美濃の皇太子というべき小次郎頼秀を国外に追っぱらった庄九郎は、
「斎藤山城守利政《やましろのかみとしまさ》」
と、名乗りをあらためた。これで何度目の改名になるのであろう。
改名のときにはいつも京へ馳《は》せもどってお万阿に報告するのがこの男の可愛い癖であったが、こんどは京へはもどらず、
「斎藤山城守利政《やましろのかみとしまさ》」
と、名乗りをあらためた。これで何度目の改名になるのであろう。
改名のときにはいつも京へ馳《は》せもどってお万阿に報告するのがこの男の可愛い癖であったが、こんどは京へはもどらず、
大望あり、しばし待て。いずれゆるりと京へのぼり、そこもとと物語などする。
と手紙を送っただけであった。
大望とは、美濃征服の最後の仕上げとして大桑城で酒色にふけっている「お屋形様」こと土岐頼芸をほうりだすことであった。ほうりだせば、庄九郎は名実ともに美濃の国主になる。
(こんどは難事業だ)
と覚悟はしていた。
ひたすらにその思案をした。
思案の場所を、この男はきめている。邸内に建てた小さな持《じ》仏堂《ぶつどう》であった。お堂には法華経の本尊である釈《しゃ》迦牟尼《かむに》仏《ぶつ》の小さな像がおさめられている。
「釈迦よ、われを救《たす》けたまえ」
と、いつも法華経を転読し、そのあとで思案にふけるのだ。
大望とは、美濃征服の最後の仕上げとして大桑城で酒色にふけっている「お屋形様」こと土岐頼芸をほうりだすことであった。ほうりだせば、庄九郎は名実ともに美濃の国主になる。
(こんどは難事業だ)
と覚悟はしていた。
ひたすらにその思案をした。
思案の場所を、この男はきめている。邸内に建てた小さな持《じ》仏堂《ぶつどう》であった。お堂には法華経の本尊である釈《しゃ》迦牟尼《かむに》仏《ぶつ》の小さな像がおさめられている。
「釈迦よ、われを救《たす》けたまえ」
と、いつも法華経を転読し、そのあとで思案にふけるのだ。
一方、頼芸は、むろん、庄九郎が稲葉山城で宗教的荘厳につつまれつつ、そんな思案にふけっているとはゆめにも知らない。
頼芸は、荒淫の毎日を送っていた。このめぐまれた男は、男として、いま地上の極楽のなかにあるといっていい。
なみたいていな女好きではなかった。頼芸は女に接するとき、痴態愚戯のかぎりをつくし、ときには、
——みな、予のすがたをみよ。
と、侍女たちに自分の戯《たわむ》れを見せ、ときに児《こ》小姓《ごしょう》どもにも見せた。これがこの男の仕事のようになっていた。
それを一門の者が諫《いさ》めたりすると、
——予は百姓にうまれついておれば働きに働いて一枚の田地でもふやそうと思う。足軽にうまれついておれば、戦場で兜首《かぶとくび》をかせぎどうとでもして士分に取りたてられたいとおもう。しかし予は何か。守護職ではないか。これ以上のことがもはや望めず、人間として野望の楽しみのない不具同然の存在で、いわば翼をもぎとられて飛べぬ鳥とおなじだ。勢い、その吐け口が、女と酒と美食にゆくのが当然ではないか。
といった。
頼芸のからだは、ほぼ脂肪でできている。色白く、一見、京の公卿《くげ》をおもわせる形態だが、しかし外形に似ず生命力の旺《さか》んな男で、女を毎日御《ぎょ》しても、疲れも飽きもしなかった。この物語の時点よりのちのはなしになるが、頼芸はその後諸豪族の厄介《やっかい》になりつつ齢のみをかさね、ついに八十二という、この時代としてはおどろくべき高齢で世をおわった。これほど酒色にふけってもなおありあまる体力のもちぬしだったことは、これでもわかる。
鷹《たか》だけを、描いている。
この画技だけは年々すばらしくなり、京都あたりの茶人が、
「土岐の鷹」
として珍重するようになっていた。むろん頼芸は、金品で売っていたわけではない。側近の者などに描いて呉れてやる「鷹」が、自然と諸国へ流れてゆくのである。
