海外で仕事をしていると、わたしのような若僧でも、ずいぶんえらい人びとといっしょに食事をすることがあった。大統領のレセプションに出席したこともある。レセプションというのは、肩がこるものである。ただでは、食事をさせてくれない。食事代として支払わねばならないテーブル・スピーチの内容を考えながら、ナイフとフォークをとっていると、せっかくのごちそうも味気ないものになってしまう。
東アフリカ・アカデミーの第四回シンポジュウムが、ウガンダのマケレレ大学で、一九六六年にひらかれた。各国のアフリカ研究者が集まる国際学会である。どういうわけか、わたしはこの学会へ日本代表という資格で出席することになってしまった。
このとき、学会主催の晩餐会なるものがあった。招待状に書かれた会場へ行くと学者のほかにディナージャケットに身をかためた政府の高官たちが沢山いる。末席にすわろうとすると幹事役がとんできて、オマエの席はこちらだと、メインテーブルに追いこまれた。これはめんどうなことになったぞと内心おそれをなしていたら、あんのじょう学会の会長がテーブル・スピーチをやってくれと耳うちをしてきた。特に外国代表から三人ほどえらんで、食前のスピーチをしてもらうことになったので、よろしくたのむとのことだ。
まず最初に、中共代表の演説。通訳をつれてきている。「偉大なる毛沢東主席の下にかぎりなき躍進をとげつつあるわれら中華人民共和国の人民を代表して、アフリカの同志にアイサツをおくる……」というようなことを中国語で代表がしゃべると、通訳が実にあざやかな英語に翻訳をして伝える。つぎのアメリカ合衆国アカデミーの代表のメッセージがりっぱな英語なのは、あたりまえだ。
まがりなりにも、わたしも日本代表だ。あんまり下手な演説をして、日本の学界がさげすまれるようになっては申し訳ない。しゃべる内容はなんとか形をつけることができるとしても、英語の能力では通訳氏やアメリカ代表氏にかなうはずがない。学会の公用語は英語である。植民地であった場所の常として、学識イコール英語能力ということで、人間の才能が評価される傾向がつよい。さて困ったことだ。
まあ、度胸でやってやれ。わたしは立ちあがって、下手くそながら大声の英語でしゃべりはじめた。一応のアイサツや日本での東アフリカ研究の現状のようなことをしゃべったのちに、わたしは東アフリカの人びとに対する謝辞をのべる演説の部分をスワヒリ語に切りかえてしゃべった。聞き手の大半は、アフリカ人である。また、東アフリカを研究している人びとの集まりなのだから、東アフリカの共通語のスワヒリ語でしゃべってもさしつかえないだろうと考えたのである。習いたてのおぼつかないスワヒリ語でも、皆にわかってもらえたらしい。とくに、アフリカ人の学者たちが喜んでくれた。わたしの短いスピーチに、中共代表、アメリカ代表のときよりもさかんな拍手がわいた。学会の会長も、「ベリーナイス スピーチ」といってくれた。
ほっとして、わたしは、ごちそうの七面鳥を心おきなく味わうことができた。
日本代表ということなので、わたしは学会のお客さんとしてあつかわれ、学会の会期ちゅう、わたしは宿泊、食事ともにタダであった。大学の学生寮にとめてくれたのである。食事は学生食堂でとる。昼食、夕食の内容は、スープ、肉、魚、デザートがついている、ちゃんとした西洋流のコースである。日本の大学生よりもアフリカの大学生のほうが、ずっと栄養の面ではめぐまれている。たいていの学生が、奨学生であり、学費、寮費、食費はタダである。
ところが、この学生食堂での食事が、わたしには苦痛きわまりないものであった。わたしは、学会のお客さんということなので、教授なみのあつかいである。そこで、教授たちと同じテーブルにつかなくてはならない。東アフリカの大学の先生は、たいていがイギリス人である。独身で赴任している人も多い。イギリスの寮制をとったカレッジなので独身の先生は寮のなかに部屋をもち学生の個人的指導にあたり、食事も学生食堂でとるのだ。
