焼け跡の道を男が二人、向こうから歩いてきた。
「それがね、奴《やつこ》さん、壕《ごう》の中で、ちょっと乙《おつ》な恰好《かつこう》して死んでたんだ。こんな具合に日本刀を抱えて——」
話がそばを通り過ぎていった。少し笑っているようだった。
——それじゃ——と私は思った。せっかく立派に死んで見せても、美談にならない。惜しいことをした。
一九四五年五月二十五日の朝だった。空襲で前夜は家族ちりぢりになり、互に生きているか、死んでいるか。ここに家があった、という、まだ火のくすぶっている地点に、一人帰り、二人戻ってたしかめ合ったばかり。逃げるとき防火用水に投げ込んだ鍋や茶碗は残ったけれど、木の箸はなくなっていた。あってもそれではさむ食糧はなかった。そんな非常なとき、正面を向いた私の横のほうで、耳が勝手に拾っておいた、その頃の感じ方で言えば軽べつに価する不謹慎な話。
それがへんに生き生きしていて、戦争が終った後まで、ふと近付いてきては私の前で立ち止まる。そして。
では聞くけれど——、もしあの男の死が美談としてとり上げられていたら。翌日の新聞に、某の家の誰が、空襲下の町を護《まも》り、最後まで消火に努め、逃げおくれたと知った時、少しも取りみださず日本刀を抱えて壕にはいって死んだ。と書かれたら。お前は、惜しいことをした、などと考えたろうか?
惜しいことをした。と思ったのは、せっかく死んだのに、奴さんと呼ばれ、乙だった、などと片付けられたのでは、元も子もない。まるっきり馬鹿気た死にざまにしか受け取られていないから、惜しんだのではないか?
命をほんとうに惜しんだのではなくて、死と引き換えにしたものでバカをみた、と思ったのではないか?
死者にゆるしを乞うとして、お前にきくが、日本刀を抱えて死んだ男の心の中の、ある種の気取りを見ているのではないか。言い換えれば、その気取りをヤユした二人の男の言い分に異存がなかったのだ——。
キグチコヘイハ、シンデモラッパヲクチカラハナシマセンデシタ。この言葉の強烈な印象、リズム。小学生のときはもちろん、戦争が終ったあとも忘れられないひとつの言葉。
最近書店に戦前の教科書が山積みになっていて、精神にふるさとというものがあるならその景色が、あの本の中に展《ひら》けているのではないかと思われる。手にとってみると、どの画にも見覚え、心覚えがあって、教科書の方から私を見たら子供の表情をしているのではないか、と思うなつかしさだ。その修身書の巻一をひらいてびっくりした。テンノウヘイカバンザイ、の次が、あのキグチコヘイであった。すると、学校に上がったばかりの子供を、そのしょっぱなからつかんで離さない力が、あの本にかくされていることになる。それならテンノウヘイカバンザイは、最初に習い、戦場で死んで行った多くの兵隊さんたちは、それを最後の叫びとしたことになる。
私は育てられるとき子守唄で寝かしつけられたかも知れないけれど、学校は美談で起こしてくれたのだろうか? 日本は軍国主義だったといわれても、私が生まれたのは日本で、日本は軍国だったかもわからないけれど、私が主義に生きたことは一度もなかった。天皇が神だと言われれば、不思議を信じ、聖戦といえば、戦いぬくことに従う外ないと思ってきた。一人の弟に召集令状がきた時も、祝いをのべるほどおろか者の私は、家が燃え落ちた朝も国民としての義務をひとつ果たしたくらいの覚悟で、何となく身軽な気持ちになって隣組の使い走りなどに精出していた。
その教え、さすがに優等生には仕立てかねたようだけれど、この程度には私をこしらえ上げた、育成の手が教科書の中にあるといわなければならない。
やがて社会に出てからも、新聞は連日、戦場における美談を伝え続けていた。
その美談に影のさした日、それがあの朝。町も家も、国さえが構《かま》えという構えを焼きはらわれ、着のみ着のままで道ばたに立たされたとき、私は聞いたのだ。エラクも何でもない町の小父さんの、世間や教育に気兼ねしない、率直な意見を。
どちらか一方の権力に荷担して、その世界で美談を生きようと、または美談に死のうとすれば、力がほろびたとき�ちょっと乙な恰好�でしかなくなる場合があるのを。
焼け跡で耳にとめた話。あれは私にとって、いのちがけのこっけいというものを無残な形で会得《えとく》させられたはじめての経験。ユーモアの鎖国が解けた、最初の汽笛かも知れない。
二十五年経っていま、こんな風に私は、不謹慎な態度で、あの日本刀を抱えて死んだ、見知らぬ男の死を弔おうとしている。涙をためて。
どちらか一方の権力に荷担して、その世界で美談を生きようと、または美談に死のうとすれば、力がほろびたとき�ちょっと乙な恰好�でしかなくなる場合があるのを。
焼け跡で耳にとめた話。あれは私にとって、いのちがけのこっけいというものを無残な形で会得《えとく》させられたはじめての経験。ユーモアの鎖国が解けた、最初の汽笛かも知れない。
二十五年経っていま、こんな風に私は、不謹慎な態度で、あの日本刀を抱えて死んだ、見知らぬ男の死を弔おうとしている。涙をためて。