もしこの画才がなければ、頼芸はなんのために地上にあらわれてきたか、わからない男であったであろう。
いや、こうも言える。酒色以外の関心は、すべて絵にあった。めずらしくそばに女がいず、酒杯を手にしていないときの頼芸は、一個の芸術家になっていた。かれのあたまは、絵のみが独占した。この絵のために政治的慾望も関心も皆無になっていた。かれに画才さえなければ、多少の政治的関心もうまれ、
——斎藤山城守は、あるいはおれをほろぼそうとしているのではないか。
という疑惑も、当然うまれていたかもしれない。
とにかく。
頼芸は、白粉《おしろい》と鉄漿《おはぐろ》をつけた天使のような男であった。なにも気づかない。
もっとも天使といっても、女には異常に移り気で、気に入っているかとおもえばすぐ飽き、つぎつぎと寵姫《ちょうき》を変えた。
——どこぞに、面白《おもしろ》いおなごはおらぬか。
というのが口ぐせであった。ある日、京の大徳寺から、世に名のきこえた老禅師がたずねてきた。
頼芸は歓待し、禅話などをさせ、——さてと身を乗りだして、
——ちかごろ京に、よきおなごはおりませぬか。
と訊《き》いた。老禅師は聞きしにまさるこの田舎大名の女好きにあきれ、
——淫楽は亡国のもとでござるぞ。
といさめた。
さらにこまったことには、頼芸は自分の国の美濃女を好まない。
——国の女と寝るほどなら、自分の手足をなめていたほうがましだ。
とつねづね言い、「女は都だ」ときめ、京女をのみどんどん仕入れさせた。教養人だけに都の文化へのあこがれがつよく、そういうふんい気を持った女でなければ、色慾が昂揚《こうよう》しないのであろう。
庄九郎は、京とのあいだに通商路をもっている。頼芸にねだられるたびに、京から女を仕入れていた。
しかしちかごろはかれのほうがうんざりしはじめ、
——もう先日の女は、お気に召さぬようになりましたか。
と、あまりいい顔をしなくなっていた。
先日もそれで、多少の言いあいをした。
「色深きはお屋形様のご体質でありますから詮《せん》ないとして、真の色好みの道は、一人二人のおなごを、奥深う愛することでございます。色を漁《あさ》っては、ついに色の面白味がわからずに世を終えましょう」
「賢《さかし》らなことをいう」
と、頼芸はあざわらった。
「戦さの道ならばともかく、その道ならばそちよりもわしのほうが、苦労を経ている。色のおもしろさは、漁色《ぎょしょく》するにある。わしは絵をかく。一枚描きあげてもつねに満足することがなく、さらによい絵をとねがう。描く鷹にしてもそうだ。よい鷹をもってきてくれたときなど、むらむらと描きたくなり、一気に描きあげてしまう。しかし描きあげてしまえば二度とその鷹をかく気がしない。見るのもいやになる。つぎの鷹を、と思う。たえず、新しい美しさを追求している。絵も鷹も女も、わしにあっては同じ一つのものだ。この気持は、絵という道楽をもたぬそちにはわかるまい」
といった。
上これを好めば下これに従う、で、頼芸の居城の大桑城は、近習《きんじゅう》、児小姓にいたるまで奥女中と通じ、淫楽の府のようになっていた。
(韓《かん》非子《ぴし》にあるとおりだ)
と、庄九郎は、むかし京の妙覚寺本山にいたころに読んだ唐土《から》の奇書を思いだした。
韓非子には、「人の君主たる者は、家来に物の好きこのみを見せてはならぬ」というくだりがある。家来がすぐそれに迎合するからだ。
たとえば、と韓非子にいう。——越王勾践《えつおうこうせん》は勇者が好きであった。このため越にはかるがるしく死ぬ者が多くなった。楚《そ》の霊王はふとった女がきらいで、細腰の女のみを愛した。このため楚では餓《が》人《じん》が多くなった。絶食して痩《や》せようと努めるからである。ひどい例になると、桓公《かんこう》は食道楽でつねにうまいものはないかと味を漁《あさ》っていたため、ついに易《えき》牙《が》という料理人は自分の子を蒸焼きにして桓公の食卓にすすめた。……
