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国盗り物語109

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:京の人々 信長は、さほどの軍事的実力のない時期に天兵《てんぺい》の舞いおりるような唐突さで、義昭を奉じ、京にのぼり、軍政
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京の人々

 信長は、さほどの軍事的実力のない時期に天兵《てんぺい》の舞いおりるような唐突さで、義昭を奉じ、京にのぼり、軍政を布《し》いた。
すさまじい行動力である。
しかも、粗豪ではない。
その行動力には緻《ち》密《みつ》な計算と準備がほどこされていることを、織田家の帷《い》幕《ばく》にいる光秀はつぶさに知った。
(おどろくべき男だ)
とおもわざるをえない。
天下をとれる男だ、と光秀がおもったのはその上洛後の信長の態度である。
軍律が、峻烈《しゅんれつ》をきわめた。
たとえば、織田家の小者で某という者がおり、市中で物売りに乱暴した。
その態度がいかにも占領軍の威をかりた憎《にく》体《てい》のものであったので、通りかかった信長の馬廻《うままわ》りの士岩越藤蔵という者が、
「おのれ、殿のお顔に泥《どろ》をぬるやつ」
と、群衆の前でなぐりつけ、縄《なわ》をかけて信長の宿館の東寺につれて行った。
そのあとの信長の処置が、この男にしかできぬ率直さと、当意即妙な政治的配慮に富んだものであった。
「件《くだん》のやつを、門前の木にしばりつけい」
と命じた。
くだんのやつ《・・・・・・》は、あわれにも門前の大木に縛られ、生き曝《ざら》しになり、信長を訪問してくる都の貴顕紳士の目にことごとく触れた。
(さすがは織田殿)
と、都の知識階級も庶民も、たったこれだけの一事で、信長の人格に大きな信頼感をもった。
遠いむかしの木曾《きそ》義仲《よしなか》の例をひくまでもなく、都にきて乱暴をはたらいた占領軍で、ながく天下を保ったものはいないのである。
信長の行動は、そういう先例を知ってのうえかどうかは、光秀にもわからない。とにかく信長が、その軍律の峻厳さで非常な人気を得たことはたしかだし、その人気はやがては地方に流れ、尾張清洲の一土豪の子にうまれたこの男の印象を、大いによくすることに役立った。
天下を取ろうとするものは、これだけに手きびしい秩序感覚をもっていなければならない、ということを、光秀は知っていた。それが最も重要な資格のひとつであった。
(信長にはそれがある)
あるいは、天性のものかもしれない。とにかく昔から信長の織田軍というのは軍規が厳正で、織田軍だけでなく織田家の領民たちも罪を犯すということを、他領とはくらべものにならぬほど怖《おそ》れていた。かれらは、首領の信長がこわいのである。
かといって、織田家の刑罰が手きびしすぎるというようなことはなかった。ただ将士も領民も信長の性格をよく知っていた。
(ゆるみ、みだれ《・・・》がおきらい)
ということを、肌《はだ》身《み》で知っている。つまり信長はうまれつき、秩序感覚に鋭敏すぎるほどの性格なのであろう。
(——いや、信長こそは)
乱世を鎮《しず》めてあたらしい秩序を興すのにうってつけの人格かもしれぬ、と、光秀はみた。そういう人格の者をこそ、京の市民だけでなく、津々浦々が待ちこがれているのではあるまいか。
信長の上洛以来、信長の宿館には、祝賀に参上する都の人士で玄関が満ちあふれていた。
連《れん》歌師《がし》の紹巴《しょうは》もやってきた。この里村紹巴という日本第一の連歌師は、かつて尾張清洲城にあそびにきて、信長はよく知っている。
紹巴は、進物を献上した。扇子二本であった。扇子は末広といってめでたいものとされている。
