミリほど厚さがあるのに、刃こぼれをしないうちは、サシミをきれいに引き切ることができたのだ。ヒゲそりさえできた。刃先と|鎬《しのぎ》の間の地を削いで凹面にした友人の苦心の作のせいで、薄刃の庖丁同然に切れるのであろう。
切れ味のよい狩猟用ナイフは、本当に重宝なものだ。重量を利用して、ニワトリを骨ごとブツ切りにする。堅いスジ肉をトントンたたいて、細かいヒキ肉のようにする。
ヒキ肉など売ってないオアシスの町で、このナイフがあったばかりに、ハンバーグステーキや、ギョウザを作って、一年振りにチュウインガムのように堅い肉を噛まずにすんだと邦人から感謝された。また、十キロもある大きな肉の塊りから、関節をはずし、骨から肉を筋肉にそってはがしていく作業などにはもってこいだ。薄刃の庖丁では刃が曲ってしまう。
切り身の魚を売ってないところ、肉屋は|斧《おの》で一塊りを切りとって渡してくれるようなところでは、狩猟用ナイフは、欠くことのできない道具だ。わたしが、アフリカまで行くと料理の名人にされるのは、庖丁によるところが大きい。
むかしの家だったら、出刃庖丁、さしみ庖丁、菜切り庖丁の三種は、台所においてあったものだ。理想をいったら、この三種の日本庖丁に、ペティ・ナイフを加えた四本があったら、どんな材料、どこの国の料理でも切りさばくことが可能である。
だが、実際問題として、四本も庖丁をそろえることは、財布が許さないであろうし、その手入れもたいへんである。とくに、地金と鋼をはり合わせてつくってある日本庖丁は、やわらかな手ごたえのある気持のよい刃物だが、それだけに、使ったあとがめんどうである。水気をよくぬぐわないでおくと、翌日の料理に鉄のいやなにおいがつくことがあるし、出刃庖丁、サシミ庖丁のようにふだんあまり使わないものは、おうちゃくをしていると、いつの間にか赤さびにおおわれてしまう。
最近の女どもは、刃物はといで使うという大原則を知らない。台所に|砥石《といし》がおいてない家庭がおおい。本当によい日本庖丁は、原理的には日本刀と同じつくりなのである。武士が刀をみがくように、庖丁も、いつもとぎすましておかなくてはならないものである。本当は、毎日一度はとぐことだ。
だが、こんな説教は、いまでは、本職の板前にしか通用しない言いぐさである。家庭での常用の器物は、なるべく維持に手がかからず、それでいて、万能の機能をもつものであるのが望ましい。万能の機能をもつものは、すべての特殊化した用途の場合に、少しずつの欠陥をもつものであるが、目をつぶろう。サシミは魚屋がつくってくれ、肉は肉屋が骨や筋をとりのぞいて売ってくれる、わたしたちの国のことである。よろしい。庖丁は、一本ですますことにしよう。
ステンレス・スティール製で切っ先が三角形の刀身の西洋庖丁一つで、一応の料理はことたりよう。そのかわりに、安物だけは買わないこと。切れ味の悪い刃物を使うほど、いらだたしいことはない。庖丁は台所用品のなかで、一番ケチをしてはいけない道具である。よい庖丁を持つことが、料理上手になる秘訣である。
刃物は使いようともいう。庖丁の使いかたで、一番の原則は、やわらかなものは引き切ること、野菜のように硬いものは押し切ることの二点である。案外、こんな刃物の使い方の原理を知らない人が多いのである。ガマの油をつけると、紙も切れなくなるという、|香具師《やし》の実演のさいは、やわらかな紙に刀を押しつけるようにするのである。
サシミを押して切ったら、切り口がなめらかではないし、肉がばらばらになることすらある。手前へ引きながら一息に切ったらよいのである。ただしトウフのような生物組織のないものは例外。
キュウリやキャベツは押して切る。野菜を押し切る場合には、トントンという音が規則的に聞えるようだったら、まちがいがない。モールス信号のように、不規則な音がする場合には、厚さが平均に切れておらず、厚いものと薄いものが雑居している。こんなしたごしらえの材料を使うと、味のしみたものと、しみないもの、煮あがったものと、生煮えのものがまじりあうことになってしまう。
庖丁とマナ板は、日本ではつきもので、この二つが一つのセットを構成するのだが、アフリカの多くの場所では、マナ板のない台所が多い。材料を手に持って宙でけずりとるように切って、したにおいたナベあるいは容器に落す。ヨーロッパの家庭では、マナ板に相当するものがあっても、円形のナベブタのような可愛らしいものを使っていることが普通のようだ。中国のマナ板は、ギョウザ屋でごぞんじの通り、木の切り株のようなもの。重量感のある中国の庖丁を使うには、絶好の台であるが、これではサシミを作るのはむずかしかろう。
リビア砂漠では、マナ板にする板を手に入れるのに苦労したことであった。