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国盗り物語117

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:遊楽 この夜、明智弥平次光春が、光秀の部屋によばれた。「殿、どうあそばしました」と弥平次がおどろいたほど、光秀の様子に生
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遊楽

 この夜、明智弥平次光春が、光秀の部屋によばれた。
「殿、どうあそばしました」
と弥平次がおどろいたほど、光秀の様子に生気がなかった。目のふちが黒ずみ、肩が落ちて、病人のようであった。
「お体が?」
「わるくはない。弥平次、ごくろうではあるが、今夜京を発《た》って岐阜表に使いに行ってくれぬか」
「いと易《やす》きこと」
「持ってゆくのは手紙だ。かまえて途中、人に奪《と》られるな」
「万一のときは焼き捨てましょう。出来れば内容をお明かし願いとうございます」
「義昭様は、御謀《む》反《ほん》をおこされる」
「えっ」
「驚くな。義昭様の御謀反については岐阜の殿もうすうすお気付きである。しかしそちが携行するわしの密書によって御謀反のことは」
……決定的事実になるであろう、と光秀はいった。
「義昭様は、岐阜殿がおきらいなのだ。このため上杉、武田、北条、毛利、本願寺、朝倉、叡山《えいざん》などと連繋《れんけい》され、それらの勢力を京によびあつめて、一挙に織田勢を駆逐なさる。義昭様のなによりの頼みは越前の朝倉だ」
「殿。……」
と、弥平次はにじり寄った。この敏感な若者には光秀の立場とその心境がすべてわかった。
「殿は、お苦しいことでありましょうな」
「わしか。苦しいわ」
光秀は、笑った。
弥平次には泣いているようにみえた。
思えば、将軍義昭という存在は、光秀の作品のようなものであった。多年、精魂をかたむけて、ようやく将軍の位置につけ、こんにちの室町殿の繁栄をみるにいたった。その築きあげた楼閣を、みずからの手で崩さねばならぬのである。
「これが、密書だ。この密書がそちの手で岐阜にとどいたとき、おれの多年の夢はくずれる」
「されば、届けますまい」
弥平次はいった。
「左様、そういう手もある。届けずに置き、義昭様の御陰謀に加担すれば、おれは来《きた》るべき室町幕府体制での最大の大名になるだろう。義昭様も、それを約束なされているようである。きっと、そうなる」
「殿は、織田家の譜代ではござりませぬ。しかも、二君にお仕えなされておる天下にまれな不思議人におわす。されば足利・織田どちらの主君をお立てなさろうとも、どちらかに忠。ご遠慮あそばすことはありますまい」
「弥平次」
光秀はいった。
「織田をすて、足利家を立てよというのか」
「それが、殿のお若いころからの御宿志であったのではありませぬか。孤剣天下を奔走なされていたのも、室町幕府の再興のためでござった」
弥平次の本心は、織田をすてて足利につくほうが有利であるというのではない。人間若年のころの志を遂げるほうが幸福である、というのである。
「たとえ、失敗しましょうとも、うまれてきた甲斐《かい》があるというものではありませぬか」
「そのとおりだ」
光秀は、いった。
「そのとおりであるゆえ、わしはその書簡を書くまでずいぶんくるしんだ」
「ついに幕府への夢をお捨てなさるわけで」
「義昭様は、器《うつわ》ではない」
光秀はいった。
「それに、岐阜殿がわしの考えていた以上の人物であるらしい。それが越前の朝倉義景殿程度の愚物ならば、義昭様はのんべんだらりと将軍になっていれば、それですむし、室町幕府も再興できるかもしれない。しかし、岐阜殿はそうではない」
光秀は、暗い表情になった。
「岐阜殿は京にのぼられて、世のなかには将軍以上の存在があるということを知られた。言うにや及ぶ、天子である」
信長の亡父信秀は無類の天子好きだったから、その存在は信長もかねて知っていたが、いざ京にのぼってみると、将軍などははるかに下だということを信長は知った。
「岐阜殿は、おそかれ早かれ、義昭様をすてて天子を直接《じか》に立て奉るだろう。そのほうが日本万民を畏《い》服《ふく》せしめるに足る」
……将軍の権威時代はもはや去ったのだ、と光秀は思わざるをえない。
「もはや今日となっては、おれは岐阜殿を選ばざるをえぬ」
と、光秀はくるしげにいった。光秀の古典的教養からいえば、将軍と幕府の統制のもとに諸国の武士が整然と天下に位置しているという政体こそ望ましいが、それはあくまでも好みにすぎぬ。事態は、好みをいっていられる段階ではない。
(あの小ざかしいだけが能の義昭将軍についていれば、おれはほろびるのだ)
という利害の計算をせねばならぬところまできている。
「明智光秀は、亡《ほろ》びたくはない」
