義昭は一日も早く将軍になりたい。そのくせ、身を敦賀《つるが》湾に突き出た小さな田舎城の奥でくすぶらせている。海景にも倦《あ》きた。
いらだつのはむりもない。
「まだか」
と、日に何度も口走った。織田家からの迎えの使者は——という意味である。いったん織田家を頼ってゆくと決めた以上、矢も楯《たて》もたまらなくなる性格だ。
「いましばらくご辛抱を。藤孝(細川)殿や明智十兵衛光秀が奔走しておりまするゆえに」
と側近の者がそのつどなだめた。
事実、かれらは奔走している。
かれらだけではない。信長自身がそうであった。織田家で外交能力のある部将をことごとく駆り出して義昭迎え入れの外交工作に追いつかっていた。
信長は戦国諸豪のなかでもいわば新興勢力に属している。その実力からいって、甲斐《かい》の武田氏や越後の上杉氏に、
「分際《ぶんざい》から申せば差し出たことでございますが、公方(義昭)様をわが岐阜にお迎えしたいと存じます。いちずに忠義から出た志でありますゆえ、誤解くださいませぬよう」
という意味のことを申しのべて、かれらの了解を得ておかねばならなかった。
それに北近江の小《お》谷《だに》には、浅井氏という強剛の新興大名がいる。ここは交通上、義昭が敦賀からくだってくる通過国であり、かつ、信長が義昭を奉じて上洛《じょうらく》するにしても通過せねばならぬ領国であった。このため浅井氏に対しては十分以上に懐柔しておかねばならなかった。
幸い、浅井氏は、永禄《えいろく》八年に信長の妹お市が嫁《か》して姻戚《いんせき》関係を結んでいる。自然、交渉がしやすかった。ただ南近江の六角承禎《ろっかくじょうてい》のみは京の三好党と同盟を結び、信長のさそいに応じそうになかった。
とまれ、そういう情勢である。
「まだか」
と義昭は言いつづけていたが、ついに信長の外交がほぼ目鼻がつき、義昭が岐阜へ動座できるようになったのは永禄十一年七月である。同月十三日に義昭は敦賀を出発し、北国街道を南下し、三日目には近江小谷城に入り、ここを中宿として数日、城主浅井長政から鄭《てい》重《ちょう》な饗応《きょうおう》を受けた。
近侍の細川兵部大輔藤孝も義昭に離れずに従っている。
岐阜の織田家からは、家老柴田勝家が出迎えの指揮官として小谷城にやってきていた。その勝家の補佐官として木下藤吉郎秀吉がおり、足利家への連絡官兼儀典係として明智光秀が来ている。
一日、細川藤孝は、幕臣の立場として盟友の光秀にそっときいた。
「信長の本音はどうだ」
ということである。
「本気だ」
と、光秀は内密な場だから友達言葉で答えた。
「織田家に仕えてみてやっとわかったことだが、あの上総介殿というのはどうやら常人ではない」
「というと?」
「すべてが本気だ、ということだ。こういう仁もめずらしい」
つまり、義昭をひきとる、となれば必死の勢いでその工作をする。朝倉義景のような儀礼的な態度ではない。本気だ、と光秀はいうのである。さらに義昭を上洛させるという、いまの情勢では、放れわざに近い至難のことも「本気で考えている」という。
光秀のいう「本気」というのは、
——目的にむかって無我夢中、
という意味らしい。
「諸事、そういうところがある」
勁烈《けいれつ》な目的意識をもった男で、自分のもつあらゆるものをその目的のために集中する、つまり「つねに本気でいる」男だ、と光秀はいった。
「女さえも」
と、光秀は生真面目《きまじめ》な表情でいった。
つまり閨《ねや》で女と寝ているときでさえも、戯《たわむ》れつつも本気《・・》でいる。本気とは子を生ませることを考えている。さらに生まれるであろうその子が女であればそれをどの方面の政略に用いるかということをさえ考えて閨で戯れている、といったような人物だというのである。
「ほう」
と、まず藤孝がおどろいたのは、いつも端正な顔つきをした光秀が、めずらしく男女の生《なま》な事柄《ことがら》を持ちだしたことであった。
「尾《び》籠《ろう》な例で、おそれ入る」
「いやいや、その例えで上総介殿というお人柄がよくわかる。ところで」
と、藤孝は声をひそめた。
