ソフトフォーカス
私は友人に恵まれている。つねづね幸せなことと思っている。秋山庄太郎氏も得がたい友人の一人だ。氏などというのはおかしい。彼とは同期の桜である。だから顔を合わせれば、秋庄、秋さん、庄ちゃん、などと呼んでいる。
庄ちゃんはソフトフォーカスで新境地を拓《ひら》いて一時代を創った。ところがこのソフトフォーカスの|後ろ《ヽヽ》には、ソフトどころか、精巧な計算と見ごとなメカニズムがあるらしい。庄ちゃんのフィルムを印刷所にわたすと、たとえば凸版、大日本、共同などの技術者は、「秋山先生の写真ですか。はりきってやらせていただきましょう」と心いさむのである。
日常生活の中の庄ちゃんのムードも、いってみればソフトフォーカスである。しかし、その裏側にあるきびしさを見逃してはならない。彼は生硬な理屈やお説教がきらいなだけである。
しかし世の中はおもしろいもので、お説教嫌いの庄ちゃんに人生相談を持ちかける女優さんが数多くいる。おそらく女の本能が庄ちゃんの本質を見抜いて相談に行くのだろう。
ずいぶん昔のことだが、まだ新橋の狸小路《たぬきこうじ》にあった編集者仲間の溜《たま》り場の「とんこ亭」でのんでいると、飄然《ひようぜん》と庄ちゃんが入ってきた。
「パリに行くんだ。だから歯を治してるんだ」
と前歯の欠けた治療中の口を開いてみせた。
庄ちゃんに前歯がないのは、終戦直後のアクシデント以来のものである。
それはまだ進駐軍が肩で風をきって巷《ちまた》をのし歩いている頃のことだった。新橋駅附近で酔ったGI達が日本女性に乱暴をしかけた。庄ちゃんは敢然としてその行きずりの婦人を守った。GIが庄ちゃんに襲いかかって、したたかなぐられた。かけつけたMPは不法にも庄ちゃんを警視庁に連行した。庄ちゃんはその時、沖縄行きを覚悟したそうだ。幸い許されて出てきたからよかったものの、大変な災難であった。庄ちゃんの気骨に一段とみがきがかかった代りに、前歯がなくなったのである。
「そうか、パリに行くのか。羨《うらや》ましいな」
「ちょっと早すぎるけど、思い切って行ってくるよ。でも前歯がないと入国が許可されないそうだ」
「前歯は歯医者が治してくれるからいいけれど、パリはフランス語しか通用しないんだぜ」
「だからフランス語のできる奴に、これ書いてもらったんだ」
といって大学ノートの切れはしをヒラヒラさせた。
その紙切れには、中央にケイが引いてあって、左側に日本語、右側にはフランス語が書かれてあり、そのフランス語の上には仮名のルビがふってあった。
「どれどれ『私に水を下さい』『ブドウ酒を下さい』『パンとコーヒーを下さい』……なんだ、食物ばっかりじゃないか。なに? 『私にライスカレーを下さい』、パリにもライスカレーがあるのか?」
それを皮切りに、その後何度か庄ちゃんはパリに行ったが、言葉だけはあまり上達しなかったらしい。銀座を歩いていて、ある著名なフランスの女優を紹介され、思わず「コンビャン」といって握手をして、フランス美人を卒倒させそうになった。もっとも庄ちゃんにいわせると、
「夕闇せまる銀座街頭で、にわかにフランス美人を紹介されてみろ、思わず『コンビャン|ワ《ヽ》』ぐらい、いいたくなるじゃあねえか」
ということなのだが。
庄ちゃんの話の面白さは、おおむね失敗話であり、吹き出したくなる愚痴話である。
だから折角なおした歯にしても、
「パリの野菜なんてロクなものはないよ。キュウリなんてデカイばかりで鮫肌《さめはだ》ときたもんだ。固いのなんの。生キャベツをくっていて、前歯がかけちまった」んだそうである。
もう十年一昔のことになるだろうか。「お染」から分れて独立した「小夜」で庄ちゃんとのんだ。当時の「小夜」は銀座ではなく、新橋の狸小路にあった。その「小夜」にはトイレがなかった。外に行くのである。何度めかのトイレから帰ってきた庄ちゃんが、
「トイレといえばなァ、パリのキャフェでコーヒーをのんでいたんだ。僕のワキにバアさんが犬を連れてきて、これもコーヒーをのんでた。そこへ五十がらみの夫婦がやってきて、アッという間にバアさんの連れていた犬にカミさんが噛まれちまったんだなァ。それからの口論のやかましいこと。こっちには何にもわかんないんだけど、フランス語のケンカはけたたましくうるさい。そのうちに僕の方にやってきて何かいうんだ。どうやら証人になれ、ということらしい。僕はテレかくしに犬の頭をポンと叩いた。そしたらアッという間にこっちまで噛まれちゃった。早業だよ。証人変じて被害者。警察がきて、一同救急車にのせられた。どうやら狂犬病の予防で警察病院につれていかれるらしい。寒い日でね。自動車の中はシンシンと冷えるし、呉越同舟のヤツが車の中でまで口論している。そのうちにオシッコがしたくなったんだ。『ピピ』ってポリスにいったが通じない。切なくなってゼスチャーゲームよろしくやったけど通じない。警察病院はえらく遠くてね。パリのとんでもない郊外にあるんだ。ついた時は気絶寸前。そのままトイレにとびこんだ。出てくると美人の看護婦がビーカーをわたして、ここにションを入れろだって。無理ですよ、もうでやあしないよな」
といった具合である。その晩はのみすごして、私は庄ちゃんの家にとまった。庄ちゃんの布団に私が寝て、庄ちゃんはスタジオの脇にあるソファーに寝た。明け方眼が覚めてフト気がつくと、庄ちゃんの愛犬ダックスフントが私の寝床にもぐりこんで、アゴを私のお腹《なか》にのせているのである。
「お前の主人は下で寝てるよ。お客さんはもっとスマートじゃないか」