もともと頼芸の女色は、庄九郎が最初、
(このひと、色深し)
と見ぬいてすすめてきたところで、僻《へき》地《ち》の大桑城に移らせたのも、その世界に心おきなく惑溺《わくでき》させるためであった。
その作戦がみごとに的中してしまい、頼芸は、夜昼の区別さえつきかねる男になってしまった。
頼芸は、荒淫の毎日を送っていた。このめぐまれた男は、男として、いま地上の極楽のなかにあるといっていい。
なみたいていな女好きではなかった。頼芸は女に接するとき、痴態愚戯のかぎりをつくし、ときには、
——みな、予のすがたをみよ。
と、侍女たちに自分の戯《たわむ》れを見せ、ときに児《こ》小姓《ごしょう》どもにも見せた。これがこの男の仕事のようになっていた。
それを一門の者が諫《いさ》めたりすると、
——予は百姓にうまれついておれば働きに働いて一枚の田地でもふやそうと思う。足軽にうまれついておれば、戦場で兜首《かぶとくび》をかせぎどうとでもして士分に取りたてられたいとおもう。しかし予は何か。守護職ではないか。これ以上のことがもはや望めず、人間として野望の楽しみのない不具同然の存在で、いわば翼をもぎとられて飛べぬ鳥とおなじだ。勢い、その吐け口が、女と酒と美食にゆくのが当然ではないか。
といった。
頼芸のからだは、ほぼ脂肪でできている。色白く、一見、京の公卿《くげ》をおもわせる形態だが、しかし外形に似ず生命力の旺《さか》んな男で、女を毎日御《ぎょ》しても、疲れも飽きもしなかった。この物語の時点よりのちのはなしになるが、頼芸はその後諸豪族の厄介《やっかい》になりつつ齢のみをかさね、ついに八十二という、この時代としてはおどろくべき高齢で世をおわった。これほど酒色にふけってもなおありあまる体力のもちぬしだったことは、これでもわかる。
鷹《たか》だけを、描いている。
この画技だけは年々すばらしくなり、京都あたりの茶人が、
「土岐の鷹」
として珍重するようになっていた。むろん頼芸は、金品で売っていたわけではない。側近の者などに描いて呉れてやる「鷹」が、自然と諸国へ流れてゆくのである。
もしこの画才がなければ、頼芸はなんのために地上にあらわれてきたか、わからない男であったであろう。
いや、こうも言える。酒色以外の関心は、すべて絵にあった。めずらしくそばに女がいず、酒杯を手にしていないときの頼芸は、一個の芸術家になっていた。かれのあたまは、絵のみが独占した。この絵のために政治的慾望も関心も皆無になっていた。かれに画才さえなければ、多少の政治的関心もうまれ、
——斎藤山城守は、あるいはおれをほろぼそうとしているのではないか。
という疑惑も、当然うまれていたかもしれない。
とにかく。
頼芸は、白粉《おしろい》と鉄漿《おはぐろ》をつけた天使のような男であった。なにも気づかない。
もっとも天使といっても、女には異常に移り気で、気に入っているかとおもえばすぐ飽き、つぎつぎと寵姫《ちょうき》を変えた。
——どこぞに、面白《おもしろ》いおなごはおらぬか。
というのが口ぐせであった。ある日、京の大徳寺から、世に名のきこえた老禅師がたずねてきた。
頼芸は歓待し、禅話などをさせ、——さてと身を乗りだして、
——ちかごろ京に、よきおなごはおりませぬか。
と訊《き》いた。老禅師は聞きしにまさるこの田舎大名の女好きにあきれ、
——淫楽は亡国のもとでござるぞ。
といさめた。
さらにこまったことには、頼芸は自分の国の美濃女を好まない。
——国の女と寝るほどなら、自分の手足をなめていたほうがましだ。