「上総介殿はちかごろおかしな印を用いられているそうだな」
「いん《・・》とは?」
「これのことよ」
と、藤孝は、左の掌《てのひら》をひらき、そこへ印を捺《お》すまねをした。朱印、黒印のあの印のことである。「おかしな」と藤孝がいったのは、その印に彫られている文字のことらしい。
光秀はうなずき、
「天下布武」
といった。
「左様、その天下布武、——いや古来まれというべきみごとな印文であるが、これについておぬしはどう思う。なにか感想はないか」
「さあ」
光秀はさすがに批評をさしひかえた。
ちなみに、印に文字を彫って自分の理想を表現するということが、諸国の武将のあいだではやっている。ちかごろの流行である。
関東の覇《は》王《おう》ともいうべき小田原の北条氏康《うじやす》は「禄寿応穏《ろくじゅおうおん》」という印である。
意味は、「禄寿まさに穏やかなるべし」ということであろう。氏康は謙信、信玄にも比すべき名将とはいえ、北条家開運の雄早雲《そううん》からかぞえて三代目である。結局その理想は、父祖がひらいた家運をたもち天寿を全うする、といういわば無事平穏を祈るという心境にあるらしい。
みずからを軍神の申し子と心得ている上杉謙信の印は、把《は》手《しゅ》に獅子《しし》像をつけ、印文は、
「地帝妙」
の三字であった。地《・》蔵・帝《・》釈・妙《・》見、というインドの三神の文字を一字ずつとってその加護を願い、かつ信じている。宗教的性格のつよい謙信らしい印文である。
「とすると上総介(信長)殿は、天下を取ろうという野望をもっているわけだな」
と、藤孝はいった。当然なことでこんにちいかなる武将といえども天下の主になることを夢想せぬ者はいまい。が、それは夢想にとどまり、中国の毛利氏は中国を一歩も出ぬという保守主義を家法のようにしているし、関東の北条家も、領国の安全をのみねがい、天下取りに対する具体的動きは示さない。
はっきりとそれを持ち、その計画の基礎を着実にかためているのは甲斐の武田信玄ぐらいのものであろう。
「天下布武、とは驚いたな」
と、藤孝は言いかさねた。天下ニ武ヲ布《シ》ク、というのは征《せい》夷《い》大将軍のことではないか、つまり足利将軍のことではないか、具体的にいえば義昭こそその栄職につくべきひとであろう。
「となると、上総介殿は、陽《あらわ》には義昭様を将軍の位置につけると称していながら、内心、機を見て自分がその地位につこうとしているのではあるまいか」
とにかく幕臣としての細川藤孝にすれば、信長の親切はありがたいが、ひょっとすると虎《こ》狼《ろう》の心が隠されているのではあるまいかとそれのみが気になる。
「これは兵部大輔殿とも思われぬ」
と、光秀は笑いだした。藤孝が驚いたのは、この心配に光秀が同意してくれるかと思ったのだが、光秀は意外にも、
「男子とはそうあるべきものではないか」
といったのだ。
「ほう、あるべきもの《・・・・・・》か」
「左様、男の志とはそういうものだ。寸尺の地に住んでいても海内《かいだい》を呑《の》む気概がなければ男子とはいえまい」
「つまり足利家の天下であるべきこの日本国の武権を、信長が奪おうとするのがよいことだと十兵衛殿は言われるのか」
「気概だ」
光秀はいらだたしくいった。
「気概の表現なのだ、天下布武とは。——上総介殿が現実に足利家の世を奪おうとするわけではない」
「それならばよいが」
「いや、かえって私が驚いた。怜《れい》悧《り》な兵部大輔殿にも似気《にげ》なく、わけのわからぬことを申される」
「立場上、心配なのだ。この点、足利家の扶持をも頂戴《ちょうだい》している十兵衛殿もおなじはずであろうに」
「いかにも」
光秀はそのことには異存はない。
「しかし気概ということは諒《りょう》とされよ。私でさえこの世に生を享《う》けた以上、天下布武の気概をひそかに持っている」
「篤実《とくじつ》な十兵衛殿でさえも?」
と、藤孝はおよそ光秀らしからぬ気《き》焔《えん》を聞いて声を立てて笑いだした。
(笑え)
と、光秀は思ったが、その表情は相変らずつつましい。
いらだつのはむりもない。
