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国盗り物語144

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:幽斎 細川藤孝は、丹後宮津城にいる。城は若狭《わかさ》湾に面して海光あかるく、このあたりに歌の名所の天ノ橋立があり、風雅
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幽斎

 細川藤孝は、丹後宮津城にいる。
城は若狭《わかさ》湾に面して海光あかるく、このあたりに歌の名所の天ノ橋立があり、風雅の道に長《た》けたこの男の居城にふさわしい。
藤孝はいまでは丹後一国十二万三千五百石を領している。長岡玄《げん》蕃《ば》、松井康之といった有能の子飼いを家老とし、そのうえ嫡子忠興《ただおき》の器量も大名のあとつぎとしては申しぶんがない。藤孝ことしは四十八になるが、その前半生をかえりみて、いまほど幸福な時期はないであろう。
藤孝は風雅のあらゆる道に通じ、それぞれ独特の境地をひらいていたが、しかし伝統を愛することのこの男よりはなはだしい者はちょっといない。
歌道についても藤孝は公卿の三条西実枝《さんじょうにしさねえだ》から古《こ》今伝授《きんでんじゅ》という秘伝を相続して、その家元になっているし、書道についても、御《お》家《いえ》流がほろびるのをおそれ、それを相続するために家来の清原秋共という旧幕臣をわざわざ越前までつかわしている。越前の草深い里に姓不詳孝成《よしなり》という者が、尊円《そんえん》法親王いらいの筆法をつたえていたのを知ったからである。京の公卿の烏丸光広《からすまるみつひろ》や飛鳥《あすか》井《い》雅宣《まさのぶ》がこの藤孝の美挙に感激し、
——かの殿を書道の守り神とせん。
とまでいったほどであった。
藤孝のこの異常な伝統擁護の情熱は、ひとつには性格であろう。ひとつには京都的伝統が応仁《おうにん》いらいの戦乱のためにほろびようとしている。それを再発掘し後世にうけつぐのは自分しかいない、というはなはだしい使命感があったからに相違ない。藤孝が、旧幕臣ということとはべつに、一個の知性としても足利幕府の再興をのぞんでいたのは、こういう伝統維持の使命感につながるものであったろう。
その足利幕府を信長がほろぼした。
そのほろぼしたことを、藤孝は是認した。これは藤孝にあっては矛盾ではない。
「信長公は、天子・公卿という伝統を回復してくれた」
と、藤孝はよろこんだ。思ってみれば足利の伝統よりも天子・公卿の伝統のほうがはるかにふるく、はるかに醇美《じゅんび》である。そうおもって、藤孝は信長の政治的方向を、なんの抵抗もなく自分のなかに受け入れた。
それに信長は、かれ一個のためにはかりがたい幸福をもたらしてくれた。
十二万余石の大名になれた。信長は巨大な福の神であったといっていい。
むかしの藤孝の窮乏は、おもうだに身のすくむようなすさまじさである。流亡の将軍を奉じて近江《おうみ》朽《くつ》木《き》谷《だに》に身をひそめていた若年のころ、夜の読書のために神社から燈油をぬすんだこともあったし、なにかのときに弁当をつくる金さえなく、妻の髪を切って売ったこともある。
流亡し、転々し、ついに信長という不世出の伯楽《はくらく》を得て織田家の大名になった。
もっとも、厳密には藤孝は大名ではない。子の忠興が大名である。
これには理由がある。一昨年、信長から丹後一国十二万余石を拝領したとき、藤孝はこれを遠慮した。子の忠興の名義で頂戴《ちょうだい》した。
「律《りち》義《ぎ》な男だ」
と、信長はそのとき感心した。藤孝は足利家の旧臣である。二君に仕えず、という教養人らしいところを藤孝はみせたのである。
実質的には、おなじことであった。藤孝はあくまでもこの新領国の支配者であり、細川家の当主であり、官は従《じゅ》四《し》位下《いのげの》侍従であり、いささかも実質にかわりはない。
