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ユーモアの鎖国65

时间: 2020-04-24    进入日语论坛
核心提示:事実とふれ合ったときこれを書くため、私が、自分のどの詩をとり上げようか、と考えているとき。昭和四十三年八月二十二日付の夕
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事実とふれ合ったとき

これを書くため、私が、自分のどの詩をとり上げようか、と考えているとき。昭和四十三年八月二十二日付の夕刊は、三面にひとつの出来事を伝えていました。ある新聞には、 「鷹司和子さんご難」とあり、別の新聞にはトップに「鷹司和子さんお手柄」という見出しをつけていました。いずれも東京都内のある邸に強盗がはいり、主の女性を傷つけた、というニュースでした。そのことから私は、ずいぶん前に書いた次の詩を思い出しました。
  よろこびの日に

美しい和子姫
大奥で育てられたあなたは生れながら宮と呼ばれ
くらしのための苦労も不安もなく
心すこやかに、姿伸びやかに成人された、
 晴れの婚儀を前に
誰があなたの幸運を妬もう
たぐいまれないのちの素直さ
ひなたに花の咲いたような明るい笑顔
それは万人の娘たちが願う
やすらかな表情である。
 遠い平安の世にあらず
万々人の殺戮に夫を、兄弟をささげた現世
姫と育つ人の数は
貴族文化咲き栄えた世よりも
まだ稀なあなたの存在である。
 その幸福は
飢えた子供に与えるため一個のりんごを盗んで捕えられた母親と同じほど
あなた自身に罪のないものといえよう、
 美しい和子姫
私はあなたのこの上ないしあわせを願う
たとえいかなる土壌の上に咲こうと
あまりにもうるわしいその姿
素直な心のありようこそ
私のいのちをかけたねがいでもあれば。
 けれど美しい和子姫
緑濃い宮居の堀を私達日常の貧しい垣の外に築き
生れる子供に着せるものの心配なく
病む人の医薬に不安なく
好き自由な学ぶことの出来る世の中をつくったら
それはどんなに大きな喜びであろう、
 優しい心を包みかくすどんな強がりもなく
すさんだ言葉をつかう者もなく
日本中の女性があなたのように笑うことも出来るに違いない。
 美しい和子姫
どれほど愛し合っていても片方の貧しさに結婚がさまたげられたり
婚儀の席に連なるには
あまりにも身なり粗末な父母がいたり
また婚礼の費用に困る若人たちが溢れているこの国
そればかりか
働くに職もない若人たちでいっぱいのこの国。
 ああ五月
このよろこびの日に
貴女のたぐい稀な美しさを
だれが妬み、そねんだりしよう、
 美しい和子姫
幸福な人間を見ることは私共のあこがれである
その、より多いことこそ
 思ったことをみんな書き並べてしまった、だらだらと長い詩で、そのせいか、一人の人に代表作、というようなものがあるとするなら、これは忘れられたほうの代表作かも知れません。
それには関係なく、さきほどの新聞記事を、もう少し引用させてもらいます。
「鷹司和子さんは天皇陛下の第三皇女として、昭和四年九月三十日に生まれ、昭和二十五年五月二十日、元明治神宮宮司、鷹司信輔氏の令息、平通氏と結婚した」
つまり、右の記事を私の作詩ノートに借りてしまおう、というわけです。この記事により、忘れられた詩の、忘れていたことを、思い浮かべる手がかりを得たのでした。
「よろこびの日に」は、昭和二十五年(一九五〇)五月に書きました。同じ年の同じ月、皇居前では戦後一番盛大なメーデーが行われております。一番盛大であった、ということは、後になってわかったことですが。そのとき私は、私の所属する銀行従業員労働組合の執行部におりました。
終戦後、職場の解放が叫ばれ、組合運動が推進された。その運動が昇りつめた時期、と言ったらいいでしょうか。翌六月には朝鮮動乱がはじまり、七月には各業界にレッドパージ旋風がおこる、前夜の明るさなのでした。みな、過ぎてみてわかったことです。
天皇は人間宣言をし、神の衣をとっくに脱がれましたが、雲の上の世界をのぞくように、国民の多くは宮中の出来事に喜びとあこがれを抱きつづけていましたから、姫の婚儀はマスコミの大きなニュースダネになっていました。当時生活面では、金さえ持って行けば、どこの食堂ででも食事が出来る、などという便利な世の中ではなかったのです。
食べる物が足りない。着る物が乏しい。観る物も少ない。読む物も……となると、これは総がかりで、何とかしなければならない、ということになって。たとえば文化面でも、自分たちが芝居をし、自分たちが文章を書く、ということになる。新聞などが職場単位で発行され出したのも、組合活動と切り離せない事の起りに思われます。実によく、詩を書け、と言われました。この詩もそうした依頼、または空気にうながされて発生した言葉でした。もちろん、誰よりも私自身の中に書くことをうながす力のようなものが湧き出ていたのですが。
