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国盗り物語140

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:参籠《さんろう》 京都盆地と丹波高原をへだてている山嶺《さんれい》のひとつに、愛《あた》宕《ご》山《さん》がある。愛宕権
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参籠《さんろう》

 京都盆地と丹波高原をへだてている山嶺《さんれい》のひとつに、愛《あた》宕《ご》山《さん》がある。
愛宕権現《ごんげん》鎮座の霊地である。
京都盆地からあおぐと、この山が西のほうにあるため、東山に対比して西山という。毎夕、入り陽《ひ》がこの山をあかあかと荘厳《しょうごん》するため、人々はこの霊山に対して宗教的幻想をふかめ、愛宕崇拝は京者《きょうもの》の日常生活になっている。
千日詣《まい》りでは、ことさらににぎわう。
例年、四月の中の亥《い》の日に行なわれ、山麓《さんろく》の一ノ鳥居から八キロほどの嶮《けん》路《ろ》は、物詣《ものもう》での男女が蟻《あり》のようにつらなって登ってゆく。山麓に清滝《きよたき》の渓流《けいりゅう》がながれ、ゆくほどに試《こころみ》ノ峠《とうげ》があり、さらに渡猿橋《とえんきょう》を渡れば檜杉《ひのきすぎ》が天をおおい、道は昼なお暗い。
が、光秀の側から登れば、おもむきはまるでちがう。
光秀は、安土城、坂本城をへて、いまかれの所領丹波亀山にいる。亀山城から北東をのぞむと、天を遮《さえぎ》っているのが愛宕山である。
「愛宕へ参籠する」
と光秀がいったのは、丹波亀山城に帰った翌々日であった。光秀は自分の十三人の隊将をあつめて備中への遠征を告げ、その支度を命じたあと、
「所願のことあり、予ひとり、山に籠《こも》りたい」
といったのである。
隊将たちは、その光秀の表情のかげりにただならぬものを感じた。
(あるいは)
と直感した者も、数人にとどまらない。むろんこの想像は飛躍的でありすぎる。
しかし光秀の表情から、それを想像させるだけの多少の根拠はあった。諸将はすでに光秀が、その所領のすべてを信長から巻きあげられてしまっていることを知っている。
かわりに信長は、山陰の出雲・石見二国をあたえるという。その両国は敵国で、それを斬り取るまで明智家の一万余の将士は、不安と窮乏と焦燥《しょうそう》のなかですごさねばなるまい。
この不安が、隊将たちにある。その不安が、数人の直感力のある隊将の想像に根拠をあたえた。
(殿は、まさか)
ということであった。
御謀《む》反《ほん》を、ということである。しかしかれらの理性はそれを否定した。生真面目《きまじめ》すぎるほどのかれらの主人が、そういう発想の飛躍ができるはずがないとも思ったのである。この連中は、明智左《さ》馬助《まのすけ》(弥平次)光春、斎藤内蔵《くらの》助利三《すけとしみつ》などであった。かれらは光秀に仕えてもっとも古く、光秀の性格も知りつくしており、光秀と信長の関係や、織田家の殿中でのおよそ常軌でない事件の種々《くさぐさ》もよく知っている。
(しかし殿は、堪えていなさる)
彼等も、一面では光秀は堪えるべきだと思う。一介の牢人《ろうにん》の分際からひきたてられて仕官後十年そこそこで五十余万石の大大名にのしあがるという奇跡は、この国の歴史はじまって以来そうざらにないであろう。その魔術を演じたのは信長であった。光秀は魔術師信長の道具であるにすぎない。その道具が、人並な感情を持つべきではなかった。魔術師の信長自身が、道具に感情を要求しておらず、機能性をのみ要求している。その代償として五十余万石の大領である以上、道具としては我慢をしつづけてゆかねばならない。
が、その道具《・・》が、
「参籠」
をするという。参籠とは、道具のなすべからざる精神作業である。参籠は社寺に昼夜ひきこもって祈願をすることだ。当然、願《がん》がなければならない。道具が願をもつとはどういうことであろう。自分に病気でもあるならともかく、参籠などする必要はないではないか。——かれらの想像は、この点で飛躍したのである。