名義だけが、忠興である。
この聡明な男にはそういう巧妙さがあり、見方によっては保身にかけては奸佞《かんねい》といえるほどの智恵をもっている。
 この藤孝は、安土で備中出陣の命をうけるや、その出陣準備のためにただちに丹後宮津に帰った。
細川藤孝は、つねに明智軍団に属する。それが織田家の軍制であった。織田家は五大軍団にわかれ、柴田、丹羽、羽柴、滝川、明智がそれぞれの長で、小さな大名はそのどこかの軍団に属していた。これを、与《よ》力《りき》大名とよばれる。細川藤孝や筒井順慶は、光秀の与力大名であった。
藤孝は、丹後宮津からじかに備中の陣へゆく。そこで信長や光秀と落ちあう。
天正十年六月三日。
これが、藤孝の宮津出発の予定の日であった。すでにその前日、信長が本能寺で死んでいることを、藤孝は知らない。
当然ながら、出陣のことは予定どおりにはこばれた。子の忠興が、前隊を指揮する。親の藤孝は、後隊を指揮してゆく。
当日、前隊が忠興とともに城門を出た。
後隊の藤孝は出発までに多少余裕があり、奥の一室で煎茶《せんちゃ》をのんでいた。
話し相手は、大津からきた十四《じゅうし》屋《や》という町人である。十四屋は、かねがね藤孝の金銭感覚の無さをふしぎにおもっていた。藤孝は、実力のともなわぬ名門の家にうまれ窮乏を身に沁《し》みてあじわったせいか、極度な倹約家であった。衣服も具足も黒しか用いない。黒ほど高雅な色はないとおもっているせいでもあったろうが、一つはよごれがめだたぬためでもあった。またこれほどの趣味人でありながら、城内のふすまはいっさい白で、絵ぶすまなぞは用いない。そのように諸事倹約にはげんでいながら、おかしいほどに金が貯《た》まらないのである。
「今日はひとつ、いかにして金をためるかというお話をいたしましょう」
と、十四屋はいった。藤孝はひざをたたき、
「それそれ。その秘伝を教えてくれれば、すぐにでも銀百枚を呉れてやろう」
というと、十四屋はすかさず、
「そこでございます。すぐそのようなことを申されますゆえ、いつもお貧乏であられまする。秘伝はそのあたりでございます」
といった。藤孝は大笑いしたが、このぬけ目のない男にも、これほどの大穴があいていればこそ、家来にも慕われ、同僚にもよく、一軍の将にもなれたのであろう。
そんな雑談をしているうちに、城門を出たはずの忠興があわただしく戻《もど》ってきた。もともと感情の不安定な若者だが、血相がすっかり変わっている。
「父上、お人ばらいを」
と言った。藤孝は異変を察し、十四屋を退出させた。そのあと庭に飛脚がまわって、うずくまった。
藤孝は、手紙をよんだ。藤孝がかねて懇意にしていた愛宕山下坊《しものぼう》の僧正幸朝からの急使で、おどろくべき事実がかかれていた。昨暁《さくぎょう》、信長は本能寺で討たれたという。
討った男は、なんと光秀だというではないか。
「し、信じられませぬ」
と、忠興は狼狽《ろうばい》しきっていた。
光秀は、忠興の舅《しゅうと》である。この若者が家中の評判になるほどに溺愛《できあい》しぬいているお玉《たま》、のちの洗礼名伽羅奢《ガラシャ》——の父が、光秀であった。忠興の立場は、微妙というほかない。
それに忠興は、たぐいのまれな器量人を、実父と舅に持った。父の藤孝を尊敬することはふかいが、舅の光秀に対してもあおぐべき人間の一典型と思いなしている。
若い忠興は、人間の行動を倫理的に見たがるかたよりがある。主殺しとは八虐《はちぎゃく》の大罪悪ではないか。とおもうと同時に、忠興には、あの謹直で思慮ぶかい光秀が、このようなことを仕出かすとは想像もつかぬ。信じられませぬ、と叫んだのはそのことであり、忠興はできれば誤報であるとおもいたい。
「与一郎」
と、藤孝は忠興を通称でよんだ。
「この世には、信じられぬことがいかほどもある。わしの前半生は、そのようなことの連続であった。まず、人数を城にかえせ」
忠興は退出し、そう処置した。
そのあいだ、藤孝は沈思している。いずれ光秀から飛報がくるであろう。光秀は藤孝をこそ頼りにしているにちがいない。
