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国盗り物語108

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:上洛軍《じょうらくぐん》 光秀は織田家につかえてから、信長についてのさまざまなことを、朋輩《ほうばい》からきいた。若いこ
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上洛軍《じょうらくぐん》

 光秀は織田家につかえてから、信長についてのさまざまなことを、朋輩《ほうばい》からきいた。
若いころの話も、である。
(変わったお人だ)
とおもうほかない。
もともと大名とか、大名の子というのは室町風の壮麗きわまりない儀飾と容儀のなかにいるものだ。家臣が拝謁《はいえつ》してもめったにものはいわないし、その日常についてはほんの一部の側近の者しか知らない。そういう仕組みになっている。
(が、あの仁はちがうらしい)
と、光秀はおもうのである。光秀の理解力ではとらえにくい、不可解なところが信長にはあった。
若いころ、堀田某の屋敷のまわりで領内津島村の盆踊りがあった。信長は女装して出掛けてゆき、踊りの群れのなかにまじってあざやかに踊ってみせ、みずから小鼓《こつづみ》もうった。
津島村の領民は大いによろこび、あとで踊り子の列を連《つら》ねて城下までゆき、お礼踊りをしてみせた。
信長は城からとび出してきて、
「あいつはうまい」
とか、
「こやつは、へただ」
とかいって、気むずかしい顔でいちいち批評した。顔つきは気むずかしいが、よほど楽しかったのであろう。
(それにしても、そのように軽々しい男が、諸国諸大名にいるだろうか)
と、光秀はおもうのである。
また光秀のきいた話では、ある夏、信長は古池のそばを通ったそうだ。
「この池には主がおります。大蛇《おろち》でございます」
と、土地の年寄り衆が説明した。信長は、こういう変《へん》化《げ》、亡霊、神霊、鬼神などに関する話をきくと、異常な関心を示す。
「左様なものはおらん」
というのが、この男の信念であった。かれはそういう「目に見えざるもの」というのをいっさい否定し、神仏も人間が作ったものだ、左様なものは無い、霊魂もない、「死ねば単に土に帰し、すべてが無くなるのだ。ただそれだけだ」という世にもめずらしい無神論をつねづね言っていた。
だから、この古池の主に興味をもち、実証してやる、と思い、
「池の水を掻《か》い出せ」
と命じた。村々が総動員して桶《おけ》で水を掻い出しはじめた。この場合池の堤を切れば水量は減るが、それでは田畑がたちまち水《みず》浸《づ》きになってしまう。このため、掻い出した水はいちいち遠くの川へ捨てにゆかねばならなかった。それでも信長はやらせた。徹底的な実証精神である。
ついに底まで掻い出せぬとわかると、信長はくるくると裸になり、刀を一本背にくくりつけて水音高く飛びこみ、水中で目をくわっとひらき、藻《も》をかきわけ、岩間を通りぬけ、底の底まで見確かめてやっとあがってきた。
「おらん」
これが信長という人物を成立せしめている基本的な精神であった。同時にこの男のやり方でもあった。
(これは心得ておかねばならない)
と光秀はおもったが、なにぶん、仕えにくい相手であった。およそ、普通人とは発想の場所からしてちがうのである。調子をあわせようと思っても、思いもよらぬ場所から信長は発想してくるようだし、その行動も常識的ではない。
常識ではない、といっても「非合理」という意味ではない。むしろ世間の常識、というもののほうが非合理なことが多い。たとえば神仏崇拝のことなどもそうである。見たこともない神仏を人間は信じ、畏《おそ》れている。これが常識というものであった。しかし信長はそうではなかった。徹底的な合理主義と実証精神をもっていた。