学生食堂には、ハイテーブルというものがある。広い食堂のなかに教壇のように一段高い場所がある。この教壇のうえに、先生がたの食卓はならんでいるのである。教壇のうえでたべる食事は、思いだしても身ぶるいするようなものだった。教百人の学生の眼を意識しながら、ナイフとフォークを使わなくてはならない。ガチャンと派手な音をたてて、ナイフを皿においたら、何百人かの視線がそそがれる。おまけに、となりあわせた教授方とは小声で和気あいあいとした会話をとりかわしながら、食事を進行させなくてはならない。ハイテーブルでの食事が一週間もつづくうちに、わたしは自分がノイローゼ性の胃潰瘍になるのではないかと心配したことだ。
とかく、えらい人といっしょに食事をするのは、かなわないことだ。大変なごちそうをいただいても、味など、うわのそらのこととなってしまう。それに料理そのものも専属のコックが献立をつくって、どこか見えない場所で調理したものがテーブルの上にならび、主人も料理については関知しない、というレストランでたべるのと同じ性質の食事になることがおおい。主婦の手料理などはまず味わえない。だが、わたしは大変えらい人の招待で、こころのこもったもてなしをうけた忘れがたい記憶がある。現在のトンガ国王の招餐に連なったときのことである。
東アフリカ・アカデミーの第四回シンポジュウムが、ウガンダのマケレレ大学で、一九六六年にひらかれた。各国のアフリカ研究者が集まる国際学会である。どういうわけか、わたしはこの学会へ日本代表という資格で出席することになってしまった。
このとき、学会主催の晩餐会なるものがあった。招待状に書かれた会場へ行くと学者のほかにディナージャケットに身をかためた政府の高官たちが沢山いる。末席にすわろうとすると幹事役がとんできて、オマエの席はこちらだと、メインテーブルに追いこまれた。これはめんどうなことになったぞと内心おそれをなしていたら、あんのじょう学会の会長がテーブル・スピーチをやってくれと耳うちをしてきた。特に外国代表から三人ほどえらんで、食前のスピーチをしてもらうことになったので、よろしくたのむとのことだ。
まず最初に、中共代表の演説。通訳をつれてきている。「偉大なる毛沢東主席の下にかぎりなき躍進をとげつつあるわれら中華人民共和国の人民を代表して、アフリカの同志にアイサツをおくる……」というようなことを中国語で代表がしゃべると、通訳が実にあざやかな英語に翻訳をして伝える。つぎのアメリカ合衆国アカデミーの代表のメッセージがりっぱな英語なのは、あたりまえだ。
まがりなりにも、わたしも日本代表だ。あんまり下手な演説をして、日本の学界がさげすまれるようになっては申し訳ない。しゃべる内容はなんとか形をつけることができるとしても、英語の能力では通訳氏やアメリカ代表氏にかなうはずがない。学会の公用語は英語である。植民地であった場所の常として、学識イコール英語能力ということで、人間の才能が評価される傾向がつよい。さて困ったことだ。
まあ、度胸でやってやれ。わたしは立ちあがって、下手くそながら大声の英語でしゃべりはじめた。一応のアイサツや日本での東アフリカ研究の現状のようなことをしゃべったのちに、わたしは東アフリカの人びとに対する謝辞をのべる演説の部分をスワヒリ語に切りかえてしゃべった。聞き手の大半は、アフリカ人である。また、東アフリカを研究している人びとの集まりなのだから、東アフリカの共通語のスワヒリ語でしゃべってもさしつかえないだろうと考えたのである。習いたてのおぼつかないスワヒリ語でも、皆にわかってもらえたらしい。とくに、アフリカ人の学者たちが喜んでくれた。わたしの短いスピーチに、中共代表、アメリカ代表のときよりもさかんな拍手がわいた。学会の会長も、「ベリーナイス スピーチ」といってくれた。
ほっとして、わたしは、ごちそうの七面鳥を心おきなく味わうことができた。
日本代表ということなので、わたしは学会のお客さんとしてあつかわれ、学会の会期ちゅう、わたしは宿泊、食事ともにタダであった。大学の学生寮にとめてくれたのである。食事は学生食堂でとる。昼食、夕食の内容は、スープ、肉、魚、デザートがついている、ちゃんとした西洋流のコースである。日本の大学生よりもアフリカの大学生のほうが、ずっと栄養の面ではめぐまれている。たいていの学生が、奨学生であり、学費、寮費、食費はタダである。