とつねづね言い、「女は都だ」ときめ、京女をのみどんどん仕入れさせた。教養人だけに都の文化へのあこがれがつよく、そういうふんい気を持った女でなければ、色慾が昂揚《こうよう》しないのであろう。
庄九郎は、京とのあいだに通商路をもっている。頼芸にねだられるたびに、京から女を仕入れていた。
しかしちかごろはかれのほうがうんざりしはじめ、
——もう先日の女は、お気に召さぬようになりましたか。
と、あまりいい顔をしなくなっていた。
先日もそれで、多少の言いあいをした。
「色深きはお屋形様のご体質でありますから詮《せん》ないとして、真の色好みの道は、一人二人のおなごを、奥深う愛することでございます。色を漁《あさ》っては、ついに色の面白味がわからずに世を終えましょう」
「賢《さかし》らなことをいう」
と、頼芸はあざわらった。
「戦さの道ならばともかく、その道ならばそちよりもわしのほうが、苦労を経ている。色のおもしろさは、漁色《ぎょしょく》するにある。わしは絵をかく。一枚描きあげてもつねに満足することがなく、さらによい絵をとねがう。描く鷹にしてもそうだ。よい鷹をもってきてくれたときなど、むらむらと描きたくなり、一気に描きあげてしまう。しかし描きあげてしまえば二度とその鷹をかく気がしない。見るのもいやになる。つぎの鷹を、と思う。たえず、新しい美しさを追求している。絵も鷹も女も、わしにあっては同じ一つのものだ。この気持は、絵という道楽をもたぬそちにはわかるまい」
といった。
上これを好めば下これに従う、で、頼芸の居城の大桑城は、近習《きんじゅう》、児小姓にいたるまで奥女中と通じ、淫楽の府のようになっていた。
(韓《かん》非子《ぴし》にあるとおりだ)
と、庄九郎は、むかし京の妙覚寺本山にいたころに読んだ唐土《から》の奇書を思いだした。
韓非子には、「人の君主たる者は、家来に物の好きこのみを見せてはならぬ」というくだりがある。家来がすぐそれに迎合するからだ。
たとえば、と韓非子にいう。——越王勾践《えつおうこうせん》は勇者が好きであった。このため越にはかるがるしく死ぬ者が多くなった。楚《そ》の霊王はふとった女がきらいで、細腰の女のみを愛した。このため楚では餓《が》人《じん》が多くなった。絶食して痩《や》せようと努めるからである。ひどい例になると、桓公《かんこう》は食道楽でつねにうまいものはないかと味を漁《あさ》っていたため、ついに易《えき》牙《が》という料理人は自分の子を蒸焼きにして桓公の食卓にすすめた。……
もともと頼芸の女色は、庄九郎が最初、
(このひと、色深し)
と見ぬいてすすめてきたところで、僻《へき》地《ち》の大桑城に移らせたのも、その世界に心おきなく惑溺《わくでき》させるためであった。
その作戦がみごとに的中してしまい、頼芸は、夜昼の区別さえつきかねる男になってしまった。
そうしたある日、斎藤山城守利政こと庄九郎は、邸内の持仏堂に赤兵衛をよんだ。
「なにか、それがしにご相談ごとで」
と、赤兵衛は神妙にかしこまった。
「相談などは、おのれらにするものか。わしの思案を口に出してまとめるために、話し相手として呼んだのだ」
「して、どのような」
「じつはお屋形様に国外へ出てもらおうか、とおもっている」
「いよいよ、来ましたな」
赤兵衛は、その一事が、ふたりでこの国に流れてきたときからの計画だから、
(もはや、仕上げか)
とおもい、感慨無量な顔をしたのである。
そうは思いつつ、ふと、ある一事が気になって、庄九郎に質問してみた。
「殿。なにしろ、お屋形様と殿とは、君臣水魚のまじわりをなされております。いざとなった今日、うしろめたくはござりませぬか」
そんな弱気が出れば、事はかならず失敗する、と赤兵衛なりに思ったのである。
「うしろめた……? 考えたこともない」
と、庄九郎はいった。