(それだけでも仕えにくい)
光秀はそう思うのである。光秀は、迷信家ではなかったが、神仏の崇敬者であった。神仏を崇敬する世間の慣習、常識をも尊重し、それに異をたてようとは思わない。
神仏
といえば、道三もそれを信じてはいなかったであろう。しかし妙覚寺の学生《がくしょう》あがりのあの人物は、神仏を巧みに利用した。自分に法《ほ》華経《けきょう》の功《く》力《りき》がそなわっていると人に信じさせ、それを信ずる人間の愚かさや弱さを利用した。
信長はあたまから無視している。光秀はすこしちがっていた。神仏に対し、道三のように不《ふ》逞《てい》ではなく、信長のように苛《か》烈《れつ》でもない。むしろ光秀は敬虔《けいけん》であった。
(自分とは根底からちがった人間らしい)
ということは、光秀にもわかった。
敬虔さ
というものが、信長にはうまれつき無いようであった。たとえば義昭に対してもそうであるかもしれない。
神仏に対する敬虔のない人間が、はたして天皇や将軍といった、それに近い尊貴の血に対して敬虔でありうるかどうか。
(ありえない)
光秀はそう思った。将来は、義昭を捨てるのではあるまいか。義昭はいまの信長にとって道具にすぎないのではなかろうか。

が、それにしても信長のみごとさは、この道具をあざやかに使いきったことであった。
信長は、上洛軍を発するについて、京都までの沿道の諸豪に対して、
「それがし僭越《せんえつ》ながら義昭様を奉じて京へのぼり、将軍の位におつけ奉る。私心はござらぬ。なにとぞこの微衷を汲《く》まれ、お力添えありたい」
と、外交の手を打った。
沿道最大の強豪である浅井氏に対しては、信長はみずからわずかの親衛隊をひきつれてその根拠地小谷城にゆき、妹婿《いもうとむこ》の浅井長政に面会し、
「ともどもに手をたずさえて上洛しようではないか」
と、将軍護衛に関する軍事同盟を結んだ。浅井家としては、事柄《ことがら》が義昭のことだからむろん異存はない。義昭の血統に対する神聖観は、若い長政でさえつよくもっていた。
余談だが、信長はじつのところ、自分の妹お市の婿であるこの浅井長政とこのときはじめて顔を合わせた。
長政は、大男である。戦略感覚にはとぼしいが、戦闘指揮官としては第一級の若大将であろう。
「このさい、信長殿を」
と、長政の謀臣である遠藤喜左衛門は耳うちした。城内で信長が酒食の馳《ち》走《そう》をうけているときである。
「刺殺なされては?」
と、喜左衛門はいった。長政は、馬鹿《ばか》をいえ、と一笑に付した。笑うと髭面《ひげづら》ながら愛嬌《あいきょう》のある顔になる男であった。
「お市の兄だ。出来ることか」
とにかく、浅井氏は、信長軍とともに上洛することに決した。
北近江はこれで片づいた。
南近江の山岳部も帰順している。この山岳部は、甲賀衆が群居していた。甲賀衆はむかしから将軍家に忠実だったし、それに甲賀衆筆頭の和田伊賀守惟政《これまさ》が、いまでは義昭のそばに仕えている。この惟政がみずから甲賀郷へ行ってかれらを帰服させた。
が、頑《がん》として信長の申し出をはねつけた者がある。南近江を領し、観音寺城を根拠地としている六角承禎《ろっかくじょうてい》であった。
「わしは義栄《よしひで》様以外に将軍はみとめぬ」
と、承禎はいった。
この男は、正しくは佐々木氏である。六角は通称であった。名は義賢《よしかた》といい、入道して承禎といった。源頼朝以来の近江の守護職で、この時代きっての名家である。
家老の浅井氏が、数代前に主家にそむき、自立して北近江の大名になった。六角承禎はいまは南近江を占有している。
「信長とは何者か」