むろん、連歌師のことだから、この二本の扇子に意味を託している。かん《・・》のいい信長はすぐ解き、
  二《に》本《ほん》(日本)手に入る今日の悦《よろこ》び
 と出吟した。次の句は、平伏している紹巴がつけねばならない。そこは玄人であった。笑顔をかしげながら、
「舞ひつゞる千代よろづ代の扇にて」
と申しあげた。
上段の信長は上機嫌《じょうきげん》で、ふむ、ふむ、と三度うなずいた。
祝賀にやってくる者は、連日、ひきもきらない。公卿、門跡《もんぜき》、神官だけでなく、町の医師や商人もやって来、職人なども、自分のこしらえたものを捧《ささ》げつつやってきた。
信長は、それらを面倒がらずにいちいち対面してやり、一人々々のそれぞれにあいさつをしてやった。
これが非常な評判になった。
「鬼神かと思うたが、存外じゃの」
と、京の町のひとびとはよろこびあいながらうわさをした。
ある日、この信長の宿館に、ひとりの老尼がやってきた。
「どなたでござる」
門前の番所で、織田家の家来が鄭重《ていちょう》にきいた。供に連れている侍女ふたりの衣装があまりに豪華なのと、男衆にかつがせている吊《つ》り台の上の献上品が立派なのとで、よほど門地の高い尼門跡《あまもんぜき》かなにかであろうとおもったのである。
「嵯峨《さが》の天竜寺のそばに住みます妙鴦《みょうおう》と申す尼でございます」
と、肥《ふと》り気味の老尼は色白の顔に微笑をうかべて答えた。
「妙鴦とはどういう文字で」
「妙とは妙法蓮華経《みょうほうれんげきょう》の妙。鴦とは、——左様、おしどり《・・・・》のことを鴛鴦《えんおう》と申しまするが、その鴛はおす《・・》のおしどり、鴦はめす《・・》のおしどり、そのめすのほうの鴦がわたしの鴦でございます」
「ほほう」
記帳している武士にはわからぬまま、吊りこまれるようにして笑った。この老尼のもっているふんいきがあかるく、その声に奏《かな》でるようなひびきがあるために、武士はおもわず楽しげな気持になったのであろう。
「かように」
と、老尼は武士に掌を出させ、わが指をもって、
「鴦」
とかいた。
武士は了解し、記帳をはじめたが、その陽《ひ》にやけた頬《ほお》のあたりにうずうずと微笑が渦《うず》をまいているのは、いまの掌の感触がこの武士の心を溶かしてしまったものらしい。
「して、御位《くらい》は?」
「位などはございませぬ。ただの町尼でございます」
「当織田家とのおゆかり《・・・》は?」
「べつに」
と、語尾をちょっと上げ気味にして、老尼はふくよかに笑った。
その姿を、ほんの七、八間はなれたところから明智十兵衛光秀がみていた。
(お万阿《まあ》様ではないか?)
が、その妙鴦という老尼は、番所からゆるされて門内に姿を消してしまった。
光秀は待った。
四《し》半刻《はんとき》ほどしてからその老尼は出てきた。
「あなたは、お万阿様では」
と、光秀は声をかけた。
お万阿は立ちどまり、光秀の顔をじっとみつめていたが、やがて微笑した。
「明智十兵衛光秀殿でございますな」
「その節は」
と、光秀はかつて嵯峨野のお万阿の庵《いおり》をたずねて行ったときの馳《ち》走《そう》の礼を言い、
「ここでは御無礼」
と言いつつ、お万阿を、光秀の借りあげている大きな民家へ案内した。

「そうでございましたか」
と、その後の光秀の変転をききおわったお万阿は、ゆっくりとうなずいた。
(美しさが、そのまま老いの清らかさになっている)
と、光秀は感嘆する思いでお万阿を見た。
「して今日は、わざわざの御参賀」
光秀はいった。
「どういうお気持にて?」
ときくと、お万阿は急に陽の翳《かげ》ったような表情になり、目をふせた。
「どうなされた」
光秀は、感受性の鋭敏な男だ。お万阿の心境がなんとなくわかるような気がした。
が、お万阿はそういう光秀の想像を裏切って、意外なことをいった。