ところが、この学生食堂での食事が、わたしには苦痛きわまりないものであった。わたしは、学会のお客さんということなので、教授なみのあつかいである。そこで、教授たちと同じテーブルにつかなくてはならない。東アフリカの大学の先生は、たいていがイギリス人である。独身で赴任している人も多い。イギリスの寮制をとったカレッジなので独身の先生は寮のなかに部屋をもち学生の個人的指導にあたり、食事も学生食堂でとるのだ。
学生食堂には、ハイテーブルというものがある。広い食堂のなかに教壇のように一段高い場所がある。この教壇のうえに、先生がたの食卓はならんでいるのである。教壇のうえでたべる食事は、思いだしても身ぶるいするようなものだった。教百人の学生の眼を意識しながら、ナイフとフォークを使わなくてはならない。ガチャンと派手な音をたてて、ナイフを皿においたら、何百人かの視線がそそがれる。おまけに、となりあわせた教授方とは小声で和気あいあいとした会話をとりかわしながら、食事を進行させなくてはならない。ハイテーブルでの食事が一週間もつづくうちに、わたしは自分がノイローゼ性の胃潰瘍になるのではないかと心配したことだ。
とかく、えらい人といっしょに食事をするのは、かなわないことだ。大変なごちそうをいただいても、味など、うわのそらのこととなってしまう。それに料理そのものも専属のコックが献立をつくって、どこか見えない場所で調理したものがテーブルの上にならび、主人も料理については関知しない、というレストランでたべるのと同じ性質の食事になることがおおい。主婦の手料理などはまず味わえない。だが、わたしは大変えらい人の招待で、こころのこもったもてなしをうけた忘れがたい記憶がある。現在のトンガ国王の招餐に連なったときのことである。
そのむかし、タンガロア神が糸をたれて釣りあげたというトンガの島じま。瀬戸内海から任意に二百の島をえらんで、南太平洋にぶちまけて、ココヤシを植える。この星くずみたいな小さな島じまのあつまりがトンガ王国。総面積が琵琶湖ほどの大きさ。人口約七万人。ニュージーランドの北東約千七百五十キロの地点に首島トンガタプがある。
トンガの主な産物はココヤシの脂肪であるコプラだ。トンガ国民なら、男子が十六歳になったら八エーカー四分の一の農地と、村のなかに五分の三エーカーの宅地を国家から受けとることができる。トンガでは、班田収授の法が生きているのである。農地には現金作物のココヤシを植え、ヤシの木の下で主食のイモ類をつくる。たべるのに困る者は一人もいない。一年じゅうシャツ一枚ですごせる。住民は体格がよく、美人ぞろいのポリネシア民族。注意ぶかく観察したらトンガにはトンガなりのなやみがあるのだが、皮相的にみた場合は、南海の楽園というイメージを絵にしたようなところだ。
一九六〇年、わたしはトンガにいた。京都大学探検部トンガ王国調査隊の一員であった。隊長の藪内芳彦さん(大阪市立大学教授)、副隊長の藤岡喜愛さん(京都大学人文科学研究所員)をのぞいた五名の隊員は、みな探検部の若い学生たちであった。わたしは、大学の三年生。はじめての遠征であった。
わたしたちの調査隊は、現在のトンガ国王ツポウ二世——そのころは故サローテ女王のもとで皇太子兼総理大臣で、ツンギ殿下とよばれていた——に大変お世話になった。ツンギ殿下は実に英明な方である。中共とロシア以外の世界じゅうを旅行されている。それも、ただの見物旅行ではない。トンガの開発に役立つ技術を導入するための旅行である。
たとえば日本からは漁業技術を導入し、オランダでは国営会社のため汽船を買いつけるといった工合である。日本へ来たら力士で通用するくらいの体格のよい人びとが多いトンガの王さまになられた方のことである。トンガ人の代表として恥かしくない巨体をしておられる。
飛行機に乗るときは、二人ぶんのシートを占領される。大変な親日家で日本を三度訪問された。わたしたちが、トンガへ出かけるまえにも、日本へ漁船を買いにおいでになったので、京都でレセプションをもよおしたことがある。そのお返しというわけではないであろうが、わたしたちがトンガに滞在中、何度かツンギ殿下の招待をうけた。その皇太子殿下のおもてなしのひとつを記してみよう。