とはいえ、
「なにを御祈願あそばされます」
とは、光秀に聞けなかった。そういう質問をかるがると発するには、平素光秀はあまりにも閉鎖的な男で、孤独なにおいがつよく、家来の付け入るふんい気を持っていない。これが羽柴秀吉ならば秀吉の家来たちはかるがると物が言えたであろう。もっとも秀吉ならば神仏などは信ぜず、参籠などという古典的な精神作業をするはずはなかったが。——
二十五日朝、光秀はわずかな供まわりをつれただけで居城の亀山城を出た。
天に、光があふれている。亀山の小盆地の緑はことごとくあたらしく、そのなかを一すじの赫土《あかつち》のこみちが保津《ほづ》川《がわ》にむかって走っている。光秀は騎馬で、その道を打たせた。
百姓が、水田のなかにいた。水田のあちこちで動いている。彼等は、小《こ》径《みち》をうちすぎてゆく騎馬の武士が、まさか国主の惟任日向守《これとうひゅうがのかみ》光秀であるとは気づかない。
光秀は、丹波入部いらい、この国の百姓を愛した。この男の行政好きはほとんど淫《いん》するほどで、従来の弊政を一掃し、かれらの暮らしをあかるくすることにつとめた。
あるとき、郡部の代官が、この国の村々には租税をまぬがれるための隠し田が多い、ということを光秀に訴えると、
「むずかしいところだ。官人たる者がそういうことにこまごまと気を配りすぎると、国が暗くなる」
と、光秀はたしなめた。代官はそれを不服とし、
「世に百姓の言葉ほど油断ならぬものはござりませぬ、彼等ほど、うそとごまかしの多いものはござりませぬ」
と、光秀に教えようとした。
このとき、光秀はいった。
「仏のうそは方便といい、武士のうそは武略という。百姓のうそは美しく装飾しようにも装飾する名分がない。世に百姓のうそほど可愛いものはない」
その光秀が、馬を打たせている。彼等を警《けい》蹕《ひつ》すれば彼等は泥《どろ》田《た》から這《は》いあがって土下座するであろう。しかし光秀はそれをこのまなかった。
行きすぎ、保津川べりに着き、軽舟をもって川を渡った。保津川もこれよりややくだると山間の渓流になって容易に渡れないが、この上流の亀山(亀岡)盆地のあたりは、かえって流れがゆるやかなのである。
対岸から、山路に入った。

光秀は山を登った。次第に足もとの亀山盆地が小さくなり、やがて百年檜《ひのき》といわれるあたりで下界は見えなくなった。あとは山中を這うように進んだ。この山は丹波からの登り口が、ひどく嶮《けわ》しいのである。
途中、何度も息が切れ、何度も休んだ。光秀は一見虚弱そうにみえるが、往昔《おうじゃく》血気のころはこの程度の坂でこういうことはなかった。やはり体が老いに近づきはじめているのであろう。
途中、岩角に腰をおろして弁当を喫《きっ》した。
「わしなどの若いころは」
と、急に昔のはなしをした。
「昼飯などは食わぬ」
ぽつん、と言い、それっきりであった。光秀がなぜ昼飯を食わなかったのか、近習の者には理解できない。
光秀のうまれた美濃は、海道筋の尾張に接しているため準先進地帯とでもいうべきところで、日に三食を食う京風の習慣は早くから定着していた。むろん村落貴族の子であった光秀も三食の京風に育っている。ところが美濃を落去してから、なが年辺地を流《る》浪《ろう》し、二食の国にも足をとめた。越前などはそうであった。このため光秀は若いころはずっと二食で通し、織田家にきてから三食に戻《もど》ったのである。光秀にすれば昼弁当を使いつつ、
——こうして昼食をとるようになってから、何年になるか。
ということで織田家にきてからの歳月を追想したのであろう。
やがて山上の愛宕権現の一院である威徳院に入った。この子院は威徳明王がまつられているところからその称があり、山では西坊《にしのぼう》と通称されている。
光秀の突如の参籠で山僧たちは大いに狼狽《ろうばい》したが、光秀はかれらを鎮《しず》め、
「国主としての処遇は無用のことである。ただの庶人として遇されよ」
といった。理由は、大ぎょうな接待を受けるよりも、光秀はひとりになることを望んでいた。独居して考えたいことがある。
「そのようになし下されよ」
と、とくに望んだ。
