鬼
母よ
あの夜焼けたトウモロコシになってしまってくださったから
わたしが手製の冷蔵庫のなかから二十二年後の夜ごと
あなたを引っぱりだしてはあなたの歯並に禿《ち》びた
わたしの黄色い歯をあてて噛んでいるのです
黒焦げで口にひどく苦いのですけれど
それでもたまに柔らかいところに噛みあたると
ほの甘い蜜が沁《にじ》んでくるものですからそこに
吸いついたままわたしの歯はとれてしまうのです
今ではわたしの前歯のすべてが逆さにうわった
奇体なハリネズミみたいなトウモロコシなのですが
前歯の両端の歯だけが残って牙ほども伸びたので
それでじっくり左右から固くはさんで
ハモニカがわりにわたし自身のための
感傷的な童謡曲などそっと吹きならす夜ごとなのです
母よ
あの夜焼けたトウモロコシになってしまってくださったから
わたしが手製の冷蔵庫のなかから二十二年後の夜ごと
あなたを引っぱりだしてはあなたの歯並に禿《ち》びた
わたしの黄色い歯をあてて噛んでいるのです
黒焦げで口にひどく苦いのですけれど
それでもたまに柔らかいところに噛みあたると
ほの甘い蜜が沁《にじ》んでくるものですからそこに
吸いついたままわたしの歯はとれてしまうのです
今ではわたしの前歯のすべてが逆さにうわった
奇体なハリネズミみたいなトウモロコシなのですが
前歯の両端の歯だけが残って牙ほども伸びたので
それでじっくり左右から固くはさんで
ハモニカがわりにわたし自身のための
感傷的な童謡曲などそっと吹きならす夜ごとなのです
母よ
五月の季節感を持った詩で、忘れ得ない、というようなのがありますか? と聞かれ、私はいそいそと答えた。ええ、あれは誰のでしたでしょう。外国の詩。少女雑誌で見ました。
ねえ、お母さま
私はあした五月《さつき》姫になるの
——ひとつ夜が明ければ、あの谷、この村から若者たちが集ってくる。そうして私は——。
私はあした五月《さつき》姫になるの
——ひとつ夜が明ければ、あの谷、この村から若者たちが集ってくる。そうして私は——。
私が五月姫になるはずはなかった。けれど選ばれて姫になる前の晩の少女の心のときめきは、詩を読む私をやさしく明るくはずませてくれた。
ねえ、お母さま。その書き出しは幼時母に死に別れ、多少センチメンタルな日本の少女が、甘えて口ずさむのにつごうがよかった。
今年、東京の桜は四月十一日、九分通りひらき。前日私のところには知命会なる名で、花見のさそい状が速達で届いた。大正八年生れの詩人が昨年集ってつくった会だという。
安西均、中桐雅夫、宗左近、吉岡実、西垣脩、黒田三郎さん。
一回毎にゲストを呼ぶことにした。五十にして命を知る。君は仲間ではない。しかし一夕、われらと花を見よう。という意味の添え書きがあった。その限りではついこの間、知り難い命を知ってしまった私への、春より暖い思いやりをかくした、男性がたの招待だった。桜の花より一足先に、私の心は満開になっていた。
その晩かなり降った雨は、靖国神社に近い九段会館の地下食堂に皆をとじこめた。そこは以前の軍人会館、宿泊者が夕食におりてくるドテラ姿に「あれは遺族会の人たちですね」 と誰かが言い、私は出かかった返事を、あ、と飲みこんだ。生きている。生き残った者が生きている。
私が生き残ることが出来たのは五月だ。第二次大戦の最後の年。空襲による焼夷弾《しよういだん》が町内に雨と降った夜、すれ違ったひとりは死に、私はあくる日を迎えた。
義母を先に逃がし、消火の手だてもなくなったとき、片手に馬穴《ばけつ》一杯の水を下げ、父と手をつないで火の中を急いだ。どこへ? 生きのびる道をさがして。赤坂|氷川《ひかわ》神社の境内、その樹木の下かげを火の粉が横に走っていたのを時々思い出す。ここもだめ、そこもだめ。火は面積じゃない、高さなのよ。火事の話になるといまも私は、バカのひとつ覚えのようにいう。
逃げきった乃木神社の坂下で空があかるんだ時、私の足下で声がした。「妻は直撃弾で死にました」それは焦げて横たわった黒い男の呼びかけだった。
五月姫の好きだった娘に、戦争と青春は一緒におとずれた。空腹をかかえ、義母のよそってくれる一碗のめしをにらみすえ、�かれと、これとを見くらべて われは悲しき餓鬼となる�などとうたったりしていたが。
あの焼け出される晩何という愚かなことをしていたろう。姫にミレンがあったというのか。髪にあてる鏝《こて》を自宅のいろりの火であぶっていた。そこに私のわずかな若さへの記憶が、こてのメッキ色に光る。
警報が鳴り、灯りを消す、空襲がはじまる。すると東京の街はその火でまる見えになって浮き上がった。毎度、毎度。
乃木坂下と信濃町の距離は、歩いて三十分もかかるだろうか。その信濃町で宗さんは、
逃げきった乃木神社の坂下で空があかるんだ時、私の足下で声がした。「妻は直撃弾で死にました」それは焦げて横たわった黒い男の呼びかけだった。
五月姫の好きだった娘に、戦争と青春は一緒におとずれた。空腹をかかえ、義母のよそってくれる一碗のめしをにらみすえ、�かれと、これとを見くらべて われは悲しき餓鬼となる�などとうたったりしていたが。
あの焼け出される晩何という愚かなことをしていたろう。姫にミレンがあったというのか。髪にあてる鏝《こて》を自宅のいろりの火であぶっていた。そこに私のわずかな若さへの記憶が、こてのメッキ色に光る。
警報が鳴り、灯りを消す、空襲がはじまる。すると東京の街はその火でまる見えになって浮き上がった。毎度、毎度。
乃木坂下と信濃町の距離は、歩いて三十分もかかるだろうか。その信濃町で宗さんは、
昭和二十年五月二十五日夜 アメリカB29の焼夷弾をあびて燃え上る炎の海のなかをわたしと母は手に手をとりながら 泳ぎ 喘ぎ 逃げまどっていた 母をこんな袋小路に追いこんだのは わたしなのだ 熱い塊が わたしの胸の内側をじりじり焼いた もう 助かりっこはない 母を殺すのは わたしなのだ どうしよう ああ 瞬間 母は走る足をとめて その瞳をわたしの目にくいいらせた 直ちにわたしは了解した よし 一緒に死にましょう すると母の瞳を見つめながら なぜかしら わたしは薄く笑ったのだ どうしてだろう