昭和四十八年の十一月十八日から十一月末にかけて私は京都で、日本語のまことに上手な外国人と寝起きを共にした。日本ペンクラブ主催の国際会議のために、世界四十一カ国からやってきた三百人に近い日本学の研究者で、ジャパノロジストと呼ばれるだけあって、まことに日本語の上手な人たちであった。中には、
「漱石の作品は私小説とは程遠いように|この国《ヽヽヽ》の人は受けとっていますが、『猫』の苦沙弥先生はもちろんのこと、『それから』の代助といえども、所詮《しよせん》、漱石の分身なんで、つまり、私小説と受けとらざるを得ませんねェ」
などと言う人もいた。
ある人は初日は「ありがとう」と言い、二日目は「おおきに」に変った。
毎朝ホテルを八時半に出発して、バスで宝ヶ池の国際会議場に通うのであるが、たまたま隣りにすわった外人に、私はみごとに黄ばんだ街路樹の銀杏《いちよう》や結構なお屋敷の紅葉した楓《かえで》を指さして、
「今年は、京都はめずらしく秋が遅く、現在《いま》が紅葉の真盛りです」
と、話しかけると、
「ペンのために特別サービスしましたね」
と言った。�特別サービス�などという日本語を知っているのだから、油断ならない。彼は若いベルギー人であった。
そういえば、新幹線で富士の裾野が見えはじめた時、同行のジャパノロジストたちは歓声をあげ、無邪気に喜んだのだが、裾野に拡がる工場にはいたくがっかりして、巌谷大四さんの近くにいた一人が、
「富士の裾野に工場がある。広重、北斎と違うではないか」
と嘆いたそうだ。すぐ傍にいたドナルド・キーンさんが、
「あれで日本文化の研究をしているんですかねぇ。富士の見える裾野にやたらに工場が建ち、田子の浦がヘドロで埋る……、こうした日本列島の体質こそ、日本文化研究の焦眉《しようび》のテーマではありませんか」
と、巌谷さんに話されたという。もっともドナルド・キーンさんは自他共に許す日本学の権威であり、富士の裾野の工場とか田子の浦のヘドロなど今更の問題ではないのである。私は今から十五年ほど前、軽井沢の川端康成さんの別荘を訪ねて、偶然キーンさんにお目にかかった。その時キーンさんは、
「私はもう京都には行きません。私の常宿の部屋から見える美しい杉の木立が、今度行ったら跡かたもなく伐《き》られているんです。日本人はそして日本の為政者は自然をあまりにも粗末にしすぎます」
と言われていた。
私はある空怖ろしさを感じた。空怖ろしさというよりは、むしろ苛立《いらだ》ちといった方がいいかもしれない。
それは私たち日本人が失ったり、忘れかけてしまった�日本の心�を、ジャパノロジストと呼ばれる外国人の方が持っているらしいことへの苛立ちである。
もっとも彼らは各自の研究題目を通じて会得した�日本�であり、ある時代のある部分の狭い�日本�であるから、そこだけの�日本�については、平均的日本人より深い知識を持っているのは当然である。
しかし私が言いたいことは彼らの心情が少なくとも今様の若い世代の日本人よりは、より日本的なあるものを宿しているということである。
彼らは日常会話もつとめて日本語で話をした。国際会議の会期中、晩秋の小春日和がつづいたことを、ある能の研究者は、川端康成氏の霊が守ったのだと真顔で話すのである。そして話が京名物の北山しぐれだとか飛雪になり、やがて風花について語り合うのである。そんな外国人の横顔を眺めていると、こうした目の青い男が、昔々その昔の日本人に見えてきたりするのであった。
一日の会議が終ってホテルに戻ると、特設の談話室でオン・ザ・ロックスを飲んで話すのが、毎晩の愉しみであった。藤島泰輔さんと毎日新聞の学芸担当の記者が論争をはじめると、あるフランス人は私に向って、
「日本のエリートといいますか、ホワイトカラーは、酔ってくると英語が混じります」
と言った。途端に藤島さんが、
「ナンセンス! プレスマンはレスポンシビリティがない!」
と言った。そのフランス人はしたり顔で、
「でしょう。これこそ日本研究のいいテーマです」
東山の都ホテルを、毎朝八時半に出て、九時からはじまる記者会見を皮きりに、お昼の一時間の休みの他は、私たちは休みなく働いた。深夜、いろいろな仕事が飛び入りをする。藤島さんにいたっては、イスラエルから来た人々を担当してガードマンも兼ねていたから、その心労は大変なものだったろう。さすがに皆疲れた。
閉会式の日は、耳鳴りがしてボンヤリした。広報委員室に行くと、中屋健一委員長が放心状態でいた。体力気力の充実した中屋さんは、マイペースでテキパキと強引に仕事を進める人である。広報委員長専用のナンバー11号の車は文字通り大車輪のフル回転であった。わずかに空いているときには私も11号車を使った。11号の運転手が私に訊いた。
「あの方はどういう方ですか。大変に偉い人だと思います。しかし職業がわからないんです」
「東大名誉教授の中屋健一氏であります」
「東大の先生? 京都の先生とは|えろう《ヽヽヽ》違いまンなァ」
そのえろう違うタフネスの中屋さんと、広報委員室のソファーに並んで腰かけていると、
「ハロー」
と、外国婦人が入ってきた。
会期中、後にも先にも外国人が英語で話しかけたのはこれがはじめてである。外人のくせに英語をつかうなんて意外な出来ごとである。
だからこちらの調子が狂った。何を思ったか中屋さんがニッコリ笑って、
「アロハ」
と言った。脇にいた田辺茂一さんがすかさず、
「いよいよ�ハロー注意報�」