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酒を愛する男の酒03

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:言ふなかれ、君よ、別れを  言ふなかれ、君よ、別れを、世の常を、また生き死にを、海ばらのはるけき果てに今や、はた何をか言
(单词翻译:双击或拖选)
言ふなかれ、君よ、別れを
 
  言ふなかれ、君よ、別れを、
世の常を、また生き死にを、
海ばらのはるけき果てに
今や、はた何をか言はん、
熱き血を捧《ささ》ぐる者の
大いなる胸を叩けよ、
満月を盃《はい》にくだきて
暫《しば》し、ただ酔ひて勢《きほ》へよ
わが征《ゆ》くはバタビヤの街《まち》、
君はよくバンドンを突け
この夕べ相|離《さか》るとも
かがやかし南十字を
いつの夜《よ》か、また共に見ん、
言ふなかれ、君よ、わかれを、
見よ、空と水うつるところ
黙々と雲は行き雲は行けるを。
 これは、大木|惇夫《あつお》氏が南支那海の船上で書いた「戦友|別盃《べつぱい》の歌」である。当時学生であった私たちはこの詩を愛唱した。そしてその詩のように、学窓から兵舎に、そして戦場に、散々《ちりぢり》にわかれて行った。言ふなかれ、君よ、わかれを、見よ、空と水うつるところ、黙々と雲は行き雲は行けるを、という心境であった。そして少なくない友人が死んでいった。戦争は終った。
私が「戦友別盃の歌」の詩人にはじめて会ったのは、知人宅の通夜の席であった。詩人も同じく通夜の客であった。
大木さんはいたく憔悴《しようすい》しておられた。何でも疎開先の福島の山中から、東京に帰ったばかりとのことであった。そして一緒に疎開した富沢|有為男《ういお》氏は、まだ福島にとどまっているとのことであった。
今でいうノイローゼであったろう。自宅からその家まで国電で来られたわけだが、二駅か三駅乗っては降り、乗っては降りして、三時間もかかってつきました、と言われた。
私は大木さんの姿に、戦争のつらかったこと、長かったことを、今更のように思った。知人宅にはその頃では珍しいウイスキーが何本かあった。私たち数人はそのウイスキーを飲みながらとうとう夜明かしをしてしまった。
大木さんも酒が入ってくると、だんだん元気になって、報道班員となってバタビヤ沖海戦に参加し、沈没して南の海に漂った話や、大木さんの師、北原白秋の逸話などを自分から話すようになった。自らの言葉に激して、ハラハラと落涙されたりした。私はそこに、詩人の姿を見た。文字通り、通夜となって朝の陽ざしの中で宴は果てた。突如、大木さんが同席した人に、一人一人握手を求め、
「愉快な晩でした」
と、大きな声で叫んでから、ハッと気付き、
「不謹慎でした」
と、今度は小声でつぶやいて、ピョコンと頭を下げた。そのたくまざるユーモアが、大木さんの人柄を語るようであった。
戦前の文芸雑誌の編集者の間では、「武田|麟太郎《りんたろう》はツライ。大木惇夫はイタイ」という伝説があったそうだ。つまり武田麟太郎の原稿をとるのは、武田さんが締切りを守らずしかも神出鬼没するのでツライのである。大木惇夫の詩をとるためには、大木さんと酒を飲まねばならぬ、酒を飲むのは結構だが、酔うと大木さんは、やたらに握手をし、感きわまれば頬ずりをする、それがイタイのだそうだ。
通夜の晩から数年して、私はツライ、イタイの伝説が真説であることを知った。私は大木さんの自叙伝風の小説『緑地ありや』の担当記者になり、約十三カ月を大木さんと密着して過すようになったのである。
大田区千鳥町のお宅で、盃《さかずき》をかわし、新橋、渋谷、神楽坂《かぐらざか》と、原稿の前祝いといっては飲み、第何回分完成祝いといっては飲んだ。すこぶるイタかった。
そして『緑地ありや』が本当に完成した夏の一夕、私は大森の都新地に招待された。今晩は徹底的に飲もう、というのである。「とんぼ」という料亭であった。座敷のすぐ下は堀割で、すぐに海であった。「とんぼ」のおかみは、なかなかの女傑で、大木さんとは昔からの知り合いである。美しい芸者も来た。飲むほどに、酔うほどに、その夜の大木さんは勇気|凜々《りんりん》、仕方話は、いつしかジャワの頃になり、いよいよ佳境に入った。その勢いに芸者たちは、だんだん席の端の方に退《さが》り、小さくなってかたまった。
ジャワで報道班が解散になり、班員たちが別離の宴をはった時の話になった。宴たけなわの頃、大木さんは満座の中で即興の詩を朗詠したという。それを「とんぼ」の座敷で再現するのである。大木さんはジャワでは真に謹厳な生活をされていたという。はるかに日本に残した愛する人を想えばのことであったそうな。されば——
  ほとほとに困《こう》じ果てたるわが|ほと《ヽヽ》を
山の夜霧に触りつるかも
いかならむいましが|ほと《ヽヽ》もほとほとに
歎《なげ》きつらむか触る者なくに
わが魔羅《マラ》が三千海里の長さあらば
何を海原越えて汝《なれ》に触れむ
 と、一差し舞いながら朗ずると、「三寸足りない」と声がかかった。大宅壮一氏であった。大木さんは、束《つか》の間《ま》、ポカンとしたが、大宅さんのギャグがわかり、されば——
  わが魔羅《マラ》が三千海里三寸の長さあらば
何を海原越えて汝に触れむ
「字余りは許せよ」
と大木さんは大宅さんに言ったそうである。そのかつてのジャワの別離の宴の熱演も終った。海からポンポンポンという焼き玉エンジンの音がした。
おばしまに立つと、海はすでに夜明けの海であった。すぐ下を小舟が漁場に向うところであった。料亭の小さな植込みから、とまどいしたように蝉《せみ》が啼き出した。蹌踉《そうろう》として私のかたえに立った大木さんが言った。
「セ、セ、セミも起きたね」
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