トンガの主な産物はココヤシの脂肪であるコプラだ。トンガ国民なら、男子が十六歳になったら八エーカー四分の一の農地と、村のなかに五分の三エーカーの宅地を国家から受けとることができる。トンガでは、班田収授の法が生きているのである。農地には現金作物のココヤシを植え、ヤシの木の下で主食のイモ類をつくる。たべるのに困る者は一人もいない。一年じゅうシャツ一枚ですごせる。住民は体格がよく、美人ぞろいのポリネシア民族。注意ぶかく観察したらトンガにはトンガなりのなやみがあるのだが、皮相的にみた場合は、南海の楽園というイメージを絵にしたようなところだ。
一九六〇年、わたしはトンガにいた。京都大学探検部トンガ王国調査隊の一員であった。隊長の藪内芳彦さん(大阪市立大学教授)、副隊長の藤岡喜愛さん(京都大学人文科学研究所員)をのぞいた五名の隊員は、みな探検部の若い学生たちであった。わたしは、大学の三年生。はじめての遠征であった。
わたしたちの調査隊は、現在のトンガ国王ツポウ二世——そのころは故サローテ女王のもとで皇太子兼総理大臣で、ツンギ殿下とよばれていた——に大変お世話になった。ツンギ殿下は実に英明な方である。中共とロシア以外の世界じゅうを旅行されている。それも、ただの見物旅行ではない。トンガの開発に役立つ技術を導入するための旅行である。
たとえば日本からは漁業技術を導入し、オランダでは国営会社のため汽船を買いつけるといった工合である。日本へ来たら力士で通用するくらいの体格のよい人びとが多いトンガの王さまになられた方のことである。トンガ人の代表として恥かしくない巨体をしておられる。
飛行機に乗るときは、二人ぶんのシートを占領される。大変な親日家で日本を三度訪問された。わたしたちが、トンガへ出かけるまえにも、日本へ漁船を買いにおいでになったので、京都でレセプションをもよおしたことがある。そのお返しというわけではないであろうが、わたしたちがトンガに滞在中、何度かツンギ殿下の招待をうけた。その皇太子殿下のおもてなしのひとつを記してみよう。
ある日、わたしたちはツンギ殿下の別荘に招待された。殿下の別荘は、トンガタプ島の首都ヌクアロファの町の海岸からみえるパンガイモツ島にある。十五分もあるいたら、島を一周できるような小島だが、この島全体が殿下の所有地である。
ヌクアロファの港から、宮内庁さしまわしの御用船——長さ七メートルくらいのヨット——に乗りこみ、三十分ほど珊瑚礁の海を渡る。パンガイモツ島の近くにくると、浅瀬で貝や魚をとっている人びとの一団にあう。これは、皇太子の直轄領に住む人びとが、わたしたちの宴席のためのごちそうの材料を集めているのだとのこと。
パンガイモツ島は平らな珊瑚島で、珊瑚礁がくだけてできたまっ白な砂浜がヤシ林につづいている。浜辺にツンギ殿下が出迎えられていた。
今回の招待は非公式なものだから、わたしたちにもなるべく楽な服装をしてくるようにというお達しがあったのだが、殿下のいでたちといえば、横綱クラスのお身体の頭にサイゴンで求めた|苦力《クーリー》ハット、足には長さが五十センチもあるオランダの木靴、トンガ風の腰布をまきつけたうえに、まっ赤なアロハシャツを着て、ノッシノッシとあらわれた。まるで海坊主のお化けだ(こんな不敬なじょうだんを言っても、気を悪くなさるような方ではない)。
藪内隊長以下、召使いに背負われて上陸した。わたしだけ、召使いをことわって、ヨットのへさきから浜をめがけて飛降りた。ところが目測をあやまって、海のなかにザブンとはまってしまった。ずぶぬれのまま、握手してごあいさつをすませた。
浜辺のトンガ風の家屋のなかに招じ入れられる。トンガの家は楕円形の床をしている。屋根も、壁もヤシの葉ぶきで風通しがよく涼しい。床には、パンダナスの葉で編んだアンペラが何重にもしきつめてあり、タタミよりも坐り心地がよい。一同床のうえにアグラを組んで、お話し申しあげる。貴人のまえでアグラを組んでも、失礼にはあたらない。トンガの慣習ではアグラが正式のすわりかたである。