と、この名家意識のつよい男は、織田家などを歯牙《しが》にもかけていなかった。第一、事情からいっても同盟ができるはずがない。六角承禎は早くから三好党と通謀し、三好党が奉《もう》戴《たい》する足利義栄を支持していたのである。
「わが領内を通りたければ、弓矢であいさつせよ」
と、織田家の使者をにべもなく追いかえしてしまった。使者は岐阜《ぎふ》へ帰り、承禎の言葉どおりに信長に報告した。
「承禎入道、そう申したか」
信長はあまり表情を変えない。ただこのとき声に変化があった。高く叫んだ。
 信長が上洛軍をひきいて岐阜を進発したのは、この年、九月五日である。運命的にいえば信長が栄光への階段をひとあし踏み登ったというべきであろう。
織田軍は譜代の尾張兵を中心に、新《しん》付《ぷ》の美濃、伊勢衆を加え、さらに東方の同盟者である三《み》河《かわ》の徳川家康もその部将松平信一を代理に派遣して軍勢に加わらしめ、その総数三万五千にのぼった。
北近江を通過するとき、浅井長政の軍八千がこれに加わり、四万を越えた。
この四万が琵琶湖《びわこ》の東岸を南下し、数日のうちに六角方の十八個の城を将棋倒しに潰滅《かいめつ》させるというすさまじい進撃ぶりをみせ、最後に湖畔の観音寺城に対し、信長みずから陣頭で突撃して攻めつぶしてしまった。
承禎入道は城を出て奔《はし》り、甲賀から山伝いで伊賀にのがれ、頼朝以来の名家は、ほとんど瞬時に、といっていいほどのあっけなさでつぶれた。
(驚嘆すべきものだ)
と、軍中にある光秀はおもった。光秀も専門家である以上、この圧倒的戦勝におどろいたのではなかった。信長という人物を再認識する気になったのである。
(あの男は、勝てるまで準備をする)
ということに驚いた。
この進攻戦をはじめるまでに信長はあらゆる外交の手をつくして近隣の諸豪を静まらせておき、さらに同盟軍をふやし、ついには四万を越える大軍団を整えるまでに漕《こ》ぎつけてから、やっと足をあげている。
足をあげるや、疾風のごとく近江を席巻《せっけん》し、驚異的な戦勝をとげた。味方さえ、自軍の強さにぼう然とするほどであった。
(勝つのはあたりまえのことだ。信長は必ず勝てるというところまで条件をつみかさねて行っている。その我慢づよさ)
おどろくほかない。これが、あの桶狭《おけはざ》間《ま》のときに小部隊をひきい、風雨をついて今川軍を奇襲した信長とは思えない。
(信長は自分の先例を真似《まね》ない)
ということに光秀は感心した。常人のできることではなかった。普通なら、自分の若いころの奇功を誇り、その戦法がよいと思い、それを模倣し、百戦そのやり方でやりそうなものだが、信長というのはそうではなかった。
——桶狭間の奇功は、窮鼠《きゅうそ》たまたま猫《ねこ》を噛《か》んだにすぎない。
と、自分でもそれをよく知っているようであった。かれは自分の桶狭間での成功を、かれ自身がもっとも過小に評価していた。その後は、骨の髄からの合理主義精神で戦争というものをやりはじめた。この上洛作戦がいい例であった。
「戦さは敵より人数の倍以上という側が勝つ」
という、もっとも平凡な、素人《しろうと》が考える戦術思想の上に信長は立っていた。このことにじつは光秀はおどろいたのである。
(おれの考え方とはちがう)
と思った。光秀は戦術の玄人《くろうと》をもってみずから任じていた。戦術の玄人というのは寡《か》兵《へい》をもって大軍を破る、ということに、芸術的なほどの意慾をもっている。それでこそ戦術であり、素人とはちがう点であった。それができてこそ専門家といえるのではないか。光秀はそのことを専心研鑽《けんさん》し、古今の戦例をしらべ、古代中国の兵学書を読んだ。
(ところが信長は素人のやり方をやる)
(わからぬ男だ)