「まだか」
と、日に何度も口走った。織田家からの迎えの使者は——という意味である。いったん織田家を頼ってゆくと決めた以上、矢も楯《たて》もたまらなくなる性格だ。
「いましばらくご辛抱を。藤孝(細川)殿や明智十兵衛光秀が奔走しておりまするゆえに」
と側近の者がそのつどなだめた。
事実、かれらは奔走している。
かれらだけではない。信長自身がそうであった。織田家で外交能力のある部将をことごとく駆り出して義昭迎え入れの外交工作に追いつかっていた。
信長は戦国諸豪のなかでもいわば新興勢力に属している。その実力からいって、甲斐《かい》の武田氏や越後の上杉氏に、
「分際《ぶんざい》から申せば差し出たことでございますが、公方(義昭)様をわが岐阜にお迎えしたいと存じます。いちずに忠義から出た志でありますゆえ、誤解くださいませぬよう」
という意味のことを申しのべて、かれらの了解を得ておかねばならなかった。
それに北近江の小《お》谷《だに》には、浅井氏という強剛の新興大名がいる。ここは交通上、義昭が敦賀からくだってくる通過国であり、かつ、信長が義昭を奉じて上洛《じょうらく》するにしても通過せねばならぬ領国であった。このため浅井氏に対しては十分以上に懐柔しておかねばならなかった。
幸い、浅井氏は、永禄《えいろく》八年に信長の妹お市が嫁《か》して姻戚《いんせき》関係を結んでいる。自然、交渉がしやすかった。ただ南近江の六角承禎《ろっかくじょうてい》のみは京の三好党と同盟を結び、信長のさそいに応じそうになかった。
とまれ、そういう情勢である。
「まだか」
と義昭は言いつづけていたが、ついに信長の外交がほぼ目鼻がつき、義昭が岐阜へ動座できるようになったのは永禄十一年七月である。同月十三日に義昭は敦賀を出発し、北国街道を南下し、三日目には近江小谷城に入り、ここを中宿として数日、城主浅井長政から鄭《てい》重《ちょう》な饗応《きょうおう》を受けた。
近侍の細川兵部大輔藤孝も義昭に離れずに従っている。
岐阜の織田家からは、家老柴田勝家が出迎えの指揮官として小谷城にやってきていた。その勝家の補佐官として木下藤吉郎秀吉がおり、足利家への連絡官兼儀典係として明智光秀が来ている。
一日、細川藤孝は、幕臣の立場として盟友の光秀にそっときいた。
「信長の本音はどうだ」
ということである。
「本気だ」
と、光秀は内密な場だから友達言葉で答えた。
「織田家に仕えてみてやっとわかったことだが、あの上総介殿というのはどうやら常人ではない」
「というと?」
「すべてが本気だ、ということだ。こういう仁もめずらしい」
つまり、義昭をひきとる、となれば必死の勢いでその工作をする。朝倉義景のような儀礼的な態度ではない。本気だ、と光秀はいうのである。さらに義昭を上洛させるという、いまの情勢では、放れわざに近い至難のことも「本気で考えている」という。
光秀のいう「本気」というのは、
——目的にむかって無我夢中、
という意味らしい。
「諸事、そういうところがある」
勁烈《けいれつ》な目的意識をもった男で、自分のもつあらゆるものをその目的のために集中する、つまり「つねに本気でいる」男だ、と光秀はいった。
「女さえも」
と、光秀は生真面目《きまじめ》な表情でいった。
つまり閨《ねや》で女と寝ているときでさえも、戯《たわむ》れつつも本気《・・》でいる。本気とは子を生ませることを考えている。さらに生まれるであろうその子が女であればそれをどの方面の政略に用いるかということをさえ考えて閨で戯れている、といったような人物だというのである。
「ほう」
と、まず藤孝がおどろいたのは、いつも端正な顔つきをした光秀が、めずらしく男女の生《なま》な事柄《ことがら》を持ちだしたことであった。
「尾《び》籠《ろう》な例で、おそれ入る」
「いやいや、その例えで上総介殿というお人柄がよくわかる。ところで」
と、藤孝は声をひそめた。
「上総介殿はちかごろおかしな印を用いられているそうだな」
「いん《・・》とは?」
「これのことよ」