殿下がわたしに、「ぬれたズボンを脱げ、かわかしておこう」とおっしゃる。おおせにしたがい家の外へ出て、ズボンをとろうとすると「そのまま、そのまま、苦しゅうない」とのこと。そこで殿下のまえで、パンツ一つの姿になって、ズボンを宮内大臣らしいオジさんに渡し、与えられたトンガ人のまとう腰布をまきつける。
殿下との会話はウイットと知的な雰囲気にあふれたものであった。そのときの話題のひとつ、ポリネシア民族の移動に関する最近の学説もよくごぞんじである。ポリネシア民族が海図もなしに大航海をすることができたのは、海のうえで渡り鳥の方向を常に観察して航路を定めていたのではないかとの殿下の意見をのべられた。かつての大航海民族の神聖な王の子孫である殿下は、航海に関するなみなみならぬ知識と経験をたくわえておられる。ご自身でヨットをあやつって、三百キロはなれたババウ群島まで帆走されることもあるのだ。
座談が一区切りついたところで、一同ハダシのまま浜辺に出る。殿下にならって、服を砂のうえに脱ぎ捨てて、カヌーに乗りこむ。殿下みずからカヌーをこがれて珊瑚礁を案内される。ときどき、こぐ手をやすめて、海のなかへとびこんで、一分くらいもぐっては海草を一つかみとってこられて、「日本人はこの海草をたべるか?」というような質問をなされる。殿下について、わたしたちも泳ぐ。島につくときみた貝ひろいの人びとのところへいくと、とりたてのウミウシをナイフで切ってハラワタをとりだして、海水で洗ってさしだしてくれる。海のなかでオードブルのコースがはやくもはじまったのだ。
浜辺にもどると、食事場がしつらえてある。木を切り倒して柱とし、簡単な枠組をつくったうえに、切り落したばかりのヤシの葉をのせて屋根とする。壁は大きな樹皮布をたらして、日よけにする。床にはパンダナスのアンペラをしいてある。ヤシの葉の屋根がみずみずしい。海をみながらの食事だ。
一同、からだから潮水をしたたらせながらアンペラのうえにすわり、食前のビールを飲む。皇太子妃(現在のマタッア王妃)が席につかれ、誰か料理にくわしい者はいないかと御下問になった。わたしが、名のりでると、「きょうはタコがとれたが、日本風に料理してもてなしたいので、つくり方を教えよ」とのことであった。
トンガ人もタコをよくたべる。トンガでの一般的なタコ料理は、タコの生干しのココナツソースだきである。つまり、タコの頭のなかの臓物をとり去って、木の枝に半日以上ひっかけておき、タコの生乾きの干物をつくる。これをブツ切りにして、ココナツソースでにこむのである。
わたしは皇太子妃に、「大変簡単な日本流のタコのたべかたをお教えいたします。塩を加えた熱湯でタコをゆで、タコがまっ赤になったらとり出して、スライスなさってください。これに、ライムの汁をたっぷりかけたら、日本で酢ダコと呼ぶ料理になります」とお答えした。
おつきの者の合図で料理が運びこまれる。大の男が四人でエッサエッサと料理をかついでくる。それもそのはず、今日のメインコースはあとでのべるウム料理の技法で丸焼きにした体長一・五メートル以上あるブタ二頭である。
ブタは、大きなアンペラのうえにのっている。今日、木から落したココヤシの葉で長さ二メートル以上のアンペラをあむ。このアンペラがオゼンの役をする。アンペラのうえに、新鮮なバナナの葉をしきつめて、そのうえに食物をならべる。アンペラも、バナナの葉も食事がおわったら捨ててしまう。トンガでは、人をもてなすたびに使い捨てのオゼンと皿がつくられるわけだ。
お客は長方形のアンペラのオゼンの両側に向いあって、アグラを組んですわる。たべるときは手づかみだ。イスラム文化のように、左手で食物をさわってはいけないというタブーはない。
この日のブタのほかの料理をあげてみよう。海でたべたのと同じウミウシのハラワタにライムをしぼりこんだオードブル。日本酒によく合いそうなオツな味だ。さきほど殿下が潜っては示された食用になる海草とヤサイでつくったサラダ。丸のままのニワトリをココナツソースであえてタロイモの葉でくるんで、穴のなかでむし焼きにしたウム料理。パンの実をすりつぶして醗酵させたものをタロイモの葉でくるんでむし焼きにしたもの。これは甘酸っぱい味のあるプディングだ。一つで五キロ以上の重さがあるタロイモ、ヤムイモを焼いたもの。それに、皇太子妃に料理法を伝授申しあげたスダコであった。