「殿はさてさて御不自由な」
弥平次は、笑いだした。世の常の武将なら利害の打算だけで行動するのである。光秀にはつねに形而上《けいじじょう》の思案があった。さんざん観念論をこねたあげく、結局は世の常の武将とおなじ利害論に落ちつくのである。
「それを最初におっしゃって頂きますれば、拙者も有無《うむ》の論なく岐阜表へ打ち発《た》ちまするものを」
「おれはからり《・・・》とせぬな」
光秀は、苦笑した。
「御学問がありすぎるのでありましょう」
「そんなものはないが、どうもあの藤吉郎のように、からりからりと行動できぬのがおれのわるいところだ」
「藤吉郎殿は所詮《しょせん》は下郎のあがり、殿とはくらべものになりませぬ」
(そうかな)
光秀はくびをかしげざるをえない。
(育ちがわるく無教養な男というものほど、乱世で勁《つよ》いものはない。おれが一思案しているあいだに、あの男はもう行動している。信長に対しおれが言えぬような追従《ついしょう》でもあの男は言える)
「では、早速に」
弥平次は立ちあがった。
それから四《し》半刻《はんとき》後、弥平次は部下のなかから屈強の者十騎をえらび、岐阜へ発った。

岐阜城内で、信長はその密書をみた。
見るなり、
「来たか」
と、つぶやき、勢いよく顔をあげた。こういう事態を信長は早くから察していた。
察していただけではない。確報があり次第行動に移る予定をととのえていた。
「平《へい》、平」
と、叫んだ。信長の有能な伝令将校である福富平左衛門が、平伏した。
「遠州浜松へゆけ」
「なにをしに参るのでござる」
「徳川殿に会うのだ」
「謁《えつ》しまして?」
「それだけでよい。すべては以前に徳川殿に申してある。行け」
と、信長はいった。
信長の同盟者である「三《み》河《かわ》殿」は、去年、旧称松平家康をあらため、あらたに徳川家康という名乗りに変えていた。この改姓はわざわざ信長に仲介をたのみ、将軍を経て天子に勅許を得る、という異例の手間をふんでいる。自分の苗字《みょうじ》を変えるのに勅許を得るという例はちょっとないであろう。
家康はこのころ、
——自分は源氏の流れを汲《く》んでいる。
と称しはじめていた。むろんたしかな根拠のあることではなく、そう私称していたにすぎない。その私称をいわば公称にするために「勅許によって改姓した」という手続をふんだ。三河松平郷の土豪あがりの氏素姓《うじすじょう》も知れぬ出来《でき》星《ぼし》大名、というのでは、足利将軍に拝謁したり御所へ参内《さんだい》したりする手前、体裁がわるいとおもったのであろう。前時代の足利大名である尾張斯波《しば》氏、美濃土岐《とき》氏、三河吉《き》良《ら》氏、駿河《するが》今川氏などは、系譜血統のはっきりした源氏の流れの家だったから、
「松平とはどこのなりあがり者か」
などと将軍やその側近からいわれたくなかったのであろう。
いずれにせよ、福富平左衛門は家康のあたらしい居城である遠州浜松城に急行した。
「弾正忠(信長)殿は、左様に申されたか。さればできるだけ早く支度をととのえて参ると御返事せよ」
と、家康は福富平左衛門にいった。使者の福富は話の内容がなんであるかはついにつかめなかった。
福富だけではない。
信長の重臣たちにもわからなかった。
「京へのぼるぞ」
と信長は触れだしただけのことである。
——さてはまた京で将軍拝謁か。
と、重臣たちもおもった。毎度のことでめずらしくもなかった。
岐阜出発まぎわになって信長は、
「将軍館の落成の祝いを京でする。できるだけ賑々《にぎにぎ》しくやりたい」
といった。この祝賀行事の準備のために奉行どもが京へ先発した。
「できるだけ賑々しく」
という趣旨で、織田家と同盟関係にある諸大名にも令をくだした。
「京に参集せよ」
というのである。徳川家康、飛騨《ひだ》の姉小路《あねのこうじ》中納言《ちゅうなごん》、伊勢の北畠《きたばたけ》中将、河内の三好義継《よしつぐ》、大和の松永久秀などである。
ただその日は、
「四月十四日に。——」
というのであった。なるほどそのころの都は気候もよく、落成の祝賀行事をするにはもっともいい日《ひ》柄《がら》であろう。
が、信長が自分の軍団に出発を命じたのは二月二十五日である。当日までに一月あまりもゆとりがある。
(なにか、ある)
信長の重臣たちはやや不審をおぼえ、信長の真意をはかりかねていた。
しかもいつもの信長なら、神速果敢な急行軍をするのに、
「春ぞ。ゆるやかに駒《こま》を打たせよ」
と、全軍に悠長《ゆうちょう》な速度を命じた。変幻自在でつねになにを考えているのか、この男はまったくわからない。
織田軍団は、ゆるゆると琵琶湖《びわこ》の東岸をすすみ、行軍二日目は常楽寺に宿営した。
のちの安《あ》土《づち》である。
安土郷は、琵琶湖が大きく彎入《わんにゅう》したその岸辺にあり、水郷としての風景は湖国随一といっていいであろう。