藤孝は、考えた。藤孝の考えるところ、忠興のような倫理的判断ではない。ひたすらに、政治的判断である。
(光秀は、保《も》つか)
ということであった。保つまい、と見た。保つはずがない。光秀の行動はあくまでも衝動的であり、そのためのなんの下工作もしていなかった。藤孝にも下相談に来なかったところをみると、他の将に対してもそうであろう。みな、寝耳に水にちがいない。織田家の将も世間も、横《よこ》っ面《つら》をはりとばされたような衝撃を受け、同時にかぎりなく不愉快に思うであろう。
(光秀は、人気をうしなう)
となれば、他の四人の旗頭《はたがしら》、柴田、丹羽、滝川、羽柴に人気があつまり、かれらのうちのたれかが京の光秀を攻めれば、その旗のもとに諸将も人気もあつまる。
(光秀は、ほろびる)
と、藤孝は見た。
やがて忠興が庭さきの処置を終えてふたたび入ってきたとき、藤孝の決心はさだまっていた。
「わしは光秀に与《くみ》しない」
忠興には、藤孝は倫理的に自分の心境を説明した。
「自分は信長公の御恩をこうむることふかく高く、海山ともたとえきれぬほどである。されば追善のために髪を切る」
と言い、その場で児《こ》小姓《ごしょう》をよび、髻《もとどり》を切らせた。
髪は大童《おおわらわ》になり、同時に俗名をやめ、かねて用意していたゆうさい《・・・・》という号を用いることにした。
幽斎
と、紙片に書いた。
藤孝のこの処置は、三日を経ずして京へつたわるであろう。単に光秀の挙に加盟せぬというだけでなく、光秀の立場を決定的にわるくすることになるであろう。なぜならば、光秀と肝胆《かんたん》相照らした藤孝でさえ信長の追善供《く》養《よう》のために髪を切ったとなれば、世間は、
——藤孝どのまでが。
とあって、光秀への批判、不人気、悪感情はいよいよ増すにちがいない。光秀に味方しようという大名までが、二ノ足を踏むのではないか。藤孝は、この髻を切った政治的影響を、そこまで見ぬいている。
「おことは別だ」
と、忠興にいった。
「おことは、光秀とは婿舅《むこしゅうと》の仲になる。光秀に与すのもよし。勝手にせよ」
「冗談ではござらぬ」
感情家の忠興は、かっとなった。藤孝は、子の忠興の性格を、知っている。察したとおり、忠興は短刀をぬき、左手をあげて自分の髻をつかみ、自分の手で切りはらってしまった。
「号は、さんさい《・・・・》と致しまする」
「どういう文字ぞ」
「三斎」
と、忠興は書いた。
(これは、光秀にとって痛手になる)
婿にまで見捨てられた、という評判が立つであろう。しかし藤孝にしてみれば、亡《ほろ》ぶべきものは迅速《じんそく》に亡ぶがよい、でなければ細川家が、この事変から思わぬ火の粉をかぶらねばならぬかもしれない。
(しかし、たれが光秀打倒の旗頭として中原《ちゅうげん》にあらわれ出てくるか)
それまで、日本海岸若狭湾に面したこの僻《へき》地《ち》の城で情勢を静観していたほうが利口であろう。
その翌日、京の光秀から急使がきた。使者は、この役目には最適任の人物であった。
沼田光友という旧幕臣で、幕府瓦《が》解《かい》後、明智家の客分になっている人物である。むろん、幽斎《・・》とは懇意であった。懇意どころか、姻戚《いんせき》である。幽斎の妻、つまり忠興の母は沼田上《こう》野介《ずけのすけ》光兼という幕臣の娘で、光友はこの沼田家の係累《けいるい》のひとりであった。
光友は、光秀の手紙を携行している。
幽斎は受けとって読んだ。
信長、われにたびたび面目を失わせ、わがままのふるまいのみこれあるにつき、父子(信長・信忠)ともに討ち、なが年の鬱積《うっせき》を散じた。貴殿にあってはさっそく人数を召し連れられ、早々に御上洛《じょうらく》あれかし。摂津(大阪府)がさいわい闕国でありますれば、ここを御《ご》知行《ちぎょう》なされよ。
 幽斎が意外におもうほど、簡単で、ごく事務的な文面である。光秀にすれば、幽斎が自分に反対の意見をもっていようとは、おもいもよらぬのであろう。