「ブタの丸焼きで、一番うまい部分は皮のところだ」と殿下は説明しながら、ブタの皮を大きな手で器用にはいでは、わたしたちにおすすめになる。火がよく通ったブタの丸焼きは、皮がキツネ色で、パリパリとはぐとまるでセンベイみたいだ。かむと口のなかで気持のよい音をたててくだけ、香ばしいかおりがする。北京料理の|鴨子《カオヤーヅ》では、丸焼きにしたアヒルの皮を同じように賞味することを思い出した。
殿下は、「トンガ人と日本人の胃袋の大きさを実地にくらべてみよう」と、わたしたちにたくさんたべることをおすすめになった。わたしたちは、探検部の若い学生がほとんどなので、大いにがんばって胃袋につめこんだ。しかし、一同がもうこれ以上は、とてもたべきれないと音をあげたときでも、食いつくすどころか、ごちそうの十分の一くらいしか減っていなかった。
トンガのしきたりでは、宴会での料理はお客にはとてもたべきれないほどつくることになっている。お客が残したごちそうで、宴会の準備に働いた人びとが二次会をやるのである。
ヌクアロファの港から、宮内庁さしまわしの御用船——長さ七メートルくらいのヨット——に乗りこみ、三十分ほど珊瑚礁の海を渡る。パンガイモツ島の近くにくると、浅瀬で貝や魚をとっている人びとの一団にあう。これは、皇太子の直轄領に住む人びとが、わたしたちの宴席のためのごちそうの材料を集めているのだとのこと。
パンガイモツ島は平らな珊瑚島で、珊瑚礁がくだけてできたまっ白な砂浜がヤシ林につづいている。浜辺にツンギ殿下が出迎えられていた。
今回の招待は非公式なものだから、わたしたちにもなるべく楽な服装をしてくるようにというお達しがあったのだが、殿下のいでたちといえば、横綱クラスのお身体の頭にサイゴンで求めた|苦力《クーリー》ハット、足には長さが五十センチもあるオランダの木靴、トンガ風の腰布をまきつけたうえに、まっ赤なアロハシャツを着て、ノッシノッシとあらわれた。まるで海坊主のお化けだ(こんな不敬なじょうだんを言っても、気を悪くなさるような方ではない)。
藪内隊長以下、召使いに背負われて上陸した。わたしだけ、召使いをことわって、ヨットのへさきから浜をめがけて飛降りた。ところが目測をあやまって、海のなかにザブンとはまってしまった。ずぶぬれのまま、握手してごあいさつをすませた。
浜辺のトンガ風の家屋のなかに招じ入れられる。トンガの家は楕円形の床をしている。屋根も、壁もヤシの葉ぶきで風通しがよく涼しい。床には、パンダナスの葉で編んだアンペラが何重にもしきつめてあり、タタミよりも坐り心地がよい。一同床のうえにアグラを組んで、お話し申しあげる。貴人のまえでアグラを組んでも、失礼にはあたらない。トンガの慣習ではアグラが正式のすわりかたである。
殿下がわたしに、「ぬれたズボンを脱げ、かわかしておこう」とおっしゃる。おおせにしたがい家の外へ出て、ズボンをとろうとすると「そのまま、そのまま、苦しゅうない」とのこと。そこで殿下のまえで、パンツ一つの姿になって、ズボンを宮内大臣らしいオジさんに渡し、与えられたトンガ人のまとう腰布をまきつける。
殿下との会話はウイットと知的な雰囲気にあふれたものであった。そのときの話題のひとつ、ポリネシア民族の移動に関する最近の学説もよくごぞんじである。ポリネシア民族が海図もなしに大航海をすることができたのは、海のうえで渡り鳥の方向を常に観察して航路を定めていたのではないかとの殿下の意見をのべられた。かつての大航海民族の神聖な王の子孫である殿下は、航海に関するなみなみならぬ知識と経験をたくわえておられる。ご自身でヨットをあやつって、三百キロはなれたババウ群島まで帆走されることもあるのだ。
