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ユーモアの鎖国33

时间: 2020-04-24    进入日语论坛
核心提示:お礼私には、ひとつだけ詩に関して得意な話があるんです。それをきいて下さい。と、ある集りでおしゃべりしたことがあります。だ
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お礼

私には、ひとつだけ詩に関して得意な話があるんです。それをきいて下さい。と、ある集りでおしゃべりしたことがあります。
だいぶまえに村野四郎先生のところへうかがったとき、西脇先生の詩はみんなむつかしいむつかしいとおっしゃってるのに、それを、そんなこといっていいかしらと思いながら、「私、西脇先生の詩を拝見すると、何とも言えないおかしさを感じます」と申し上げました。「おなかの底からおかしさがこみ上げてきて、こんな上等な笑いの味があるだろうかと思います」。すると、「西脇さんの詩の本質を一言で言いあてたのは君が初めてだよ」と言って下さいました。
村野先生が、気軽に私を励まして下さったひとことを、いつまでも得意がっていては申し訳ないのですが。そこが私のたあいなさで、だいぶ月日がたっているのにその先なにも言えません。学問があったら言えるのではないかと案じられます。不勉強のため、と言いかえたほうが適当でしょうか。
学問がない、学校を出ていない。ということが一生の負い目になる、そういう社会で長い間働いてきた私が、自分でもたあいないと思われる考えを口に出し、それをないがしろにされなかった喜びの深さが、困ったことに私を慢心させたのでしょう。有難いのは村野先生です。
西脇先生に私がお目にかかれる折はめったにありませんが、お逢いするとしあわせを感じます。そこにはいつも西脇順三郎さんがいらっしゃいます。変な言いかただと言われるなら、私の片言を直します。そこには大学教授がおいでになるのでも、芸術院会員がいられるのでもないのです。と言って、私が先生のご経歴や肩書のようなものを忘れ去っているわけではありません。私がいいたいのは、それらのものが権威として立ちふさがってこない、ということです。
少ないときでも四、五人は一緒にビールかなにか傾けているわけですが、そうした場合私がふだんなら感じやすいヒケメとか遠慮のようなものを失《な》くしているのに気が付きます。先生は五人いれば五人を、あまり区別なさらないらしいのです。私はありのままの私でいることが出来ます。
いつか私の方を向いておっしゃいました。「ナンカ、ヒトと変ったことをするのがイイですヨ」「カワッタことヲ」。先生は繰り返されました。
短い会話の中で、私が人並に結婚することもなく年をとったかわり者だとわかった上での言葉ですが。八十三歳で二十年も前に亡くなった私の祖父が、私を変った者に仕立てようと願っていたのを思い出し「明治」を感じました。
先生はたいへんな学者だそうですが、先生の学問は先生ご自身の中にすっかり溶けこんでいて、店の品物のようには前面に出てこないものと見えます。売り物だと、財布に金のないものは手が出せません。店の主人が算盤《そろばん》片手に見張っています。その目でこちらを判断いたします。品物に見合うものを持っている人にだけアイソがいいのです。そういうことがありません。先生は無邪気に人をごらんになられるので、私の中からも邪気が抜けてゆくようです。先生の前では、どこかの半島のおばあさんの咳だってゴッホです。
いつからか国土というものに疑いをもったとき、私の祖国と呼べるものは日本語だと思い知りました。言葉の世界に皇帝の位はありません。皇帝という言葉があるだけです。それは絶対ではない。
私はその言葉の領域、きまりかけている狭さ、かたちの、どこをどうとおしてか解き放ってくれる力を、それとない力を西脇先生の詩から受けとります。それは私の心を自由の方向にたのしませて下さいます。
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