学生時代、英文学のある教授が、「ユーモアは哀しさと同居する」と講義中に話された。若い私にはその真意がよく理解できなかった。
戦後雑誌記者になって、藤原審爾さんと相|識《し》るに及んで、果然この言葉の哲理を体得することができたのである。
私が藤原さんを知ったのは、藤原さんが『世の助』を「小説新潮」に連載しはじめた頃で、当時、もっとも忙しい流行作家の時代であった。
藤原さんと私は、奇《く》しくも生年月日が殆ど同じなのである。ただ藤原さんの家は岡山の名家で、「そういえば池田という殿様が徳川になってからきましたなァ」というほどの旧家であったから、戸籍係に無理がきいたのだろう。だから戸籍の上では私より一月も兄上で、したがって早生れになっている。
それにもかかわらず、私の社に電話をかけてくるときには、交換嬢に、
「矢口のオジサマはイテハリマスカ?」
と言うのである。ある日交換嬢が、
「矢口のオジサマとおかけになる藤原さんとは?」
ときくので、藤原審爾さんだというと、大いに驚いていた。
それもそのはずである。万事早熟な藤原さんであれば『秋津温泉』をひっさげて文壇に打ってでたのは、まだ紅顔の美少年?の頃で、文学好きの交換嬢にとってみれば、彼こそ藤原のオジサマのはずである。そんなことは露知らず、またぞろ例によって、「矢口のオジサマはイテハリマスカ」と電話してきた。
「ハイどちらさまで?」
ときかれて、よせばいいのに、
「藤原のオニイサマです」
「ああ、藤原のオジイサマでございますか」
と一本取られたのである。
藤原さんは凝り屋である。いいかえればものごとに真剣に取りくむのである。あれは、もう何年前になるだろうか? パチンコが流行《はや》りはじめた頃、箱根温泉の早川口の割烹《かつぽう》旅館にしばらく滞在していた。むろん小説を書くためである。追手のある身である。各社の編集者が、その旅館に殺到していた。私もその中にいた。
しかし、藤原さんの心はひたすらパチンコにあった。早川口は、箱根登山電車のガードをくぐれば小田原市である。朝起きると、その頃、もてはやされたルノーをチャーターして緑町をふりだしに小田原市のパチンコ屋を総ナメにした。どのパチンコ屋も、藤原さんの顔をみると、長居の客のために恭しく丸椅子をだすのである。編集者も、仕方なしに終日パチンコをした。その中に私もいた。
戦いすんで日が暮れると、ルノーに藤原さんだけが弾《はじ》きだしたパチンコの景品を山積みにして宿へ帰った。藤原さんが桃太郎、私たち編集者がイヌ、サル、キジである。そして、鉛のようになったからだに酒を流し込みながら、今日もまた、一枚も小説が書けなかった空《むな》しさに、桃太郎もサルもキジも各《おの》がじし自己嫌悪に陥るのである。ある編集者は景品のキャラメルの山の中で鼾《いびき》をかいた。
ある日、電話がかかってきて、会いたいという。行ってみると、藤原さんの脇に端正な大学生がいた。東大生であった。
藤原さんの話し方は、藤原さんの書く小説の流麗さとはちょっと違った感じである。そのやや生硬な表現で訴えるところによれば、これからの日本は隔絶されてしまった新中国を理解するか否かによって、運命が大きく左右される。だからそのためにはまず中国語を会得せねばならぬ。この東大生は中国語のベテランである。今日、これより、日本のために、二人はこの東大生の中国語会話の生徒になるのだというのである。
若い私も感激して(二十年ほど前のことです)即座に大学生の弟子になった。そして苦行がはじまった。テキストは倉石武四郎先生のもので、藤原さんがドアの外に立つ、私は応接間の椅子に坐っている。彼がトントンとノックする。中の私が「誰阿《シエイヤ》」、ドアの向うから藤原さんが「我《ウオ》」とくる。ドアをあける。そこで私が「|※[#「にんべん+尓」、unicode4f60]来了《ニイライラ》。請坐《チンツオ》、請坐《チンツオ》」とやる。
そこらまではよかったが、だんだん難しくなり、駅をきいたり、三番線の列車は何時に出るか? といった件《くだ》りには完全にノイローゼになった。
ご承知のように、中国語は一声から四声まである。その微妙な発音のニュアンスをオッパズすと端正な東大生が厳しく叱るのである。正確に発音しようと彼我相対すると、どうみてもたがいに顔面神経痛……鬼気迫るのである。まず藤原さんが弱音を吐き、先生が来ると、逃げようと言う。三十も半ば越して、二人で窓からエスケープするなんて哀しからずや。
次に凝ったのが野球である。国体の軟式野球の部で日本一を争うほどのチームを築きあげたオーナーである。称して「藤原組」。
私もメンバーに加えてあるというので大いに喜んだら、ただし三軍だという。三軍とはケシカランとイカったら、女子野球と対戦させてくれた。我、欣然として三軍となる。
オーナーであれば、選手のスカウトにも身を入れる。私の住む国立市の豆腐屋の息子が六尺豊か、店先でキャッチボールをする英姿をみるに、その体躯《たいく》、そのスピード、沈滞ぎみのプロ野球選手を凌駕《りようが》す、と吹聴すると、次の日国立に行き、豆腐屋の主人に会い、
「わが藤原組に、なにとぞ——」
と頼み、
「せっかく家業に落ちついた矢先に、何をぬかすか!」
と一喝され塩をまかれた。
次に釣である。釣の師匠は井伏鱒二先生であり、新潮社の専務、佐藤俊夫さんとは鯛《たい》釣りの仲間である。藤原さんは不思議な人で、この道でも筋がよい。釣れすぎて困ることも再々であるようだ。
麻雀《マージヤン》は学生時代、麻雀屋のおやじに見込まれ、その店の用心棒になったほどの腕前である。将棋をさせば、高段者の井伏先生を不機嫌にさせる。
このあいだ、藤原さんが浮かぬ顔をしているので、
「どうしたの?」
ときくと、お手伝いさんが居つかないと嘆くのである。理由をきくと、理想主義者の藤原さんは、農村から出てきた子女を教育するのである。教育の成果があがる。目覚めた彼女らは、一人残らず主人に向って曰《いわ》く、
「こんなことはしていられません」
といって、彼のもとを去るのであった。
つまり、目覚めすぎるのだなァ。
おもしろうてやがて哀しき鵜飼《うか》いかな