(なんと人の好い、うかつ《・・・》な男であることか)
幽斎の感情は、複雑であった。敵としてではなく、友として光秀の政治感覚の欠如を歯がゆくおもった。所詮《しょせん》は光秀は最も優れた官僚であり最も卓《すぐ》れた軍人であっても、第三流の政治家ですらないのであろう。幽斎はかねがねそうおもっていたが、この手紙のあまさをみて、つくづくとそう思った。
(あの男は、前後の見さかいもなく激情のあまり、信長を殺した。それだけのことだ。天下を保《も》てる男ではない)
そういう光秀を憐《あわ》れとも思い、あわれとも思えばつい正気で涙ぐむことさえできる幽斎である。
その幽斎の涙をみて、沼田光友は、
「ご加担くだされましょうな」
と、勢いこんでいった。
幽斎は、政治家にもどった。頭《ず》巾《きん》をとり、頭を撫《な》でた。
「これに、気づかぬか」
他は、いわない。光友も、さとった。
なにごとも徹底せねばやまぬ忠興のごときは沼田光友を殺そうとまで父に献言したが、父はおだやかにとめた。
「使者まで、殺さずともよい」
光友はほうほうの体で宮津を去った。

沼田光友が京にもどって復命したのであろう。光秀からあわただしく飛脚便がとどいた。
幽斎は、その書信をひろげた。書体までが蒼《あお》ざめているような書きぶりだった。
「信長公を悼《いた》んで髻をお払いなされたとのこと、驚いている。それをきき、自分もいったんは腹が立ったが、それも人情で致し方がないとも思った。しかし事態がこうなった以上、自分に味方をしてもらいたい。貴殿にさしあげる国としては、摂津を用意している。いや、但馬《たじま》と若狭を望まれるならそのお望みどおりにする」
と、急に辞色をやわらげ、むしろ哀願するような文臭さえある。人気のあつまらぬ光秀の窮状が目にみえるようである。本能寺ノ変後、たれよりも困惑しているのは光秀自身ではないかと幽斎にはおもわれた。
「われら不慮の儀、存じ立て候事《そうろうこと》」
と、光秀の手紙はつづく。「自分がこの不慮の儀(本能寺の一件)を思い立ったのは」という意味である。
「自分の婿であり貴殿の嫡子である忠興を取り立てて大身にしたかったためで、それ以外に他意はない。五十日、百日のうちには近畿を平定することになろう。近畿平定後は、自分は隠居をし、天下を忠興にゆずり渡したい」
とまでへりくだって書いている。この哀切きわまりない手紙が、二十世紀ののちにいたるまで細川旧侯爵《こうしゃく》家に所蔵されて人目に触れつづけてゆくであろうとは、光秀はむろん思わなかったであろう。光秀は、ひたすらに哀願した。
(あまい)
幽斎の心はうごかず、むしろこの場合、光秀と義絶することによって、世間に自分の立場を鮮明にし、つぎの天下に生きのびるための布石にする必要があるとおもい、断交の手紙を送った。
同時に、光秀の娘である忠興の嫁お玉を一時離縁し、丹後国三戸野《みどの》に幽居させた。
ほどなく備中にあった羽柴秀吉が兵を旋回し、光秀を討つべく山陽道を駈《か》けのぼっていることを幽斎は知り、急進中の秀吉に誓書を送ってその隷《れい》下《か》に入るべき旨《むね》を誓った。
(秀吉の世が来る)
と、幽斎はおもったのである。事実、亡君のうらみを晴らすという、この場合もっとも絢爛《けんらん》たる名分をかかげた秀吉の陣頭には、時代の熱気があつまっていたし、それを支持する織田家の群小大名は、秀吉をかつぎあげることによって家運を拓《ひら》こうとしていた。
(北陸の柴田勝家は、早急には京に到着できまい。関東の滝川一益は遠くはなれすぎているうえに人気がない。丹羽長秀は織田家の老臣であるというにとどまる。才略徳望ともにそなわって、しかも京に近い場所にいるのは、羽柴秀吉である)
幽斎は、そうみていた。丹後宮津の幽斎の観望するところ、光秀はすでに天下取りの者どものための、哀れな餌《え》食《じき》としてころがっているにすぎない。
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