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ユーモアの鎖国27

时间: 2020-04-24    进入日语论坛
核心提示:「海とりんごと」という私の詩は、その時の船旅の印象から、後日書いたものです。葬式に行くとはいえ、なつかしいふるさとである
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「海とりんごと」という私の詩は、その時の船旅の印象から、後日書いたものです。葬式に行くとはいえ、なつかしいふるさとであることに変りありません。東京にいても、まして伊豆にゆく船旅の途中などでは、父は夢中で、山を海を、島を、その色を輝きを私たちに指し示し、喜びを強いるのでした。いいところだろう? こんないい景色はないだろう? ここが伊豆なんだ、と飽くこともなく繰り返すのでした。あんなにまでふるさとの風景の素晴しさを信じ、愛した人がいるだろうか? と思うのは身内の勝手にすぎません。
 私はたぶん、その父の教えによってなのでしょう。はじめて見た日から、伊豆の自然への感嘆を失うことなく今日までまいりました。濃紺の海、岸の岩壁、山にかかる雲の白、走る魚影。私というひとつの器に、景色というもの、あとはいくら注いでも、こぼれるばかりなほどに、伊豆一カ所で一杯になってしまったのでした。
東京へ出てきた父が、松崎の町を流れる川のほとり、いまもあそこ、とわかる土蔵と、一本の木が立っている家で母と見合いをし、その母を迎えて都会に戻り、三人の子をもうけ、ほどなく母を骨にして伊豆に返し、祖父母の骨を返し、自分も最後には無言で帰っていったはるかな旅。伊豆は、どれほどか遠い土地でなければなりません。
下田からバスが子浦まで通いはじめると、東京湾を船で発ち、大島廻りで下田へ行くこともありました。戦争中、敵の魚雷を恐れて灯火管制した船が、観音崎にさしかかろうとするころ。房総半島のほうから、かすかに響いてきた祭り太鼓の音は、くらやみの底から湧く、なんとものどかな音色でした。
伊豆半島のそこここをバスが通いはじめると、もう人は、車に揺られても船にゆられたいとは思わなくなってゆくのでした。けれど、その程度ではまだ、奥伊豆は秘境のうちにはいっていたろうと思います。
東京から下田へ電車が直通したのが昭和三十六年十二月。その正確な年月は、下田、寝姿山にかかるロープウェイで頂上に行った時、鉄道を敷いた資本家の記念碑が建っていて、知りました。碑のおもてには、五島慶太は伊豆と共に生きている、とあり。そんなにいつまでも生きている人間を、いぶかしく思いました。伊豆の人はみんな、「お先に」と、ごく自然に死んでゆくような気がしてなりません。けれど、電車というものの便利さに感激して碑をたてた土地の人たちの喜びがわからないわけでもありません。
私の伊豆行きも、そのあたりから、用事なし、遊びの目的でおとずれることがふえてきたのでした。たとえば会社の一泊旅行。そこでは団体さんの安楽なひとりです。
 汽笛を鳴らして、ようやく汽船が波止場近くに碇《いかり》をおろすと、船会社のはしけが漕《こ》ぎ寄せてくる。そのほかに小舟が一隻近付いて、船腹の下のほうから、「迎えに来たよう、おりん坊《ぼう》ちゃん」と呼んで手を差し出してくれた源平じいさんは祖父の友。妻良《めら》と子浦をつなぐ渡し舟の船頭でした。迎えに来てくれたお礼の酒に、陽にやけた顔を赤らめ「こうして元気だが、昔のうたに、アスアリト、オモフココロノアダザクラ、ヨハニアラシノフカヌモノカハ、ってのう。おじいは、いつ死ぬだか」と語りきかせてくれた、それはそのまま、いまの私の昔語り。
折あって、この夏おとずれた伊豆は、波も変えなかった自然を、急速に変えてゆく何かがありました。そのもうひとつの波は青いでしょうか?