座談が一区切りついたところで、一同ハダシのまま浜辺に出る。殿下にならって、服を砂のうえに脱ぎ捨てて、カヌーに乗りこむ。殿下みずからカヌーをこがれて珊瑚礁を案内される。ときどき、こぐ手をやすめて、海のなかへとびこんで、一分くらいもぐっては海草を一つかみとってこられて、「日本人はこの海草をたべるか?」というような質問をなされる。殿下について、わたしたちも泳ぐ。島につくときみた貝ひろいの人びとのところへいくと、とりたてのウミウシをナイフで切ってハラワタをとりだして、海水で洗ってさしだしてくれる。海のなかでオードブルのコースがはやくもはじまったのだ。
浜辺にもどると、食事場がしつらえてある。木を切り倒して柱とし、簡単な枠組をつくったうえに、切り落したばかりのヤシの葉をのせて屋根とする。壁は大きな樹皮布をたらして、日よけにする。床にはパンダナスのアンペラをしいてある。ヤシの葉の屋根がみずみずしい。海をみながらの食事だ。
一同、からだから潮水をしたたらせながらアンペラのうえにすわり、食前のビールを飲む。皇太子妃(現在のマタッア王妃)が席につかれ、誰か料理にくわしい者はいないかと御下問になった。わたしが、名のりでると、「きょうはタコがとれたが、日本風に料理してもてなしたいので、つくり方を教えよ」とのことであった。
トンガ人もタコをよくたべる。トンガでの一般的なタコ料理は、タコの生干しのココナツソースだきである。つまり、タコの頭のなかの臓物をとり去って、木の枝に半日以上ひっかけておき、タコの生乾きの干物をつくる。これをブツ切りにして、ココナツソースでにこむのである。
わたしは皇太子妃に、「大変簡単な日本流のタコのたべかたをお教えいたします。塩を加えた熱湯でタコをゆで、タコがまっ赤になったらとり出して、スライスなさってください。これに、ライムの汁をたっぷりかけたら、日本で酢ダコと呼ぶ料理になります」とお答えした。
おつきの者の合図で料理が運びこまれる。大の男が四人でエッサエッサと料理をかついでくる。それもそのはず、今日のメインコースはあとでのべるウム料理の技法で丸焼きにした体長一・五メートル以上あるブタ二頭である。
ブタは、大きなアンペラのうえにのっている。今日、木から落したココヤシの葉で長さ二メートル以上のアンペラをあむ。このアンペラがオゼンの役をする。アンペラのうえに、新鮮なバナナの葉をしきつめて、そのうえに食物をならべる。アンペラも、バナナの葉も食事がおわったら捨ててしまう。トンガでは、人をもてなすたびに使い捨てのオゼンと皿がつくられるわけだ。
お客は長方形のアンペラのオゼンの両側に向いあって、アグラを組んですわる。たべるときは手づかみだ。イスラム文化のように、左手で食物をさわってはいけないというタブーはない。
この日のブタのほかの料理をあげてみよう。海でたべたのと同じウミウシのハラワタにライムをしぼりこんだオードブル。日本酒によく合いそうなオツな味だ。さきほど殿下が潜っては示された食用になる海草とヤサイでつくったサラダ。丸のままのニワトリをココナツソースであえてタロイモの葉でくるんで、穴のなかでむし焼きにしたウム料理。パンの実をすりつぶして醗酵させたものをタロイモの葉でくるんでむし焼きにしたもの。これは甘酸っぱい味のあるプディングだ。一つで五キロ以上の重さがあるタロイモ、ヤムイモを焼いたもの。それに、皇太子妃に料理法を伝授申しあげたスダコであった。
「ブタの丸焼きで、一番うまい部分は皮のところだ」と殿下は説明しながら、ブタの皮を大きな手で器用にはいでは、わたしたちにおすすめになる。火がよく通ったブタの丸焼きは、皮がキツネ色で、パリパリとはぐとまるでセンベイみたいだ。かむと口のなかで気持のよい音をたててくだけ、香ばしいかおりがする。北京料理の|鴨子《カオヤーヅ》では、丸焼きにしたアヒルの皮を同じように賞味することを思い出した。
殿下は、「トンガ人と日本人の胃袋の大きさを実地にくらべてみよう」と、わたしたちにたくさんたべることをおすすめになった。わたしたちは、探検部の若い学生がほとんどなので、大いにがんばって胃袋につめこんだ。しかし、一同がもうこれ以上は、とてもたべきれないと音をあげたときでも、食いつくすどころか、ごちそうの十分の一くらいしか減っていなかった。
トンガのしきたりでは、宴会での料理はお客にはとてもたべきれないほどつくることになっている。お客が残したごちそうで、宴会の準備に働いた人びとが二次会をやるのである。