「あまりにお天気がいいので」
——それで都に出たついでに参賀にやってきたのだという。
光秀は声を立てて笑った。
「うそでしょう」
「いいえ、うそではありませぬ。理由はうんとあるような気がするのですけど、一つ一つ理由をいおうとすると、そのほうがむしろう《・》そ《・》に思われて。まあお天気がよかったから、というほうが本当のような気がします。雨ならば出てきてはおりませんから」
「なるほど」
光秀はお万阿の顔を見つめつつ、思いを凝《こら》している。
(この女性は、夫の道三を語るにしても、山崎屋庄九郎は知っているが美濃の斎藤道三とやらは知らない、という言い方をする。見かけよりも心の屈折の複雑なお人らしい)
酒と菓子と鮨《すし》が出た。
お万阿は光秀の手ずから酒を注《つ》いでもらい何杯かかさねるうちにほろほろと酔ってきた。
「思えば」
と光秀はいった。
「織田家とお万阿様との縁というのは深い。上総介(信長)殿の御正室濃姫様は、お万阿様のご亭主のおたね《・・・》であられる。番所でそのように申されれば、一同うち驚いて、おあつかいも一変したでありましょうに」
「左様なことはわたくしとなんの関係もありませぬ。死んだ亭主は京の油商人で、ときどき美濃へ行っていた。それしか存じませぬ」
「おもしろい仁であった」
「まことに」
お万阿はうなずき、遠い目をした。
「京を出てはじめて美濃へ旅《・》に発《た》つとき、お万阿なんねん《・・・・》か待てやい、きっと将軍《くぼう》になって帰ってくる、と申しました」
「お万阿様、それを本気にして送り出したのでありますか」
「なんの、あのような奇態なおひとでございますもの。本気かうそか。しかしうそ《・・》はうそで命がけでいく人でございましたから、騙《だま》されているとわかっていても、それがえ《・》もいえず楽しゅうございました。あのような不思議な人は二度とこの世に出ませぬな」
「お万阿様もふしぎな方だ」
「それが」
と、お万阿は庄九郎のことを回想しているらしく、光秀の言葉も耳に入らぬようであった。
「それが、あの人はときどき風のように京に舞いもどってきてはわたくしを抱き、お万阿よ、いまに軍勢をひきいて京にのぼる、それまで待てやい、と申し、申し申し《・・・・》してとうとう一生をすごしてしまいました」
光秀は、うなだれて聴いている。
「あの人にすれば」
お万阿は、顔をわずかにそむけた。
「このたびの信長様のような美々しくも雄々しい上洛の姿を自分の夢に夢見ていたのでございましょう。それがあのひとにとって見果てぬ夢になってしまいました」
「それで」
光秀は顔をあげた。それで、信長の館まで祝いに参上なされたのか、といいたかったのである。
お万阿は敏感に光秀の言葉を感じてうなずいた。死んだ亭主が見果てなかった上洛の夢を、その娘婿《むすめむこ》がみごとにはたしたのを、お万阿は複雑な感傷をこめてよろこんだのであろう。
「上洛、上洛、と申していたことがこのことだったのか、というそのきらびやかな光景を、この目で見確かめたかったのでございます」
「なるほど」
「人の世は儚《はかの》うございますけれども、妙諦《みょうたい》深いものでございますな。お万阿などは、まるで山崎屋庄九郎という亭主の狂言を見物するためにうまれてきたようなものでございます。その狂言は、あの亭主殿が美濃の長《なが》良川《らか》畔《はん》とやらで亡《な》くなったあともこうして続いている」
「左様、道三殿が地上でもっとも目にかけられた男によって続けられている」
「信長殿のことですか」
「はい」
「光秀殿はいかがだったのです」
と、お万阿は光秀の顔をのぞきこんだ。この男ならば死んだ山崎屋庄九郎も、よほど目にかけたであろうと思ったのである。
「それがしなど」
光秀はかぶりを振り、自分のことを語ろうとしない。お万阿はそういう光秀を見つめていたが、やがて、