終戦前、またそれよりもっと、戦争のはじまる前。詩を書く仲間、詩の読者を自分の周囲に見付けることは珍しく、ほとんど孤独な作業だったのにくらべ、たとえ書く時は一人であっても、その読まれかた、受け入れられかたには大きな違いがありました。
この詩は朗読のために書いたわけではありませんが、職場の文化祭、集会などで朗読させられました。そういうわけで、活字は声にもなり、何がしかの語りかけ、訴え、があり、相手があり、難解であっては通用しない場所、つきあいのある場所で詩を書き、働き、生きていました。
語りかけには返事が戻ってきました。この詩を読んだ仲間の一人が申しました。
「つまり君は、この人たちの幸福はそのままにして、同時にみんなも幸福になりたいって言うんだな。僕たちは、こういう幸福はひきずりおろそう、と思っているんだが、君は?」
物事を学問として学んだことのない、働いて、肌で、自分の経験で、人よりおくればせに覚えてきた私は、その時、何の深い洞察も視野もなく、天皇制に対する明確な判断もなく。であるからレッドパージ前の、激しければ馘首《かくしゆ》されかねない、きわどい組合の常任委員に、周囲の都合から選び出されたのかもわからないのですが。その人に私が「はい、そうです」と答えたのを覚えています。
以来二十年近くなろうとしています。私が成長したか、退歩したか、どちらにせよ、皇族の婚礼に対し、この詩のようなひたむきさで呼びかける折はもうあるまいと思います。その矢先、かつて私がその美しさをたたえ、それを喜び、しあわせを願ったはずのお姫さまが、ステンレス菜切り包丁などで傷つけられる。傷ついた手の痛みは、一人の同性としての私の手にも痛みを伝えてきました。
新聞記事を続けます。
「男が金を無心、切る」
「調べに対し、二十三歳の男は『腹が空いていたので、まず台所でメシでもくってからドロボウをするつもりだった』といっている」
私は詩の中で、「その幸福は/飢えた子供に与えるため一個のりんごを盗んで捕えられた母親と同じほど/あなた自身に罪のない」と書いたことをダブらせて読みました。りんごを盗んだ母親の罪は猶予されたとしても、この男の罪状は明白となるでしょう。同じほど不幸なのは和子さんであり、この若い男だ、と思うのは甘いでしょうか。
別の新聞記事を読んで下さい。和子さんが結婚したところの、
「平通氏は四十一年一月二十九日、ガス中毒死した。その後、和子さんは平通氏の母堂、綏(やす)子さんとお手伝いさんの三人暮しだった」
そこに荒涼とした家庭の風景を思いえがくのは、余計なおせっかい、ヤジウマ根性にすぎないでしょうか? 私が若かった日、心こめて祝った人が、身のまわりにすぐ見つけ出せる戦争未亡人、失業者、肢体不自由者その他多くの不幸な人たちと同じではないにしても、現在客観的にみて幸福とは言い難いような状況におかれている、というそのことのなかに私は、目を当てないわけにはゆかないのです。この連帯、このはるかなエニシ。
働いても、働いても楽にならないのは石川啄木の歌とおなじで。なにか運命のようなものからハガイジメにされているのではないか、と冗談のひとつも言いたくなるような年月を重ね、私は四十歳を越えてきました。変らないのは二十年前も今も、もっと何とかしよう、もっと何とかならないか、と思いながら働き、働きながら詩を書いていることです。
その、詩の構成はどうするか。言葉の選択はどうするか、といった問いかけに対して、私には用意された答えがありません。たとえば、言葉の選択ですが、今夜ライスカレーをこしらえるから材料を買ってこよう。肉とにんじんと、玉ねぎと……というぐあいに集めるものではないので。書く、というそのときには手足の生えてしまっているのがまるごと生まれてくる、それをとらえる。用意は、書くという行為のずっと以前にある、と思っています。
書く動機。これは人それぞれで、私の場合、この文章を書くきっかけが新聞記事、記事のなかのひとつの事件。事実とふれ合った地点でペンをとった。と同じように、いつも何かにぶつかった所で発生する。想像力に乏しい、と言われるかも知れませんが、どんな抽象的なことがらでも、私がとらえるきっかけには、手でさわれるような具体性があって、そこに足をおろして書いてきた、と思います。
これから先、それはわかりません。ちいさいときから無いものねだりが大好きで、詩を書いてきましたから。そしてこの作詩ノート。これは一篇の詩のつけたり。詩そのものが私の生きていることのノートではないか、と書きながら思い至りました。
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