「わしはもともと、国を奪《と》るためにこの美濃にきた。人に仕えて忠義をつくすために来たのではない。ただの人間とは、人生の目的がちがっている。目的がちがっている以上、尋《た》常《だ》の人間の感傷などは、お屋形さまに対しては無い」
「ははあ」
やはりめずらしい人だ、と赤兵衛はあらためて庄九郎を仰ぐ思いであった。
「お屋形様は」
と庄九郎はいった。
「あの土岐頼芸という方は、わしにとって一個の道具にすぎない。ちょうど木地屋《きじや》における轆《ろく》轤《ろ》であり、大工における手斧《ちょうな》であり、陶工におけるへら《・・》であり、鍛冶屋《かじや》におけるふい《・・》ご《・》のようなものだ。わしは道具の家来になったのではないから、道具に対する義理だてはいらぬ。お屋形様は道具にすぎぬ。わしはその使用者であった。わしはその道具によってあたらしい国家をつくろうとしてきた」
「はい」
赤兵衛は、いつのまにか、偉大な教祖に接するようにひれ伏していた。
「赤兵衛は、陶器《やきもの》の作り方を知っているか。あれは、最初は泥《どろ》を轆轤台の上にでんと盛りあげ、轆轤をころころとまわして、泥をせりあげつつ、まるい茶わんをつくりあげてゆく。さて茶わんの形はできた。それが現在《いま》だ。いまの段階がそれだ。しかし轆轤台の上の茶わんはまだ、泥でしかない。この茶わんの形をした泥を本物の茶わんにするには、轆轤台から離し、かま《・・》に入れ、火をもって焼き締め、さらには釉薬《うわぐすり》をぬり、ふたたびかま《・・》に入れて火をもって焼き、それでできる。要するに、お屋形という轆轤台はもう不要なのだ。捨てられねばならぬ。あと、必要なのは、火である」
火とは、戦いのことであろう。
「その火に掛けるまでに、まず轆轤台を捨てねばならぬ」
庄九郎はすこしだまり、やがて、
「この捨てぎわが、むずかしい。そっと泥の茶わんを持ちあげて台から離さねば、茶わんまで崩れてしまう」
茶わんとは、庄九郎の考えている新国家のことであろう。
「この場合、敵味方に対する詐略《さりゃく》がいろいろと必要だな」
庄九郎は、その詐略を、一つずつ順序だてて赤兵衛に語りはじめた。
庄九郎は、大桑城にゆき、酒宴の真最中の頼芸に拝謁《はいえつ》した。
よいところへ来た、飲め、と頼芸が杯をすすめたが、庄九郎はいつになく拒み、
「お暇乞《いとまご》いに参りました」
といって、頼芸をおどろかせた。
「暇と申して、京へ帰るのか」
「お人払いを。——」
と庄九郎はいう。頼芸は仕方なく女どもや小姓を退らせた。
「それがし、京へは帰りませぬ。お屋形様に去って頂こうというわけでございます。あ、いや、お待ちを。去っていただく、と申してもこの美濃をではござりませぬ。守護職からご勇退ねがわしゅうございます。あ、お待ちを。つまり、ご隠居なされませ、と申すのでございます」
「隠居?」
愕然《がくぜん》とした。隠居すれば、僧形になって頭をまるめ、隠居号を名乗るだけでなく、生活が一変する。隠居料としてわずかな土地をもらって、ほそぼそと食うのである。もはやこんな豪奢《ごうしゃ》な生活はできない。
「わしはいやだ。そちはなんのためにそのようなことをいう」
「国が乱れております。国中の者は、お屋形様の度はずれたご遊興にあきれ、もはや心を寄せる者もなく、このままでは美濃の結束はやぶれ、隣国がもし攻めてくれば、侍どもはお屋形様につくよりも、織田、浅井、朝倉などの三方の敵国に奔《はし》りましょう。とにかく、お屋形様は、いまもしご隠居なさらねば、美濃はほろびまする。土岐家もほろび、お屋形様のお命も、敵の大将の手に落ちましょう。ご隠居は、救国の急務でござる。ご自分のおためでもありまするぞ」
と、朗々といった。
頼芸は度をうしない、
「せぬ、せぬ」
と叫び、