西子浦の松が下へと行く途中の道を下に降りた磯の先で、小一時間も足を水にひたしていた私は、いっときちいさい岸でした。小魚の群れが泳ぎよせては遠ざかり、手元の穴から蟹《かに》が出てはひっこむ。そのすばしこさに笑いながら、すばしこいから生きながらえたのだろう、とたわむれました。
向こうに見える、以前人影もなかった人附浜《ひとつきばま》には、オレンジ色のテントが三十ばかり。その上には駐車場まで出来て。
さっき墓参りにゆく道すがら、高い木を切っている人に逢いましたが、墓掃除を終えてもどるころには「西林寺ビアガーデン」と横幕が張られていたものです。そのビアガーデンに、十六名の戦死者を記念する碑が、完全にかくされていました。
墓地は、暮しの忙しさをはかるように、今までにない草ぼうぼう。掃除をたのんだ遠縁の女性は私より年かさで、石の下の人たちの若い日の話を私に聞かせながら一緒に草を刈り、百人一首のなかの歌をいくつかそらんじて、「昔は物を思わざりけり」と言うのでした。
祖父の姉妹衆が、辞世の句をつくり合っていたことを思い出しました。
心に負担のある旅が多かった伊豆で、今回はゆっくり古い旅路を採ろうと思い立った私が、観光船で、子浦を波勝《はがち》へ向けて発ったのが午後三時。船長が私に、乗るな、と注意した通りの大波で、会社の者はこの波を知らないで船を出させたがる、とこぼすのをききました。対立、というものが、沿岸の船にも乗り移ってきていました。
猿も人もいなかった波勝の磯に、村人や父に連れられ釣りに来て、岩の上で西瓜を割った日。一メートルもある細長い魚が、浅瀬に立った少女の足をかすめて過ぎた日はいつ?
売店のまわりにまかれたとうもろこしの実を、何十匹もの猿が、素早く、いっせいに拾う姿に目をみはりました。私は申歳《さるどし》。私がこの赤ら顔のけものの歳であるとはなんとまあ。
波勝から松崎へゆく船は高波で欠航。車は出払っていてここまでは来てくれない、とわかると、これから松崎の峯まで行きたいという私を、この土地に縁ある人、と見た食堂の小母さんが「アイス屋さん」の車を世話してくれました。
おかげでアイスクリームと道連れになり、いままで一度も行く機会のなかった伊浜に降り、知り合いに一目逢い、平戸から蛇石をぬけ、山道の只中で松崎町の標識を通過しました。山々のたたずまいに、見たような、影がさし、八木山を峯へとおりると、十何年ぶりかで見る母の里は、知らない隣人が、どの家に来たか、と私にたずねるのでした。
しかしこの辺からでした。私が、昔とあまり変っていないものの姿に、首をかしげはじめたのは。
翌日、松崎から沼津へ向かった時。船の名前こそオトギ話めいた第二十七龍宮丸とありましたが。過去をたどり返すように、田子、安良里《あらり》、宇久須、と停り停りで進むとき、私は次第に自信を失い、ついには情なく自分に問いかけるのでした。私は、ほんとうに二十年あまりここを通らなかったのだろうか? そんな……。つい最近、ここを通ったのではないのか……。移り変る景色が、あまりに鮮明な記憶と結びつくので。もしや私は、私も知らない時、始終ここを通っていたのではないのか? 海の上を。という恐れと不安に、あやしく荒れてくるのでした。
空がかげり、夕立が来ました。雷鳴と波のゆれに、百名定員をはるかに超えた龍宮丸の下の船室からはキャーッという大勢の声が、ちいさい木の実ほどにはじけました。
西伊豆の船旅は、大瀬崎がゆっくり方向をかえることで終りに近づくのですが。船室を出た私が、降りのこった雨を一、二滴受けながら舳先《へさき》に立ち、はるかな陸地の上に、雲よりはたしかなものの在りようを、横に長く次第に高く、目でたどってゆくと、かすかに富士が立っていました。
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