世の中は資格に関する分け前の多いところだ、と思う。
内容によって資格が得られるのだ、とお叱りをこうむるかも知れない。
たぶんそうなのだろう、と自分に言いきかせてきた。
会社につとめて、ひとより昇給が少なくても、それは実力もあるが、第一には学校を出ていないためだ、と慰められたことがある。
戦時、母親の病気中に召集令状を受けた同じ会社の人に同情したら「君はあの人が侍従《じじゆう》のむすこなのを知らないのか」と言われ、少女の気持をひどくきずつけられたこともある。
相手が侍従の息子なら、庶民の娘の私には同情する資格がないのか、とおどろいてしまった。
その私にたった一度、資格を手にすることのできる機会がまわってきた。勤務先で何年か習っていたお花の先生が、お免状と看板を下さるという。
初伝から奥伝までは、何となく頂戴した。その先いただくとき、少女の給料では少し負担のかかる謝礼を必要とした。もし安かったらもらっていたかも知れないなあ、と思う。私はたぶんその金額にこだわったのだ。けれどその時は、こだわるほどの金額であったために、お金の重み(それは労働の対価でもある)と同じほど、その内容を重く考えた。
もしお金を払わなければ、私は師範のお免状はいただけない。お金を払いさえすれば、わるいけれど、私より下手な人も資格を受けることが出来るだろう。資格というものはかなり安直に手にはいる場合もあるらしい。
私は花が好きで習ってきた。花になりきることもできないのに、お金とひきかえで先生になったってしようがない。
何という体裁のよい理屈をこねまわしたことだろう。身銭をきってやりぬくほどの積極的な希望がなかっただけの話。
でなければ、お前のお小遣いが乏しかったのよ、それだけのことよ、といじめてみる。
その反面、花にはなれないという悲願を、悲願として残した若い日の貧しさを私は了承する。
おかげで、と言っては負けおしみになるけれど、私はとうとう生きて行く上で値打のある何の資格も持たないで、年をとってしまった。
私が世間での分け前にあずかるのは、この先もすくないことだろう。