まず、入浴をした。近習の少年が、光秀の体を洗った。
光秀は、うなだれながら背中を流されている。息を忘れて思案をし、ときどき深い溜《た》め息をついた。
(殿様はどうなされたのであろう)
少年には、大人の心がわからない。大人という、生きがたい世を生きぬいている人間を理解できるには、少年の顔はあまりにもあどけなさすぎた。
「独居して考えたい」
と光秀は思い、さればこそこの丹波・山城《やましろ》の国境の天にある愛宕山に登ったのだが、しかし現実には光秀は何事をも考えていない。
懊悩《おうのう》しているだけであった。
光秀の頭脳はすでに停止し、光秀の神経だけが光秀を支配している。気が病みきったときは、すでに思考は停頓《ていとん》するものなのであろう。まがりきった背骨、伸びきったうなじ《・・・》、冴《さ》えぬ血色だけが、そこにある。これは、考《・》える《・・》という陽気で能動的な作業の姿勢ではなく、考えることをやめた男の姿勢だった。
しかも光秀は考えようとしているし、考えているつもりでもあった。
「殿様」
少年は、声をかけた。光秀ははっと驚き、少年をみた。少年のあどけなさすぎる顔が、生命そのもののようにそこにあった。その顔をみるにつけても、
(この少童をも、地獄におとし入れねばならぬか)
という反応だけが、光秀にある。思考ではなく、詠嘆であった。光秀は考えていない。
ぼう然としていただけのことであった。
すでに少年は光秀の体をぬぐいおわっているのである。そのくせ光秀は立ちあがりもせず、腰をおろし、首をうなだれさせている。少年が声をかけたのは、光秀に注意をうながすためであった。
「なんだ」
光秀は驚いたまま、少年の顔を見つめつづけている。
「御身をお浄《きよ》めおわりましてござりまする」
「そうか」
浴室を出た。
出て帷子《かたびら》に着かえたときは、すでに樹々《きぎ》のあいだの闇《やみ》が濃くなりはじめている。
(本堂、奥ノ院にゆかねばならぬ)
と思いつつ、つい気が重くなり、縁に端《はし》居《い》して樹々をながめた。光秀の胸中、決断をするとすれば今しかない。
(時は今)
という思いのみがある。
山陽道へ出征する信長は、四日後、安土を発し、その日のうちに京に入り、夜は本能寺を旅館として二泊する。その手勢はわずかで守りはうすい。信長に同行する嫡子《ちゃくし》信忠は本能寺からやや離れた妙覚寺に旅宿するが、その守りもせいぜい旗本五百騎程度で、さしたる人数ではない。
討つとすれば、卵の殻《から》をにぎりつぶすがごとく容易であろう。
しかも、織田家の軍団司令官たちはすべて遠方にいた。柴田勝家は北国にあり、滝川一益は関東にあり、羽柴秀吉は備中にあり、丹羽長秀は軍勢を大坂に集結させつつあり、徳川家康にいたってはわずかの供まわりをつれて堺《さかい》見物に出かけつつある。
京は、空白であった。
その軍事的空白地帯の京に、信長は二十九日の夜、少数の旗本とともにすごすのである。
このような機会はない。
これほどの稀有《けう》な機会が光秀の眼前にあらわれて来なければ、光秀はおそらく平凡な後半生を送ったであろう。機会が、光秀に発想させた。これまで正気で考えたことのないことを、光秀は考えはじめた。
光秀は、あわれなほど狼狽している。
(やるか)
と考える自分についてであった。思考の出発は、機会がそこに来た、ということだけのことである。機会は、突如きた。ながい歳月をかけて周到に計画したことではないだけに、光秀は度をうしなっていた。ついに疲れ、自分をうしない、この決断を神仏にまかせようとした。
そのための参籠であった。権現の宝前にすすみ、みくじ《・・・》を引き、その吉凶によって自分の行動を決しようとした。
いま、端居している。
樹々の群れ立つ黒い翳《かげ》をながめ、ながめたまま動かなかったのは、宝前で、みくじ《・・・》をひくことがおそろしかったのである。みくじを引く行動をさえ、光秀は渋っていた。ひいて吉と出れば光秀は本能寺に殺到せねばならぬであろう。凶と出れば、むなしく兵をひきいて備中へ去らねばならない。しかし備中へむなしく去るということも、光秀は物《もの》憂《う》かった。物憂いというよりも、生きてゆく方途さえ見失うような思いである。
