伊豆は遠いところです。
私の両親は伊豆に生れました。父は子浦、母は岩科《いわしな》の峯です。といえば、ああそうか、と伊豆の人ならわかります。現在の地名では、南伊豆町子浦、松崎町峯と呼ばれています。私はその二人によって、東京で生れました。
ちち、ははの墓は伊豆にあります。墓にはほかに祖父母、二度目の母。それから私の二人の妹などがおります。にぎわうほど深くしずもる。
墓は子浦の湾を見晴らす山の中腹にあります。いつでしたか墓参りに行ったら、ちいさい石段をのぼった所にビール瓶がころがっていて、首をかしげた私に「東京衆が、ここで月見でもしつらよ」と一緒に行ってくれた親類の者が説明してくれました。なるほど、と思いました。墓まで観光の波を受けはじめてきた様子です。有料にしなければなりません。その老人も、いまは隣りの墓に眠っています。自分で建て、手入れを怠らなかった自分の墓に。もう草とりも出来かねて。
伊豆は私を観光者にはしてくれません。行く、という言葉の裏に、帰る、という意味合いがかくされていて。ふるびた軒の下から、ふとのぞいた老婆が、まあお前、来たけえ? いつきたけえ、よく来たのう、と語りかけるからです。伊豆には骨が埋まっています。伊豆の風景は骨を包む、生身の美しさです。ひとつひとつの地名は、活字で見ても声が聞こえます。その多くは、すぎ去った人たちの声です。
いまは東京から下田まで、電車で三時間ですが、西海岸の子浦から半島の南端、石廊崎《いろうざき》をまわり、下田の港へ行くまでに、同じ時間ほど船に乗った覚えがあります。蓑掛《みのかけ》岩を外から見ました。それは手品師が自分のふところから目的物を出して見せるのに似ていました。船がそこにさしかかる前に、父は自分が用意しておいたもののように、ホラ、あれだ、あれが蓑掛岩だ、と目を輝かせ、笑いこぼれて示すのでした。岩はそうして私の記憶に位置しました。小学校何年生の時でしたか?
東京を発つのはいつも夜汽車で、いちばんふるい思い出は、御殿場を廻って沼津に出ました。駅で夜の明けるのを待ち、人力車に乗って船の発着所へ行くのです。伊豆西海岸を通う汽船は、沼津の河べりに横付けになっている時もあり、河口の外にいかりをおろしていて、そこまでは小舟で運ばれることもありました。
ほんのり明るんだ空の下のほうに、まだ眠っている家が、灯りを消し忘れていたりしました。人の暮しというものが、どれほどつつましくせつないものか。ちいさい灯の色が、水の上をわたる幼い者に絵解きしてくれました。あれが私の、夜明けの空の色です。
母は私が五歳、祖母は七歳の時に亡くなりましたから、伊豆へは父か祖父に連れられてゆきました。距離はそれほどないのに、交通の便がわるいから伊豆は遠いのだ、とよくこぼしておりました。遠ければめったに帰郷するゆとりも折もなく、父が子を連れて伊豆へ行く日は、かならず、といってよいほど、家族の葬式のためでした。
戦争で焼かれる日まで、東京赤坂の家には籘で編んだ大きめの、古いバスケットがひとつありましたが、その中に骨壺を入れ、おみやげ物の包や、着替えのトランク等と同行しました。覚えております、その荷物がひとかたまり、駅のホームにおろされたり、船着場の道ばたに置かれたりしたことを。子供の私は新しい服など着せられ、その荷のそばに、もうひとつの荷物のようにつっ立っていて、バスケットの中身は外の荷物と少し違う、ひとにないしょのもの、ぐらいにしか思っていなかったのでした。
生きている子供という荷物と、亡くなった人を荷物にかかえて、ふるさとに向かった父の心を、今になって偲《しの》びます。
あれは、私が成人してからのことでした。松崎の浜辺の病院に入院した十九の妹が危篤だといって、父と私が、やはり沼津から船に乗った朝。偶然乗り合わせた昔の友達と、船員が船尾にしかけた釣糸の行方を追いながら、父が「子供を持つのも考えものだよ」と、相手をいたわるように語っているのを、私は聞えぬふりで聞いていました。噂で知っていたその人は家庭を持たない変り者なのでした。あまりに心労が多い日常を、父はそうして友に打ちあけたのでしょう。妹は死にました。熱にうかされた夢の中で「お兄さんが海軍の制服を着てきた」と妹が笑いましたが。兵種の決まった弟にまだ召集はなく、太平洋戦争の戦火が日本本土に及ぶのは、それから間もなくのことでした。
戦争で焼かれる日まで、東京赤坂の家には籘で編んだ大きめの、古いバスケットがひとつありましたが、その中に骨壺を入れ、おみやげ物の包や、着替えのトランク等と同行しました。覚えております、その荷物がひとかたまり、駅のホームにおろされたり、船着場の道ばたに置かれたりしたことを。子供の私は新しい服など着せられ、その荷のそばに、もうひとつの荷物のようにつっ立っていて、バスケットの中身は外の荷物と少し違う、ひとにないしょのもの、ぐらいにしか思っていなかったのでした。
生きている子供という荷物と、亡くなった人を荷物にかかえて、ふるさとに向かった父の心を、今になって偲《しの》びます。
あれは、私が成人してからのことでした。松崎の浜辺の病院に入院した十九の妹が危篤だといって、父と私が、やはり沼津から船に乗った朝。偶然乗り合わせた昔の友達と、船員が船尾にしかけた釣糸の行方を追いながら、父が「子供を持つのも考えものだよ」と、相手をいたわるように語っているのを、私は聞えぬふりで聞いていました。噂で知っていたその人は家庭を持たない変り者なのでした。あまりに心労が多い日常を、父はそうして友に打ちあけたのでしょう。妹は死にました。熱にうかされた夢の中で「お兄さんが海軍の制服を着てきた」と妹が笑いましたが。兵種の決まった弟にまだ召集はなく、太平洋戦争の戦火が日本本土に及ぶのは、それから間もなくのことでした。