と、藤孝は、左の掌《てのひら》をひらき、そこへ印を捺《お》すまねをした。朱印、黒印のあの印のことである。「おかしな」と藤孝がいったのは、その印に彫られている文字のことらしい。
光秀はうなずき、
「天下布武」
といった。
「左様、その天下布武、——いや古来まれというべきみごとな印文であるが、これについておぬしはどう思う。なにか感想はないか」
「さあ」
光秀はさすがに批評をさしひかえた。
ちなみに、印に文字を彫って自分の理想を表現するということが、諸国の武将のあいだではやっている。ちかごろの流行である。
関東の覇《は》王《おう》ともいうべき小田原の北条氏康《うじやす》は「禄寿応穏《ろくじゅおうおん》」という印である。
意味は、「禄寿まさに穏やかなるべし」ということであろう。氏康は謙信、信玄にも比すべき名将とはいえ、北条家開運の雄早雲《そううん》からかぞえて三代目である。結局その理想は、父祖がひらいた家運をたもち天寿を全うする、といういわば無事平穏を祈るという心境にあるらしい。
みずからを軍神の申し子と心得ている上杉謙信の印は、把《は》手《しゅ》に獅子《しし》像をつけ、印文は、
「地帝妙」
の三字であった。地《・》蔵・帝《・》釈・妙《・》見、というインドの三神の文字を一字ずつとってその加護を願い、かつ信じている。宗教的性格のつよい謙信らしい印文である。
「とすると上総介(信長)殿は、天下を取ろうという野望をもっているわけだな」
と、藤孝はいった。当然なことでこんにちいかなる武将といえども天下の主になることを夢想せぬ者はいまい。が、それは夢想にとどまり、中国の毛利氏は中国を一歩も出ぬという保守主義を家法のようにしているし、関東の北条家も、領国の安全をのみねがい、天下取りに対する具体的動きは示さない。
はっきりとそれを持ち、その計画の基礎を着実にかためているのは甲斐の武田信玄ぐらいのものであろう。
「天下布武、とは驚いたな」
と、藤孝は言いかさねた。天下ニ武ヲ布《シ》ク、というのは征《せい》夷《い》大将軍のことではないか、つまり足利将軍のことではないか、具体的にいえば義昭こそその栄職につくべきひとであろう。
「となると、上総介殿は、陽《あらわ》には義昭様を将軍の位置につけると称していながら、内心、機を見て自分がその地位につこうとしているのではあるまいか」
とにかく幕臣としての細川藤孝にすれば、信長の親切はありがたいが、ひょっとすると虎《こ》狼《ろう》の心が隠されているのではあるまいかとそれのみが気になる。
「これは兵部大輔殿とも思われぬ」
と、光秀は笑いだした。藤孝が驚いたのは、この心配に光秀が同意してくれるかと思ったのだが、光秀は意外にも、
「男子とはそうあるべきものではないか」
といったのだ。
「ほう、あるべきもの《・・・・・・》か」
「左様、男の志とはそういうものだ。寸尺の地に住んでいても海内《かいだい》を呑《の》む気概がなければ男子とはいえまい」
「つまり足利家の天下であるべきこの日本国の武権を、信長が奪おうとするのがよいことだと十兵衛殿は言われるのか」
「気概だ」
光秀はいらだたしくいった。
「気概の表現なのだ、天下布武とは。——上総介殿が現実に足利家の世を奪おうとするわけではない」
「それならばよいが」
「いや、かえって私が驚いた。怜《れい》悧《り》な兵部大輔殿にも似気《にげ》なく、わけのわからぬことを申される」
「立場上、心配なのだ。この点、足利家の扶持をも頂戴《ちょうだい》している十兵衛殿もおなじはずであろうに」
「いかにも」
光秀はそのことには異存はない。
「しかし気概ということは諒《りょう》とされよ。私でさえこの世に生を享《う》けた以上、天下布武の気概をひそかに持っている」
「篤実《とくじつ》な十兵衛殿でさえも?」
と、藤孝はおよそ光秀らしからぬ気《き》焔《えん》を聞いて声を立てて笑いだした。
(笑え)
と、光秀は思ったが、その表情は相変らずつつましい。
美濃の西ノ庄(現岐阜市内)に立政寺《りゅうしょうじ》という寺がある。浄土宗の名刹《めいさつ》で、境内に開山《かいさん》智《ち》通《つう》の植えた桜があるところから俗に、
「桜寺」
とよばれている。