「なににしても、修《しゅ》羅《ら》道《どう》ですね」
と、かすかにいった。修羅道とは阿修羅道の略である。仏典でいう六種類の迷界——地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、——六趣のひとつである。修羅道には、自我のつよい、諸事にうたぐりぶかい人間がゆく。その世界には阿修羅という悪鬼が群れをなして住んでおり、阿修羅王が支配し、善神である梵《ぼん》天《てん》・帝釈《たいしゃく》と闘争してその闘争が永劫《えいごう》に絶えない。そういう世界が、死んだ亭主や信長、光秀の世界だとお万阿はいうのである。
「そうでしょうか」
光秀は不満だった。
「わたくしにとっては、この道以外に世の乱を救う菩薩行《ぼさつぎょう》はないと信じておりますが」
「信長様もそのように自分の道を思っていらっしゃいますか」
「だと信じますが」
くすっ、とお万阿は笑った。
「どうなされたのです」
「いいえ、お万阿もいずれは亭主殿の住む彼《ひ》岸《がん》に参ります。そのとき彼岸の河原で亭主殿とめぐり会い、浮世のころに会った信長殿や光秀殿のことをいろいろと物語しましょう。あのふたりは自分の道を菩薩行だと信じているらしい、と」
「道三殿は、どう申されるでしょう」
「わかりませぬ。あの人は修羅道のみに生きついに菩薩行の光明《こうみょう》に至らずじまいで世を終えたのですから」
お万阿はそのあと、二つ三つ物語してひきあげて行った。
(幾つなのか)
光秀は玄関まで見送りながらおもったが、見当もつかなかった。しかしあの老齢ではもう次に会うこともあるまいと思った。
 信長はなるほど京にはのぼったが、長く滞在できるような情勢ではなかった。いずれ、事が片づきしだい、岐阜にもどらねばならなかった。
この間、信長は多忙だった。降伏してきた松永久秀をゆるし、一方、抵抗する山城《やましろ》、摂津の三好勢を掃蕩《そうとう》した。
摂津富田城《とんだじょう》で三好党に擁立されていた足利義栄は阿波《あわ》へのがれたが、ほどなく病死した。
松永久秀の降伏をゆるすことについては義昭に難色があった。
「上総介、かれは兄の義輝を弑《しい》した大逆人ではないか」
といったが、信長の目にはこの場合、順逆などはない。利害だけがあった。松永久秀は畿《き》内《ない》における有力な軍事勢力である。この男を敵にまわして討伐に手を焼くよりも、味方にしてむしろ討伐せしめたほうがはるかに有利であった。
「毒には使いかたがござる」
と信長は義昭に言い、当の松永久秀に対しては、
「大和一国を呉れてやる、斬《き》りとり次第にせよ」
と、一万人の兵を貸しあたえた。
摂津の諸城はばたばたと片づいた。空城《あきじろ》になった摂津芥川《あくたがわ》城は義昭付の甲賀郷士和田惟《これ》政《まさ》にあたえ、摂津伊丹城《いたみじょう》の伊丹親興《ちかおき》はかねて室町幕府復興の志のあった男だからよろこんで味方につき、摂津池田勝政は旗を巻いて降伏した。
また山城の長岡にある勝竜寺城は、かつては細川家代々の持城であったが、いまでは三好党の岩成主税助《いわなりちからのすけ》という牢人《ろうにん》あがりの男が占拠している。それを信長は攻め、岩成を降伏せしめてその城を以前の持ちぬしである幕臣細川藤孝にくれてやった。
光秀はこのとき、京都の市政を担当していたため山城勝竜寺城攻撃に参加できなかったが、その回復を、この友人のためによろこんだ。
山城の勝竜寺城は、現今の地理でいえば阪急電車向日町《むこうまち》付近にあり、こんにちその遺跡は竹藪《たけやぶ》になっている。城下の一帯を、せまい呼称では「長岡」とよび、ひろい呼称では「西ノ岡」という。偶然ながら、故道三の故郷である。
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