「小人《しようじん》閑居すれば……」
と、土岐雄三さんが晴々とした顔で言った。
「閑居すればどうなります?」
「ろくなこたあ、ありません。とにかくおれはもうだめな男だと、しみじみ身に沁《し》みるばかり……」
だめな男などと言いながら、その言葉とは裏腹に、土岐さんの顔はいよいよ晴々しいのである。
それにしても土岐さんと銀座で飲むのは三月《みつき》ぶりである。というのも土岐さんは、「むこう三カ月、絶対に盛り場には足を入れない、一ト月三万円のお小遣で暮らす」と宣言したのである。
そしてその三月がたった。その苦難の三カ月が漸《ようや》く満願になって今日は晴れて銀座にやって来たのである。
ホステスの顔をうっとり眺めたり、ミニスカートからはじき出た若々しい|あんよ《ヽヽヽ》に視線を釘《くぎ》づけにしたり、今度は思い出したように室内をぐるりと見まわしたりする。
「ことの起こりは、ほら、鎌倉の瑞泉寺《ずいせんじ》にめしを食いに行ったじゃあないですか。川端さんを囲んで芹沢《せりざわ》さん、阿川さん、立野さん……、その立野さんは亡くなってもういないけれど、あの日、鎌倉から遅くなって銀座に舞い戻って……二軒目に行ったバーがありましたよね。そうだ、藤島さんも一緒だった。その藤島泰輔さんの懇意の店……あそこに着物のびっくりするほど似合う女性《ひと》がいたでしょう」
「着物を着た女性は何人もいたけど」
「その一人なんです。年甲斐《としがい》もなくいきなりポーッとなりましてね。みなさんには内緒でそれからというものは……。まあ、そういったことで昵懇《じつこん》になりましてね。ところが騙《だま》されてたんだな、結局。マンションの頭金とか、踊りの温習会とか、なんやかやで、一金百八十六万かかったとき騙されていたと気がついて……。これまでにこんなことばかり繰り返していましてね」
山本周五郎を師と仰ぐ土岐雄三さんは、伸びたさかやき寂しくなぜて……無駄金つかうが男の道、女に惚《ほ》れるということは、とりも直さずその女に金を使うことだと心得ている。それが男の甲斐性だと決めている。だから、
「その前のさる女は店を出さしてくれというので、少しばかり手伝ったことがあるんです。ほら、有楽町のガードを潜《くぐ》って『そごう』のところを右に行くと、小料理屋めいた店があるでしょう。え、ご存じない? ええ、ご存じなくて結構なんです。私だってケタクソ悪くて、『そごう』のところを右に曲ったことはありませんよ。うっかり忘れて前を通るときなど駆けだします。あの金が、一金二百二十三万。そのまた前のさる女性は月々のお手当が一金五万。あれはどれだけつづいたか……。ともかく、その頃の物価指数など勘案すると、あの頃の五万円は貨幣価値がありましたよ」
「お言葉中ですけれど、土岐さんの話には着物がよく似合うという以外は�一金……�ばかり出てきて、|さる女性《ヽヽヽヽ》の見目形や風情が一向に描写されませんね。行間に女性のエモーションがにじみでない」
「にじまなくても結構なんです。すべて決算済みで金に換算してあるんです」
と言って、土岐さんはさすがに自分から噴き出した。
行間から女性の情緒は生れてこないけれど、土岐さんの女話はいっそ、あっけらかんとしていてさわやかであった。そしてちょっぴりもの哀しかった。それから嘗《かつ》て銀行の重役の、それも型破りの重役であった余香もするようであった。
「そんなことでね、今度ばかりは私は決心したんです。もう一銭たりとも無駄使いはすまい、女のためには金を使うまい、金を使わせる女のいる盛り場には足を踏み入れまい。そんな決心をした晩に、池島信平さんにばったり会いましてね、つい、その感懐を開陳すると、あの池島さんという人は根っからのジャーナリストでさあ。お前さん、一ト月三万円のお小遣で三カ月暮してみないか。そして、その体験記を『文藝春秋』に書きなさい、というんです。おっちょこちょいだから、軽い気持で引受けましたね。それからが苦行のはじまり……」
土岐さんは苦行のはじまりのところで、水薬を飲むような苦っぽい顔をして、オン・ザ・ロックスをぐいと飲み、今度はぱっと明るい顔になって、
「願明けの日だけに酒がうまいや。銀座はいい。生きてる証拠だ」
「三万円で、小人閑居のときは……?」
「それなんです、子供はみな独立しちまって、海外にいたり別の家にいたりだから老妻と二人、九部屋もあるだだっ広い家にいるなんて、間《ま》が持てません。どうしようもないんです。人間、金を使わないとイキイキしてこない。仕方がなしにテレビを見る。今日《きよう》び、テレビってものは昼間っからドラマでね、ミニスカートの若い娘《こ》に初老の男が傾きかけている……、とたんにうしろで老妻の咳《せき》ばらい。『世の中には似たような人がいるもんですね』。あわててチャンネルを変えると、またぞろパンタロンの若い娘に中年紳士がよろめいている。おちおちテレビも見られませんよ。退屈のあまり鴨居《かもい》にぶら下ってテレビを見ましたが、これはちょいといけましたね。それから、双眼鏡で庭の池の金魚や鯉を見るのもおもしろい」
「双眼鏡で池の鯉を見るとどうなります?」
「いえね、家の池の鯉なんてたかが三千円ぐらいのものなんだけれど、双眼鏡で見ると巨大になりますなあ。時価三十万は下らない名鯉《めいごい》になります」
「三十匹いたとして計一千万円の鯉ですか、豪華な眺めです。とにかく鯉はいいもんですねえ」
「いえいえ、もうコイはいけません。コイは憂きもの辛いもの」