昨年の夏、詩集『表札など』の原稿を出版社に渡したあと、手もとに残ったのは、おそれと不安だけでした。
内容はここ九年間に書いた詩の中から三十七篇えらびましたが。いつも思ったこと、感じたことを遠慮なく書いてしまったあとには、気持の負債がふえるだけで、あまりトクになることが残っていませんでした。
トクをしようと思って詩を書いたことはありませんが。こんども、ヒドイ目にあわされるのではないか——と。
「じゃ石垣さん、詩集が出来たら全部舟に乗せ、東京湾のまんなかへ行って捨ててきましょう」
出版もとに迷惑をかけはしないか、という私に、社主が笑って答えました。
出来たばかりの本の束を、ザボンザボンと海に捨てるのは残念無念ではあっても、わるくないイメージでした。そんないさぎよい風景が、逆に私をなぐさめ、出版するという決心を落ち着かせてくれました。
それくらいなら、はじめから本など出そうとしなければいいのですが。作品というのは内側からみのった果実と同じで、樹木のように自分から手離したい欲求にかられるのではないでしょうか。誰かに受け取ってもらいたい、という、ごく自然な願い。世間にこたえる私の独自な方法はただこれだけだ、という貧しさでもありました。
十二月の末近い晩、突然出来上ってきた本をタクシーの後坐席に四百五十冊積みあげ、くずれ落ちないか気にしながら走った、高速道路の重たい走り心地が、忘れがたくからだの中に残っています。
翌日から私には忙しい日が続きました。勤め先のほうも年末で休むわけにゆかず、受け取った本は狭い我が家の、やっかいもの然と通路をふさぎました。残業して帰ってくる、それから一冊一冊の荷造り。明け方までかかって、たった二十冊などということもよくありました。
送り先は、大勢の詩人、世話になった人々。はずかしさをこらえて、知らない作家、評論家、新聞社などまで。買いとった大部分をおおよそくばり終えるのに、一カ月以上精出しました。
その重たい荷物を郵便局へ運ぶたび、田舎《いなか》の祭礼か節句どきの配り物に似ている、とオカシクなりました。「これは私の手作りです。ご賞味下さい」挨拶を添えたら、そういうことになるのだ、と思って。私にとってかなりな出費でしたが、それは覚悟の上。詩は、書きはじめたときから収入のある将来など決して約束してはくれませんでした。そればかりか、好きな勉強をするからには働いて、自分の自由になるお金をかせいだほうがいい、と十五歳の私に決心させたのもこの道でした。本を読んだり物を書いたりしては、女の道にはずれかねない、昭和十年頃のことです。
私は好きなことをしたくて働くことをえらび、丸の内の銀行に入社しました。以来三十年余り、同じ場所に辛抱しておりますが、職業と生活は、年月がたつほど私を甘やかしてはくれなかったので、結局そこで学びとらされたのは社会と人間についてでした。戦争も、空襲も、労働組合も、です。
終戦後、労働組合が結成され、職場の解放と共に、働く者の文化活動が非常に活溌になった一時期。衣食住も、娯楽もすべて乏しく、人々は自分の庭や空地に麦、カボチャを植えて空腹の足しにし、演劇も新聞も自分たちの手でこしらえはじめたころがありました。
戦前、同人雑誌など出し、詩や文章は職場とは関係のない、ごく個人的なものと割り切っていた私は、自分と机を並べている人たちから詩を書け、と言われることに新鮮な驚きを覚えました。私に出来るただひとつのことで焼跡の建設に加わる喜びのようなものがありました。同時に、人に使われている、という意識が消え、これは私たちみんなの職場なのだ、と思うことの出来た、わずかに楽しい期間がそこにありました。
ひとつの銀行の単独組合の機関誌に発表した詩が、組合連合体の新聞に転載され、それがまた『銀行員の詩集』といったまとまった形をとるに至ったとき、詩壇の人の目にもとまる、ということになったのでした。不思議な気がしました。予期しない形で詩を書く道が少しひらけ、日本現代詩人会への仲間入りをさそわれたときには。
予期しない、といえば、こんど出した詩集にユーモアがある、という批評ほど意外なことはありませんでした。精いっぱい書いた私の詩の、どこからそんなものがニジミ出たのか、見当がつきません。面白くない、というのが自分への不満でした。
海がよく出てくる、とも言われましたが、数にしたらいくつでもありません。あとがきに
[#1字下げ] 伊豆の五郎は私と同じ年のはとこ。四十を越して、遠くたずねてゆくとムスメが三人顔をそろえる。ひとり者だからと言って、私が何もこしらえないのは申しわけない。
などと書き出したせいか、海は伊豆か、と聞かれたりします。どこの海ということはないのですが、私に一番印象の深い海は伊豆です。
父母の故郷でもあり、現在、祖父母、父、二人の母、妹二人のねむる場所でもあります。伊豆へ行く時は、いつもお骨壺を抱きかかえていた。そんな思い出があります。ついこの間まで電車もなく、それ以前はバスさえ満足に通っていなかった伊豆は、今よりもっともっと美しく、つらい場所でした。
ヒマが出来たら、いちど帰って見ようかと思います。私は東京で生まれ、赤坂で育ちましたが、伊豆は私が一本の木なら根の部分。見えない過去という過去が、白いヒゲのようにはびこっている、血のふるさとでもあるのですから。
父母の故郷でもあり、現在、祖父母、父、二人の母、妹二人のねむる場所でもあります。伊豆へ行く時は、いつもお骨壺を抱きかかえていた。そんな思い出があります。ついこの間まで電車もなく、それ以前はバスさえ満足に通っていなかった伊豆は、今よりもっともっと美しく、つらい場所でした。
ヒマが出来たら、いちど帰って見ようかと思います。私は東京で生まれ、赤坂で育ちましたが、伊豆は私が一本の木なら根の部分。見えない過去という過去が、白いヒゲのようにはびこっている、血のふるさとでもあるのですから。