薄く切った肉を皿にならべて売っているのは、日本くらいのものだ。外国では肉を、塊りのまま売っている。肉二百グラムというような買物は、たいへんむずかしい。最低一ポンドとか、半キロ単位で買ってゆく。
アフリカの市場などでは、牛一頭を天井からぶらさげて、お客の注文を聞いては、ナタやマサカリで脚を半分くらいにぶった切って渡してくれる。皮ははいであるが、筋はついたまま。シチューなどだったら、そのままブツ切りにして、長く煮込んだら、何とかたべられるが、ビフテキなどにしたら、入歯の人など噛み切れるものではない。なにしろ、サバンナで、きびしい生活をしていた牛だ。筋だらけ、腱だけが発達して、脂肪などありはしない。
肉を買ってきたら、まず料理の前に、筋を全部とりのぞかなくてはならない。筋肉にそって、切れるナイフを入れて、枝肉を分けておいて、白い筋を一つ一つていねいにはがしてゆく。実にめんどうくさい、時間のかかる作業だ。いくたびとなく、こんなことをしているうちに、わたしも肉屋の小僧くらいはつとまるようになった。
アフリカでも白人相手の肉屋や、ヨーロッパの町の肉屋では、さすがに筋は取りのぞいてある。だが、薄く切った肉は置いてない。スキヤキとかシャブシャブがたべたいときには、ハムを切る機械で一番薄く切らせることだ。
まちがっても、肉屋のオヤジに庖丁で切らせてはだめだ。
「オマエサンの技術の許す限り、もっとも薄く、スライスしろ」
などといったところで、太い指をしたオッサンのことだ(どうして西洋の肉屋のオヤジは皆あんなに太り、どうしてあんなにまんまるい指をしているのだろう)。
「ダンナ、紙のように薄く切ったぜ」
と自慢そうにさしだしてくれても、厚さ五ミリは確実にある。スキヤキにしたら、肉がくるくると巻きあがることがなく、いつまでもピンとつっぱったまま、ステーキのようになってしまう。
肉屋にハム切りの機械がなかったり、骨つき肉で機械が使えないときはどうするか。切れ味のよい肉切庖丁と砥石があって、しかも、あなたの庖丁の腕がさえているのだったら話は別だが、さもなければ、肉の味が少々おちるのを覚悟のうえで、肉塊を冷蔵庫の冷凍室に入れて、カチンカチンに凍らしてしまう。
凍って堅くなった肉を、ノコギリで木を引くように、庖丁で切ったら、紙のように薄くも切ることが可能である。
アフリカの市場などでは、牛一頭を天井からぶらさげて、お客の注文を聞いては、ナタやマサカリで脚を半分くらいにぶった切って渡してくれる。皮ははいであるが、筋はついたまま。シチューなどだったら、そのままブツ切りにして、長く煮込んだら、何とかたべられるが、ビフテキなどにしたら、入歯の人など噛み切れるものではない。なにしろ、サバンナで、きびしい生活をしていた牛だ。筋だらけ、腱だけが発達して、脂肪などありはしない。
肉を買ってきたら、まず料理の前に、筋を全部とりのぞかなくてはならない。筋肉にそって、切れるナイフを入れて、枝肉を分けておいて、白い筋を一つ一つていねいにはがしてゆく。実にめんどうくさい、時間のかかる作業だ。いくたびとなく、こんなことをしているうちに、わたしも肉屋の小僧くらいはつとまるようになった。
アフリカでも白人相手の肉屋や、ヨーロッパの町の肉屋では、さすがに筋は取りのぞいてある。だが、薄く切った肉は置いてない。スキヤキとかシャブシャブがたべたいときには、ハムを切る機械で一番薄く切らせることだ。
まちがっても、肉屋のオヤジに庖丁で切らせてはだめだ。
「オマエサンの技術の許す限り、もっとも薄く、スライスしろ」
などといったところで、太い指をしたオッサンのことだ(どうして西洋の肉屋のオヤジは皆あんなに太り、どうしてあんなにまんまるい指をしているのだろう)。
「ダンナ、紙のように薄く切ったぜ」
と自慢そうにさしだしてくれても、厚さ五ミリは確実にある。スキヤキにしたら、肉がくるくると巻きあがることがなく、いつまでもピンとつっぱったまま、ステーキのようになってしまう。
肉屋にハム切りの機械がなかったり、骨つき肉で機械が使えないときはどうするか。切れ味のよい肉切庖丁と砥石があって、しかも、あなたの庖丁の腕がさえているのだったら話は別だが、さもなければ、肉の味が少々おちるのを覚悟のうえで、肉塊を冷蔵庫の冷凍室に入れて、カチンカチンに凍らしてしまう。
凍って堅くなった肉を、ノコギリで木を引くように、庖丁で切ったら、紙のように薄くも切ることが可能である。