終戦後三年ばかりは、座談会の場所に苦労した。適当な部屋もなく、料亭もレストランもほとんど見当らなかった。わずかにやみ料亭があって、各雑誌社はこうしたところを利用していたと思う。しかし値段はむろん法外に高いのだが、当時としてはこんな美食が! という料理がでた。だから座談会の出席を依頼すると、先生方は、
「どこでやります? ああ、あそこはうまくていいなぁ」と喜んで出席を快諾し、こちらが「ところでテーマは……」と話そうとすると、
「それは会場で聞く」
というようなこともあった。
その当時、料理の権威、本山荻舟《もとやまてきしゆう》さんと古谷綱武さんの対談をしたことがある。阿佐ヶ谷の「ピノキオ」から料理を品川の本山さんの知り合いの寺まで運んで、寺の一室で記事をとった。カメラマンはフリーの人を頼んだ。もっとも当時は専属のカメラマンを持っている雑誌社は少なかった。座談会場に眼鏡をかけた精悍《せいかん》な男が現われた。
座談会の写真などというものは、またたく間に撮れる。たいがいのカメラマンは、雰囲気《ふんいき》の出た時に、話の邪魔にならぬように撮ると「ではお先に」と小声で言って、さっさと帰ってしまうものである。
ところがこの若い眼鏡の男は、写真を撮り終ると、対談者の間にどっかり坐って、話を熱心に聞き始めた。そのうちに相槌《あいづち》を打ち始めた。次に口の中で、
「その通り。いや、それは」
などとつぶやき始めた。そしてついに発言までし始めたのである。その発言の内容というか筋はまことによろしい。ついに本山さんはカメラマンの疑問に答えたり、意見に相槌を打ち始める始末である。この眼鏡の男が樋口進さんだったのである。
彼は腕のいい報道カメラマンであった。後楽園で脚立を立てて取材中、同業のカメラマンが故意に脚立にぶつかったとかで、脚立の上から転落してしばし心の旅路を味わった。これはうわさで聞いた。
次に彼が私の前にあらわれた時は、文藝春秋のチーフカメラマンであった。しかも私の友人、田川博一編集長の義弟になっていた。つまり田川夫人と樋口夫人とは姉妹なのだ。
樋口さんは水を得た魚のような活躍を始めた。「オール讀物」に連載した『空からの日本拝見』は単行本にもなった。その出版記念会は盛大なものであった。
夜の巷でもよく顔を合わせた。そのうちに彼は野球にこりだした。むろん軟式の、それも草野球であるが、彼は得意気にその日行われた試合の模様などを語るのである。よほど野球がうまいのだろうと思ったら、社内対抗でバッターボックスに立ち、背中にデッドボールを受けると、さっそうと一塁に走って行ったそうである。当時軟式野球ではデッドボールは認められなかった。満足にルールも知らなかったのだ。
その彼が文春野球部の監督になったのである。軽井沢で合宿訓練をしているといううわさも聞いた。しかも出版野球リーグでは相当な成績をあげはじめた。思うに「週刊文春」が出来て、カメラマンを始め、若い社員が大量に増えて野球人口が豊かになった結果であろう。しかし彼はそれを、監督の手腕と確信しているようであった。
ある晩、戦前から文士の溜《たま》り場で知られる銀座の「はせ川」の二階で飲んでいると、隣りの部屋が急ににぎやかになった。相当な人数の宴会らしい。襖《ふすま》ごしに話声が聞えてくる。何やら演説とも訓辞ともつかぬ声もひびき始めた。
「カーブは捨てろ。まっすぐだけをねらえ。それも右へ流すのだ。いいか、攻撃は最大の防禦《ぼうぎよ》である」
などと聞えてきた。私は、プロ野球か何かの会合かと思ったが、席を立って廊下に出ると、これも廊下に出ようとした男とはち合わせをした。樋口さんであった。いや、樋口名監督であった。さきほどの声はむろん、彼のものであり、野球部の納会の訓辞を行なったのだという。
私はそんなに強いチームなら、一度お手合わせを願おうと挑戦して、数日後、グラウンドに立つ樋口名監督の英姿をまのあたり見る光栄に浴した。
プレイボール前に円陣をつくり、円陣の真中で檄《げき》をとばした。「一点差で勝とう!」
これは万年テールエンドの大洋を優勝に導いた三原監督の故智にならったのである。
もっともこの時の試合は、私の社のチームのことを考えてコマを落したそうである。しかも編集部を主力にしたと彼は言った。だから外野は左から、井上良、小林米紀、印南寛さんという編集部のヴェテランばかりを起用した。しかし投手だけはまだ入社したばかりの新人・豊田健次さんをたててわずかに若返りをはかったのである。豊田投手が先発するということは前々日にわかったので、試合の前日、私は豊田さんを誘って銀座で飲んだ。豊田さんは大いに飲んだ。そして翌日、私は四打数三安打という大当りをしたのである。これは少しばかりうしろめたいのであるが、勝負の世界は厳しいのデス。
さて日本人が海外旅行をして、夜の都を訪れると、その土地の案内者が「樋口さんをご存じですか」と聞くそうだ。彼の名は海外にまでとどろいているわけである。その地域はやや東南アジアにかたよってはいるが……。
沖縄の花街でも艶《えん》なる女性が「樋口さんが」と言った。香港の中国娘も「ヒグチさん」を知っていた。香港ではバックボディという新語を作った樋口さんで通っている。バックボディが何を意味するかは聞きのがしたが、風流人の彼であるから、おそらく風流な事柄なのであろう。
彼は世界をまたにかける男であるから、むろん旅慣れている。この間、久し振りで会った時、彼は憮然《ぶぜん》として羽田の日本税関の態度を嘆いた。
彼は旅慣れているから身軽で旅立つ。アメリカに行くのに手ぶらで出かけたのである。
果然、羽田の出国事務所の日本税関で詰問を受けた。荷物がないのがあやしいというのである。彼は羽田の税関が世界一の田舎者であることを心から嘆くのである。
その時私は、バックボディとは何かと聞いた。彼は目をパチパチさせながら、
「おれは竹を割ったような気性だ。物事、万事、矛盾していることは大嫌いだ。英語は矛盾している。だから大嫌いだ。それ故、おれは英語は上達しない。マンと言えば、どうしても女を連想するだろう。ところが英語ではマンは男だ。複数のメンにしても牝《メン》を連想する。矛盾していないか、英語は。しかも、女は子供を産むくせに、ウーマンとは何事だ。女が束になって口をそろえて、ウーメンと言うのは何事だ」
私は竹を割ったような気性の男から、バックボディの意味するところを聞くのはやめにした。