この岐阜郊外の寺が、越前から近江小谷を経てはるばるとやってきた足利義昭の仮御所にあてられた。
義昭の美濃入りの日は朝からの快晴で、城下のひとびとは、
「公方晴れじゃ」
と騒ぎ、この快晴を奇《き》瑞《ずい》のように言い囃《はや》した。なにしろ美濃の国に義昭ほどの貴人が来ること自体がほとんど奇跡的なことであり、人々はただそれを思うだけで常軌をうしなうほどに陽気になっていた。この田舎では、公方といえばほとんど神に近いような存在だった。
信長も例外ではない。
この朝、この男はいつものように暁闇《ぎょうあん》の刻限から馬場に出たが、一時間ばかりのあいだ、鞭《むち》をあげつづけてまるで狂気したように馬を駈《か》けまわらせた。
(公方が来る)
この一事が、信長ほどの不愛想者を、ここまでに奇妙にさせた。これほど弾みきったところをみると、この時期での信長は、やはり一介の田舎者であったにちがいない。
城下の者などは、
「公方様のお使い古しの御湯をなんとか手に入れる工夫はあるまいか」
と騒いでいた。公方が入浴したあとの湯を呑《の》むと諸病に効《き》くということを、正気で信じていた。
むろん信長は少年のころからはっきりと意識をもった唯物論者《ゆいぶつろんしゃ》だったから、そういう迷信は信じなかった。
が、うれしさには変わらない。
(おれも公方を招《よ》べるほどになった)
という充足感があった。
さらにかれを昂奮《こうふん》させていたものは、公方招待によって「美濃人は完全におれに心服することだろう」ということだった。占領後はじめて人心が落ちつく。
(上総介様はそれほどおえらいのか)
と美濃の士民はおもうはずであった。この快挙は、土岐家の時代も、道三の時代も、斎藤義竜《よしたつ》・竜興《たつおき》の時代もついになしとげられなかったことではないか。
信長は正午すぎ、大軍をひきいて関ケ原まで行き、義昭一行を迎えた。
さらに先駆して岐阜の西南郊に入り、立政寺に義昭を招じ入れた。
ついで、正式の拝謁《はいえつ》をすることになり、別室で室町風の礼装である大紋《だいもん》に着更《きが》えた。
「十兵衛はあるか、明智の」
と、信長は小姓たちに着更えを手伝わせながらせかせかと叫んだ。やがて光秀が参上した。
「教えろ」
と信長はいった。
癖で、言葉がみじかい。その信長の言葉癖を理解するにはよほど機転のきいた男か、よほど古くから近侍していなければわかるものではなかった。
光秀はとまどった。
たまたまそこに居合わせた木下藤吉郎秀吉が小声で光秀にささやき、
「拝謁の礼式をでござる」
と、たすけ舟を出してくれた。この藤吉郎という小者あがりの高級将校は、どういうわけか信長の叫び声が即座に理解できるようであった。
「十兵衛、聞こえぬか」
と、信長はもういらいらしていた。この光秀の場合のような一拍子《いちびょうし》も二拍子も遅い反応を、信長は相手がたれであれ、ひどくきらった。
「はっ、仕《つこ》う奉りまする」
と光秀もつい高声になり、大いそぎで拝謁の心得を言上した。
「客殿では殿様は公方様のあられますお座敷にずかずかとお入り遊ばしてはなりませぬ」
「わしはどこへすわるのだ」
信長は視線をまわし、細い目で光秀を見おろした。
「お廊下でござりまする」
「なんと?」
やや、険悪になった。光秀はあわてて、
「それが礼法でござりまする。公方様が入れと申されてもなお遠慮の体《てい》をお示し遊ばされよ。三度申されてはじめてお膝《ひざ》をそろりとにじり入れるのでござりまする」
「そろり《・・・》とか」
信長は光秀の口《くち》真似《まね》をした。もう機《き》嫌《げん》がなおっている証拠であった。
拝謁の儀がはじまった。
信長は諸事型破りな男だが、この場合はそういうところをいっさい出さなかった。卓抜した運動神経と勘のよさをもった男だけに、みごとな室町風の所作をやってのけた。
「織田上総介でござりまする」
と、義昭に近侍している細川藤孝が上段の義昭にむかって紹介した。
信長ははるかに下段にいる。
やがてやや膝を進めて、細川藤孝にまで献上品の目録をさしだした。