「隠居々々と申すが、身を隠居させてたれを守護職にしようというのだ」
「お屋形様の御《おん》子《こ》を、でござる」
「子?」
「お屋形様に、お覚えがございましょう。その御子、わが屋敷に十六年間、おあずかり申しておりまする」
「義竜《よしたつ》か」
といったのは、頼芸の不覚であった。その子が自分のたね《・・》であることをみとめたことになるのである。
思えば、ふるいことだ。
庄九郎が土岐家に仕官して六年目に、当時、鷺山《さぎやま》城主でしかなかった頼芸をなだめすかして、その愛妾《あいしょう》深《み》芳《よし》野《の》を貰《もら》いさげた。
「そのかわり、殿を美濃の守護職にしてさしあげまする」
と庄九郎がいったために、頼芸は慾心をおこして、つい深芳野をはなした。そのときその深芳野の腹に、頼芸のたね《・・》がかすかに息づいていることを、頼芸は、自分と深芳野以外は知らぬ、とおもっていた。
あのとき、深芳野に耳うちして、
——あの者には言うな。実の父をいうと、あの者はうまれて来る子を粗末にするでの。
といった。
事実、庄九郎は知らぬ様子であった。これほどに才智に長《た》けた男でも、この天然のふしぎだけはわからぬものか、と頼芸はひそかに庄九郎をあなどっていた。
それほど、その翌年の大永七年六月義竜がうまれたときの庄九郎のよろこびは、異常なばかりであった。
(深芳野を呉れてやったのは惜しくない)
と、その当時、頼芸は思った。
(あの者に、わしの子をあずけているようなものだ。かつあの者の身上《しんしょう》がいかに大きくなろうと、その身上をおれの子の義竜が継ぐ。世はうまく出来ている)
それもあって、頼芸は、あれよあれよというまに勢力を増大させて行った庄九郎を、
(害になる)
とは思わなかったのである。むしろ、頼芸から進んで、西村、長井、斎藤、という土岐一門の名家の名跡《みょうせき》を継がせて行ったのは、それもあってのことだった。
庄九郎は、百も承知していた。しかも庄九郎にすれば、その後、正妻として明智氏から小見《おみ》の方を迎えたが、あくまでも義竜の惣領《そうりょう》の位置をくずさなかったのは、一子「義竜」こそ、美濃では天涯《てんがい》の孤客である自分と守護職頼芸をむすんでいる見えざる紐帯《ちゅうたい》であると思っていたからである。
「そ、そちは、存じておったのか」
「いかにも。——義竜《よしたつ》君は」
と、庄九郎はわが子に敬称をつけた。
「りっぱに成人なされております。背は六尺五寸、体重は三十貫」
魔物かと思われるほどの大男であった。
「この義竜ぎみに、お譲りなされませ。美濃はご安泰になりましょう」
といったが、庄九郎はみずから国主になる肚《はら》だから、義竜は便宜上の道具《・・》にすぎない。
「いやだ」
と、頼芸はいった。
「ことわる。どうしてもわしに隠居をさせたければ、兵馬に問え」
「おそれ入る」
と、そのまま稲葉山城に帰り、その日、美濃でおもだつ豪族の招集を命じた。
庄九郎のいう、
「火」
の段階が近づいている。
よいところへ来た、飲め、と頼芸が杯をすすめたが、庄九郎はいつになく拒み、
「お暇乞《いとまご》いに参りました」
といって、頼芸をおどろかせた。
「暇と申して、京へ帰るのか」
「お人払いを。——」
と庄九郎はいう。頼芸は仕方なく女どもや小姓を退らせた。
「それがし、京へは帰りませぬ。お屋形様に去って頂こうというわけでございます。あ、いや、お待ちを。去っていただく、と申してもこの美濃をではござりませぬ。守護職からご勇退ねがわしゅうございます。あ、お待ちを。つまり、ご隠居なされませ、と申すのでございます」
「隠居?」
愕然《がくぜん》とした。隠居すれば、僧形になって頭をまるめ、隠居号を名乗るだけでなく、生活が一変する。隠居料としてわずかな土地をもらって、ほそぼそと食うのである。もはやこんな豪奢《ごうしゃ》な生活はできない。