「この里の春色はいい」
と、信長は京の行きかえりに常に飽かずにながめてきた風景である。
そこに、常楽寺という巨《おお》きな寺がある。僧房などが多くあって、軍団の宿営にはつごうがいい。
信長は、ここに腰をおろした。
「どうせ、いそがぬ旅である。徳川殿が参着するまでゆるりと泊まるぞ」
といった。かれはこの常楽寺(安土)付近がよほど気に入ったらしく、のちにここに安土城を築いている。
(どんな御料簡《ごりょうけん》か)
と、みながあきれるほど、信長はゆるやかに逗留《とうりゅう》した。日が経《た》って三月に入っても腰をあげない。京へゆこうともしないのである。
(なぜ、このような田舎に)
足軽までが、不審をおぼえた。
やがて彼等は、信長が正真正銘、遊《ゆ》山《さん》のつもりで逗留していることを知った。
「角力《すもう》の興行をする。近在の力ある者を召しあつめよ」
と言いだしたのである。
(なるほど、多年戦場を駈《か》けまわられた御骨休めをなさるのじゃ。たまのお遊びもよいであろう)
と、家来たちも気持が駘蕩《たいとう》としてきた。
角力興行のための臨時奉行に木《きの》瀬《せ》蔵春庵《ぞうしゅんあん》という同朋頭《どうぼうがしら》がえらばれた。木瀬は角力通である。大いに勇み立ち、近江一国の村々に使いを出し、街頭には高札をたてて、選手をかりあつめた。
予選をし、強豪をえらびぬいて、常楽寺境内で本角力をさせた。
信長は、高欄《こうらん》のむこうで見物している。少年のころから無類の角力好きだけに、顔色を変えて勝負のこまごましたところまで観《み》ていた。
力士の名がおもしろい。
百済《くだら》寺《でら》の鹿《しか》
百済寺の小鹿
は兄弟力士で、めっぽう強かった。
たいとう
正権《まさごん》
長光《ながみつ》
宮居眼左衛門
この眼左衛門などは、信長がなるほどと感心したほどに目が大きかった。
河原寺の大進《だいしん》
はし小僧
深尾又次郎
鯰江《なまずえ》の又一郎
青地の与右衛門
このなかでも、鯰江と青地の強さは抜群だったため、信長は高欄の下まで召して高声でほめ、
「汝《わい》ら二人を抱え力士にするぞ。きょうより家中に加わり、角力奉行をつとめい」
といった。この名誉にそれぞれの出身村までが大いに面目をほどこし、村中踊りながら常楽寺の宿陣まで御礼にきた。このため、いよいよ近江の街道筋は沸きにわき、
「岐阜様は、よい遊楽をなされておる」
と、近国までの評判になった。ときが戦乱のさなかだけに、この信長のふるまいは、街道をゆく旅人たちの目によほど鮮かな印象にうつったのであろう。
信長が近江常楽寺から腰をあげたのは、三月四日のことである。
五日、京に入った。
宿舎が、変わっている。こんどはいつもの妙覚寺ではなかった。
個人の屋敷であった。京の医者で、半井《なからい》驢《ろ》庵《あん》という者の屋敷である。
「驢庵の家にとまりたい。支度をしておけ」
という命令が、在京官の光秀のもとにきたのはその前日であった。
光秀は、あわてざるをえなかった。すぐ半井驢庵の家にゆき、その用意をととのえたが、
(なぜかような医者の家に)
と思わざるをえなかった。
もっとも医者とはいえ、半井家は天子の侍医で官位も高く、それに将軍や富豪の脈もみるから、富裕でもある。屋敷はほどほどに広かったが、かといって大寺のようにはいかない。
(どこにでも泊まりたがる御人だ)
と、光秀はあきれる思いだった。
やがて信長が到着すると、
「驢庵、茶道具をみたい」
といったから、光秀にも信長の真意がわかってきた。驢庵は畿《き》内《ない》でも有名な茶人で、その所蔵している道具には逸品が多い。
信長は、極端な茶好きであった。とくに道具には目がない。
驢庵はすぐ堺《さかい》の茶道仲間に使いをはしらせ、信長にみせる自慢の品々をもってあつまるように通報した。
すぐそれらが集まった。
信長はほしくなり、それらを売れと命じ、それぞれ相応の代金をあたえた。
家康も、入洛《じゅらく》した。
やがて四月に入ると、織田系の大名小名が京に雲のごとくあつまり、その十四日、将軍館で盛大な落成の行事がおこなわれ、能の興行などがあった。
信長は、天下を油断させた。
その数日後に京を発し、琵琶湖畔を急進し北へむかい、越前に入り、朝倉方の手筒城《てづつじょう》を攻撃し、京で能興行をした翌日から十日目にその城を奪い去っている。
朝倉家にしては、まったくの寝耳に水で、防衛態勢でさえ十分でなかった。
(なるほど琵琶湖畔や京での遊楽は、こういうこんたんがあってのことか)
と、軍中で立ちはたらいている光秀でさえ敵城を攻撃しながら、それをおもうと呆然《ぼうぜん》たる思いがした。
信長は、義昭を責めず、義昭がたよりにしている越前朝倉氏を討ちとろうとしたのである。
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