——杏の花を撮りに行こう。真田幸村が飢饉《ききん》に備えて植えさせた杏の里、信州・森《もり》村に行こう。四月の半ばには、森村は杏の花で埋ってしまう。春の朧《おぼろ》、杏の花の下に立とう。四月には、杏の里を、杏の花を撮りに行こう。
土門さんは私の顔を見るたびに、森村の杏の花の話をした。一緒に写真を撮りに行こうと誘った。私も賛成して、四月の来るのを待ち侘《わ》びた。だが四月半ばになっても土門さんは他の仕事に追われていた。
そして杏の花期が過ぎる頃、来年は必ず行こうと言った。次の年も虚《むな》しく杏の花期は過ぎて行った。私は決して土門さんを恨まなかった。眼を閉じれば、まだ見ぬ杏の村のたたずまいがいよいよ美しく、そして朧に広がるようであった。
土門さんは緻密《ちみつ》な人であり、几帳面《きちようめん》な人でもあるが、何かに熱中すると他のことが見えなくなる人である。だからひとつの仕事を始めると、次の計画も、人との約束も、きれいさっぱり無くなってしまう。しかもひとつの仕事が終ってから次の仕事の取っ掛かりが、なかなかつかない人である。それは怠けてそうなるのではなく、そのことを真剣に考えるあまり、神輿《みこし》があがらないのである。
だから一緒に旅する時には、時間を決めて東京駅や羽田空港で待ち合わせるよりも、明石町の土門さんの家に直行して、撮影機材ともども土門さんを車に積んでしまうに限る。私は仕事の都度、こういう手段をとった。
関西行きを約束した朝、明石町の家を訪ねると、土門さんは着物で胡坐《あぐら》をかいて朝食をとっているところだった。熱い里芋の赤だし、新巻の鮭《さけ》がうまそうだった。土門さんはどんぶりほどに見える大振りな茶碗で、ご飯を食べていた。私の顔を見て、会釈しながら「おかわり」と大振りな茶碗を奥さんに差出した。私はご飯をよそる奥さんに、
「おかわりをするんですか? 私たち二人は一膳会の会員ですよ。一食、一膳の誓いを立てている筈なんですがね……」
と訊《き》くと、夫人は、
「そういえば、去年の夏だったかしら、矢口さんと信州から帰って来た当座、一週間くらいでしたかね、ご飯一杯しか食べないんで、お腹《なか》でも悪いのかと思っていましたよ」
奥さんの言葉に、土門さんは体を小さく丸めて、イタズラを見つけられた腕白小僧のようにした。
その時の関西の旅行で、私は一年もの長い間裏切られた無念さで、モリモリご飯をおかわりして食べた。土門さんはそんな私を上目使いで見ながら、
「すまなかった、悪かった。オイ、おかわり!」
と、宿の女中にご飯のおかわりをした。かくして一膳会は脆《もろ》くも雲散霧消したのである。
その年の六月も終る頃、土門さんが編集室にやってきて、杏の森村に行こうと言いだした。
「そろそろ七月ですよ。杏の実でも撮りに行きましょうかネ」
と皮肉ると、杏の花で有名な森村は今や花作りの村になっていて、今はカーネイションと菊の最盛期で、屋代《やしろ》の駅から東京へ花の貨車が出るほどだと強調した。
私は杏の花が咲いていなくても一度森村を見たかったし、嘗《かつ》ての真田幸村の領民がカーネイションを作っているのも面白く思った。土門さんと信州に行くことにした。
上野の駅でも信越線の車中でも土門さんは好奇の目で迎えられた。土門さんは赤と白の太いストライプの特別発注のポロシャツを着ていた。しかも安南人が冠《かぶ》るような菅笠《すげがさ》を冠っていた。
千曲川が左に見えはじめ、それが大きく曲ると、急行は戸倉駅に着いた。私たちは戸倉駅で降りて、戸倉温泉の清風園にひとまず旅装を解くことにした。私は駅長室に行って戸倉駅長に刺を通じて、今夜の上り夜行の貨車には屋代駅で花が積み込まれるかを確かめ、土門拳さんに写真を撮ってもらうことにしていると言って、ホームに立っている菅笠姿の土門さんを指差した。駅長の視線が窓ガラスごしに菅笠姿で止り、凝視の眼差しになり、
「あの方が土門先生ですか」
と言って、
「わかりました」
と挙手の礼をした。私は清風園に滞在することもつけ加えた。
タクシーで清風園に行ったが、七月もはじめのシーズンオフというのに、部屋が満員ということで断られた。その時、戸倉駅長から電話が掛かった。駅長は、
「土門拳先生の撮影の件で配車計画をご報告したい」
というような表現をしたらしい。宿の人の態度は一変して、私たちは奥のそのまた奥の、たいへんいい部屋に通された。
廊下ですれ違う女中さんは揃《そろ》いの軽快なワンピースを着ていた。その人たちは、夜にはスリーピースの新しい着物のユニフォームに早替りした。デザインは桑沢洋子さんのものであった。こんな新しい経営者の宿でも、どうやら土門さんの扮装は理解の外にあったらしい。
その日から、菅笠と赤白ストライプが、屋代駅|界隈《かいわい》、杏の里の村道や背戸を徘徊《はいかい》し始めた。訪れた農協では、いかにも頭のよさそうな若い職員が土門さんの姿に度肝を抜かれ、一瞬ポカンとした。
しかし、その青年もいつの間にか取材に献身的に協力しはじめる。深夜作業の駅員も、取材に協力してくれた。出荷される花は、菊もカーネイションも葦簾《よしず》の簀巻《すまき》で貨車に積まれるのである。花の|しとね《ヽヽヽ》とは思えぬ風情で、次々に積みこまれていった。
村の子供たちは一連隊のように、私たちのあとをついて歩いた。私たちは持てるだけのキャラメルをポケットや鞄《かばん》に忍ばせて、村の子供たちにプレゼントした。子供好きの土門さんには、東京の子供たちも、広島の子供たちも、そして信州の村の子供たちもすべて身近な友だちなのである。
安南人が使用する菅笠とビーチパラソル風のシャツが抜けるように青い夏空のもとで、シャッターを切って歩いた。
屋代駅の裏にある田舎によくあるよろず屋風の店のおばあさんとも友だちになった。空気がきれいだから、夏の陽は強い。おばあさんは土門さんのために氷いちごを作った。
カンナに氷をのせて、氷の上に布巾をのせてガリガリ掻《か》くあの時代物の氷かきで、おばあさんは汗ダクになって、氷いちごを作った。作るそばから土門さんはその氷いちごを平らげた。
おばあさんの額に汗の粒が吹いて出た。消費が生産を上回るのである。しかしそんなことは容赦せずに土門さんはひたすら氷いちごを飲み込むのである。
おばあさんは襷《たすき》にたたまれた着物の袖を抜くようにして、その袖で額の汗を拭いた。そして土門さんがうまそうに氷いちごを食べるのを嬉しそうに見やるのであった。