と、湖畔での宿営中、光秀は、弥平次光春にそっといった。
「六角承禎入道といえば、若いころから戦さの名人として知られた男だ。事実名人であった。だからこそ信長ごとき、とおもい、その使者を追いかえしたのだろう。承禎は自分が勝つと信じていたはずだ」
ところが負けた。
「妙なものさ」
承禎は玄人である。巧《こう》緻《ち》きわまりない戦術を立て、準備をし、諸陣を配置した。ふつうならここで芸術的な攻防戦が展開されるはずである。
が、信長のやり方はそんなものではない。洪水《こうずい》のようなものであった。待ち構えた承禎入道の諸陣をあっというまに押し流してしまった。承禎はその「芸」をつかう場もゆとりもなく泡《あわ》をくって伊賀へ奔った。
「これが軍法かね」
光秀にはふしぎでしかたがない。光秀は、承禎入道を弓矢の玄人だと思い、尊敬もしていた。なぜならば、かれの戦術思想は承禎の側に属している。そのほうの系統は承禎だけではなかった。信玄も謙信も、その系統のうちの巨大なものであろう。
(が、信長はちがうらしい)
そういう信長のやり方を認めれば、自分の戦術思想が古色蒼然《そうぜん》たる反故《ほご》に化してしまうからである。
しかしその信長が、洪水のごとく近江平野に押しよせ、すべてを押し流してしまったではないか。
現実は、信長の勝ちであった。
「芸がほろび、素人風のやり方がいい時代になったのかもしれない」
と、光秀は弥平次にいった。
 信長は、岐阜出発後二十一日目で京に入った。信長は京に入る直前、光秀をよび、
「先鋒《せんぽう》となり、市中を安《あん》堵《ど》せしめよ」
と命じた。
先鋒、といっても、かんじんの敵である三好・松永の徒は、近江での惨敗におどろいて京を去り、摂津、河内、大和に退き、市中には一兵の敵影も見られないはずであった。この場合の光秀の役目は、いわば京都の治安司令官ともいうべき内容であろう。
が、とにかく、光秀は、都へ一番乗りに入りうる栄誉を与えられたのである。
(わが材をみとめられた)
と、光秀はおもった。事実、近江進攻戦でみせた光秀のあざやかな戦さぶり、その功は、抜群といってよかった。観音寺城の陥落については木下藤吉郎の奇略が功を奏しているため、これを武功第一とすれば、城攻めの先鋒で奮迅《ふんじん》した光秀はそれに次ぐものであった。
(光秀は、やる)
と、天才的な人物眼をもっていた信長はそう見抜いたのであろう。
光秀は、その隊をひきいて先発し、粟《あわ》田《た》口《ぐち》から三条河原を渡って王城の域内に入った。
光秀はすぐ弥平次をよび市中の各所に「濫《らん》妨停止《ぼうちょうじ》」の制札を立てしめた。信長の命によるものであった。信長は自軍の兵が市民の迷惑になることを病的なほどきらった。
制札の効はあった。
織田家の士卒は、信長の性格を知っている。軍令をみだせばどうなるかを、体で知っていた。みなこの制札に書かれた軍令をことごとくまもった。
信長は京の南郊の東《とう》寺《じ》に入り、足利義昭をとりあえず京の東郊の清水寺《きよみずでら》に入れた。
将軍宣《せん》下《げ》には、手続の日数が要る。その朝廷に対する交渉には、この方面に面識の多い細川藤孝が主としてあたり、和田惟政と光秀がそれをたすけた。いずれも永禄八年、奈良一乗院から義昭を脱走せしめて以来、風雪をともに凌《しの》ぎあってきた同志であった。
光秀は公卿《くげ》屋敷を歴訪しながら、その感慨をおさえることができない。
(よくぞ、ここまで漕ぎつけたものだ)
往時、幕府の再興を志して草莽《そうもう》の身ながら奔走していたころのことをおもうと、いまのこの急速にやってきた現実が夢のようにしか思われない。
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