決しかねて、縁側にいる。
が、立たねばならなかった。光秀は足を掻《か》き、やがて立ちあがった。足もとに血ぶくれた蚊が、飛びたちもせずにころがっていた。
「行く」
と、縁を飛びおり、足にわら草履をうがった。苔《こけ》を踏み、杉木立ちのなかに入った。足もとの前後を、近習のもつ三本の松明《たいまつ》が照らしていた。
再び、岩間の嶮路を攀《よ》じてゆく。
本堂に、詣《まい》った。
この本堂にまつられている勝軍地蔵というのが、武人たちの尊崇をあつめている。光秀は本堂にはあがらず階下に佇立《ちょりつ》したまま数珠《じゅず》の玉をさぐりつつ経を誦《ず》し、やがて去り、奥ノ院への道をのぼった。
奥ノ院はもっとも霊験《れいげん》顕著とされている。
岩頭にあり、まわりは深い杉木立ちにかこまれ、嵐《らん》気《き》は物凄《ものすご》いばかりにしずまっている。
年のうち何度か、この奥ノ院の峰に、天竺《てんじく》唐土《もろこし》日本の天《てん》狗《ぐ》があつまるという。天竺の天狗の首領は大夫日良《たゆうにちりょう》であり、唐土の天狗の首領は大夫善界であり、本朝の天狗の首領は太郎坊大僧正であった。その三頭があつまるとき、この峰は魔界になり、樹々の梢《こずえ》にはかれらの眷族《けんぞく》九億四万余ひきの小天狗がとまるという。
光秀は、宝前に進んだ。
鰐口《わにぐち》を鳴らし、神式で手を拍《う》ち、仏式で数珠をかぞえ、経を念じた。
やがて階《きざはし》をのぼり、格《こう》子《し》戸《ど》をあけ、燈明をつけ、みくじの匣《はこ》をとりあげ、偈《げ》言《ごん》を諷誦《ふうじゅ》した。
自我《じが》得仏来《とくぶつらい》  所経諸劫数《しょきょうしょこうしゅ》 
無量百千万《むりょうひゃくせんまん》  億載《おくさい》阿《あ》僧《そう》祇《ぎ》
常説法教化《じょうせつぽうきょうげ》  無数億衆生《むすうおくしゅじょう》
令入於仏道《りょうにゅうおぶつどう》  爾《に》来無量劫《らいむりょうこう》
為度《いど》衆生故《しゅじょうこ》  方便現《ほうべんげん》涅《ね》槃《はん》
……………
やがて光秀は座したままみくじ匣を頭上にあげ、頭上でふりつつその小《こ》孔《あな》から一本の串《くし》をとりだした。目をひらき、その串のはし《・・》を見た。
凶であった。
光秀は、燈前で首をかしげた。血の気がうせ、息がかぼそくなりつつある。
「ちがう」
光秀は、つぶやいた。呟《つぶや》きつつ串をとり、この男のもつ意思力をふるいおこしてそれをぴしりと折った。
(いま一度)
と思い、匣をとりあげ、気ぜわしく振ってさらに一本の串をとりだした。
凶であった。
光秀は、乱心したようになった。神仏をも蹴《け》殺《ころ》したくなるほど凶暴な気持になり、さらにがらがらと匣をふった。振っても串は出ず、しかも、串の群れは内部《なか》で鳴っている。
やがて膝《ひざ》の上に、串一本、こぼれ出た。
光秀はそれを見、その串を手ではらい、そのあと気が抜けたように両肩の力をおとした。しばらくその姿勢のまま、息を吐きつづけた。
串は、吉であった。
しかし何度も振りたてて出た吉になんの験《げん》があろう。光秀は串をひろいあつめ、まとめてぴしりと折った。
さらに指に力を入れ、ぴしぴしと折り、ついにはこなごなにしたが、それでもおさまらず、最後には爪《つめ》をもって折った。
光秀は、堂の中から出た。
縁側からとびおり、ふたたびもとの坂をくだりはじめた。しかし、足どりは重く、呼吸はさわやかではなかった。しかし、その重さに耐えて、決意はひそかに息づきはじめている。神仏がたとえ加護せぬとあっても、やるべきことはやらねばならぬであろう。
光秀は、やろうとしていた。
運はもはや考えず、ただ行動をすることをのみ考えようとしていた。その行動の結末《すえ》がなんであろうとも、光秀は考えない。
(たとえ非運になっても、この身がほろぶだけのことではないか)
光秀は、ひたひたと歩いている。いそぎもせず、かといって揺蕩《たゆた》いもしない。行くところへ行く、というだけの足どりであった。
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