「わしはいやだ。そちはなんのためにそのようなことをいう」
「国が乱れております。国中の者は、お屋形様の度はずれたご遊興にあきれ、もはや心を寄せる者もなく、このままでは美濃の結束はやぶれ、隣国がもし攻めてくれば、侍どもはお屋形様につくよりも、織田、浅井、朝倉などの三方の敵国に奔《はし》りましょう。とにかく、お屋形様は、いまもしご隠居なさらねば、美濃はほろびまする。土岐家もほろび、お屋形様のお命も、敵の大将の手に落ちましょう。ご隠居は、救国の急務でござる。ご自分のおためでもありまするぞ」
と、朗々といった。
頼芸は度をうしない、
「せぬ、せぬ」
と叫び、
「隠居々々と申すが、身を隠居させてたれを守護職にしようというのだ」
「お屋形様の御《おん》子《こ》を、でござる」
「子?」
「お屋形様に、お覚えがございましょう。その御子、わが屋敷に十六年間、おあずかり申しておりまする」
「義竜《よしたつ》か」
といったのは、頼芸の不覚であった。その子が自分のたね《・・》であることをみとめたことになるのである。
思えば、ふるいことだ。
庄九郎が土岐家に仕官して六年目に、当時、鷺山《さぎやま》城主でしかなかった頼芸をなだめすかして、その愛妾《あいしょう》深《み》芳《よし》野《の》を貰《もら》いさげた。
「そのかわり、殿を美濃の守護職にしてさしあげまする」
と庄九郎がいったために、頼芸は慾心をおこして、つい深芳野をはなした。そのときその深芳野の腹に、頼芸のたね《・・》がかすかに息づいていることを、頼芸は、自分と深芳野以外は知らぬ、とおもっていた。
あのとき、深芳野に耳うちして、
——あの者には言うな。実の父をいうと、あの者はうまれて来る子を粗末にするでの。
といった。
事実、庄九郎は知らぬ様子であった。これほどに才智に長《た》けた男でも、この天然のふしぎだけはわからぬものか、と頼芸はひそかに庄九郎をあなどっていた。
それほど、その翌年の大永七年六月義竜がうまれたときの庄九郎のよろこびは、異常なばかりであった。
(深芳野を呉れてやったのは惜しくない)
と、その当時、頼芸は思った。
(あの者に、わしの子をあずけているようなものだ。かつあの者の身上《しんしょう》がいかに大きくなろうと、その身上をおれの子の義竜が継ぐ。世はうまく出来ている)
それもあって、頼芸は、あれよあれよというまに勢力を増大させて行った庄九郎を、
(害になる)
とは思わなかったのである。むしろ、頼芸から進んで、西村、長井、斎藤、という土岐一門の名家の名跡《みょうせき》を継がせて行ったのは、それもあってのことだった。
庄九郎は、百も承知していた。しかも庄九郎にすれば、その後、正妻として明智氏から小見《おみ》の方を迎えたが、あくまでも義竜の惣領《そうりょう》の位置をくずさなかったのは、一子「義竜」こそ、美濃では天涯《てんがい》の孤客である自分と守護職頼芸をむすんでいる見えざる紐帯《ちゅうたい》であると思っていたからである。
「そ、そちは、存じておったのか」
「いかにも。——義竜《よしたつ》君は」
と、庄九郎はわが子に敬称をつけた。
「りっぱに成人なされております。背は六尺五寸、体重は三十貫」
魔物かと思われるほどの大男であった。
「この義竜ぎみに、お譲りなされませ。美濃はご安泰になりましょう」
といったが、庄九郎はみずから国主になる肚《はら》だから、義竜は便宜上の道具《・・》にすぎない。
「いやだ」
と、頼芸はいった。
「ことわる。どうしてもわしに隠居をさせたければ、兵馬に問え」
「おそれ入る」
と、そのまま稲葉山城に帰り、その日、美濃でおもだつ豪族の招集を命じた。
庄九郎のいう、
「火」
の段階が近づいている。