藤孝、かるく拝礼しそれを受けとる。この兵部大輔細川藤孝というほどの幕臣が、いま下座に平伏している信長の家来にやがてなろうとは双方思いもよらなかったであろう。
藤孝、上段へかるく頭をさげ、やがてその目録を読みあげた。
一、太刀一腰《ひとこし》、銘は国綱
一、馬いっぴき、蘆《あし》毛《げ》
一、鎧《よろい》二領
一、沈香《じんこう》一器
一、縮緬《ちりめん》百反
一、鳥目《ちょうもく》千貫
一、馬いっぴき、蘆《あし》毛《げ》
一、鎧《よろい》二領
一、沈香《じんこう》一器
一、縮緬《ちりめん》百反
一、鳥目《ちょうもく》千貫
「殊勝である」
と、義昭は型どおりにいった。これが献上に対する礼言葉であった。こういう型は、義昭自身、あまり知らない。
なにしろほんの三年前まで奈良一乗院の貴族坊主であった男だ。公方としての作法は知らなかったが、こういう点は前日に、細川藤孝からいろいろ教えられている。その点、信長とあまりかわらない。
途中、義昭は型をやぶった。居たたまれなくなったのだ。
「上総介、いろいろの心づくし、感謝のことばもない。なかんずく、幕府再興のわが悲願を、さっそく諒解《りょうげ》してくれてありがたい」
さらにいった。
「そなたをわが家の守護神とも思うぞ」
この種の極端な表現は、義昭のくせであった。性格に根ざした癖なのであろう。
さらに言いかさねた。
「いつ、京にもどれる」
それがききたかった。二年さきか、三年さきか、とにかく期限をきめて待ちたい。
ところが信長は、義昭がのけぞるほどのことを、さらりと言ったのである。
「来月か、さ《・》来月には」
信長は平伏しながらいった。
「公方様を奉戴《ほうたい》していそぎ軍をおこし、道中の逆賊どもを蹴散《けち》らしつつ京にのぼり、京にあっては三好・松永の徒を討滅し、その首をはねて前将軍のお恨みを晴らし奉り、同時に公方様を征夷大将軍の御座にお誘い申すでありましょう」
「そ、そりゃ、まことか。——」
義昭は軽忽《けいこつ》な男だ。座からすべり落ちそうになるほどのよろこびを示した。
信長は、虚飾のことばをつらねたわけではない。本気であった。
この男が三万五千の大軍をひきい、義昭を奉じつつ西上を開始したのは、この年の九月である。
この無鉄砲さに、天下が戦慄《せんりつ》した。戦国の本格的な統一戦がはじまったのはこのときからといっていい。
と、義昭は型どおりにいった。これが献上に対する礼言葉であった。こういう型は、義昭自身、あまり知らない。
なにしろほんの三年前まで奈良一乗院の貴族坊主であった男だ。公方としての作法は知らなかったが、こういう点は前日に、細川藤孝からいろいろ教えられている。その点、信長とあまりかわらない。
途中、義昭は型をやぶった。居たたまれなくなったのだ。
「上総介、いろいろの心づくし、感謝のことばもない。なかんずく、幕府再興のわが悲願を、さっそく諒解《りょうげ》してくれてありがたい」
さらにいった。
「そなたをわが家の守護神とも思うぞ」
この種の極端な表現は、義昭のくせであった。性格に根ざした癖なのであろう。
さらに言いかさねた。
「いつ、京にもどれる」
それがききたかった。二年さきか、三年さきか、とにかく期限をきめて待ちたい。
ところが信長は、義昭がのけぞるほどのことを、さらりと言ったのである。
「来月か、さ《・》来月には」
信長は平伏しながらいった。
「公方様を奉戴《ほうたい》していそぎ軍をおこし、道中の逆賊どもを蹴散《けち》らしつつ京にのぼり、京にあっては三好・松永の徒を討滅し、その首をはねて前将軍のお恨みを晴らし奉り、同時に公方様を征夷大将軍の御座にお誘い申すでありましょう」
「そ、そりゃ、まことか。——」
義昭は軽忽《けいこつ》な男だ。座からすべり落ちそうになるほどのよろこびを示した。
信長は、虚飾のことばをつらねたわけではない。本気であった。
この男が三万五千の大軍をひきい、義昭を奉じつつ西上を開始したのは、この年の九月である。
この無鉄砲さに、天下が戦慄《せんりつ》した。戦国の本格的な統一戦がはじまったのはこのときからといっていい。