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国盗り物語145

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:小《お》栗《ぐる》栖《す》 光秀は謹直な男だが、陽気さがない。洛中《らくちゅう》のひとびとも、「この人がはたして天下を保
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小《お》栗《ぐる》栖《す》

 光秀は謹直な男だが、陽気さがない。洛中《らくちゅう》のひとびとも、
「この人がはたして天下を保てるだろうか」
と疑問におもった。
時勢の人気に投じ、あたらしい時代をひらく人格の機微は、人々の心をおのずと明るくする陽気というものであろう。光秀は怜《れい》悧《り》で小《こ》律《りち》義《ぎ》な印象をひとにあたえていたが、六十余州をおさえて立つほどの人物かといえば、人々は多分に疑問を感じた。
この疑惑は、光秀の人気に微妙に影響し、洛中の人心は新時代が到来したといっても、気味わるいほどに沸かなかった。
——織田家には、信長によって取り立てられ、信長によって磨《みが》きあげられた豪邁《ごうまい》の将が多い。
いずれかれらのうちの何者かが惟任《これとう》殿(光秀)を追って京の主人になるのではないか。
そんな観測が、たれの胸中にもあり、京の者は屋内に身をひそめ息を殺して時間の経過を見まもっているという感じであった。
光秀は、その自分に不利な空気を敏感に察しられるたちの男であった。不利な要素に過敏な性格というのは光秀の欠陥であるにちがいない。そのぶんだけ光秀の言動に爽快《そうかい》さを欠き、そのぶんだけ勇断さがなくなり、自然、小さく暗くなった。
光秀は京を制したあと、すかさず信長の根拠地である近江に行動し、短時間でこれを制した。本能寺ノ変後、三日で安土、長浜、佐和山の諸城を接収している。
五日、光秀は安土城に入り、天守閣にのぼり、信長が多年にわたって貯蔵した高価な茶道具や金銀珠玉を、家来や新付の諸将に惜しげもなくわかちあたえた。
(人の心を沸かせたい)
と、光秀はひたすらに願望した。この男の小心さといえた。かれの眼前には天下を決すべき決戦が刻々近づきつつあるというのに、金銀を、それへの軍資金にあてず、味方や世間への人気とりに使わざるをえなかった。そのことに、不自然なほどの浪費を光秀はした。
——惟任殿は、大《たい》気《き》者《もの》である。
という評価を光秀はとりたかった。この金銀で人気を買い、いままでの暗いばかりに堅実な光秀の印象を世間に忘れさせたかった。
安土滞在中の七日、京の朝廷から吉田兼《かね》見《み》が勅使となって賀意をのべにきた。朝廷は歴世、勝者にのみ微笑する。
吉田兼見は従二位の高位にはあったが、職は神祇職《じんぎしょく》であり、正統的な公卿《くげ》ではない。その兼見がことさら勅使にえらばれたのは、光秀と懇意であるためであった。
兼見は、光秀に友情をもっている。姻戚《いんせき》でもあった。細川幽斎の娘を、兼見はもらっているのである。兼見は光秀の本能寺襲撃の直後、光秀のために宮廷工作を担当し、光秀のこんどの行動を公卿たちに理解させるべく骨を折ってきた。光秀のためには蔭《かげ》の人気工作者というべきであろう。
「洛中の人気はいかがです」
光秀は、怖《おそ》れるような表情できいた。
兼見は首をかしげ、しばらく答えなかった。やがて、
「禁《きん》裡《り》奉仕の者も洛中の者も、川蜷《かわにな》のようにだまっています」
といった。
光秀はこの男のくせで、ふと悲しげな表情を片頬《かたほお》に泛《うか》べた。世間が沈黙しがちだというのは、光秀に対する倫理的不快感が瀰《び》漫《まん》しているためか、それともつぎの時代がすぐ来るという見通しがあるためであろう。人々はつぎの主権者の時代にも生きねばならない。自然、光秀に心やすく迎合する気になれないのではあるまいか。
「私は、ここで孤《ひとり》でいる」
光秀は、ふと洩《も》らした。時代のなかで孤独であるという意味であろう。ここで《・・・》というのは、安土城のことである。光秀は日本の中心であるこの安土城を得、ここにすわったが、しかしかつての居住者の信長とはちがい、光秀は時代の中心に安定せず、漂《たゆと》うている観があった。
「なにぶん、京のことはよろしくおたのみ申します」
光秀は、兼見に慇懃《いんぎん》すぎるほどの礼をし、そのあと兼見におびただしい金銀をあたえた。
翌日、兼見の京へ帰るのを見送ったあと、光秀はその根拠地のひとつである琵琶湖畔の坂本城に帰り、この城を明智左馬助光春にまかせ、その翌九日、兼見のあとを追うようにして京に入った。
坂本から京へ入る口は白河口だが、京の鬼門にあたる。光秀はそれをさけ、わざわざ遠まわりをして京の玄関口ともいうべき粟《あわ》田《た》口《ぐち》に入った。道は三条大橋に通じている。その沿道に朝廷の百官が出むかえて、凱旋《がいせん》将軍の光秀を出迎えた。
(兼見の配慮だ)
と思い、光秀はうれしくもあり、淋《さび》しくもある。兼見が懸命に煽《あお》ってやっとこれだけの公卿があつまったのであろう。公卿や門跡《もんぜき》たちは口々に賀辞をのべた。
「いや、痛み入ります」
光秀はいちいち鄭重《ていちょう》に答礼した。信長の、公卿を公卿ともおもわぬ傲岸《ごうがん》不《ふ》遜《そん》さからみれば非常なちがいであり、光秀はしんぞこから公卿・門跡という歴史的権威を尊敬しているようであった。
光秀はこのあと、思いきった金銀くばりを断行した。京雀《きょうすずめ》、都童《みやこわらべ》という言葉があるように、京は世論の醸成地であり、京での評判が諸国へひろがって天下の世論になる。口のうるさい京都知識人の口を買収できるなら、どんなに金をつかってもいまの場合惜しくはない。そんな心境であった。
まず、銀五百枚を禁中に献じた。さらにもっともうるさい知識人の巣窟《そうくつ》である臨済禅の五山と大徳寺にもそれぞれ銀百枚ずつ贈り、合計千百枚をこれに費《つか》った。
ついで京都市民に対しては平等に地子《じし》(土地税)を免除した。
「左様に金銀を撒《ま》かれては、このさき軍費が手詰りになるのではありませぬか」
と老臣のなかには諫《いさ》める者もあった。なるほど金銀を撒くことも大事だが、旧織田軍団との決戦のあとで撒けばよい。いまは戦備専一に金穀をつかうべきではないか、というのが老臣たちの心配であった。
が、光秀は、とりあわない。
このころ光秀は、丹後宮津城にいる盟友細川藤孝の髻《もとどり》を切った事実を知り、恨みと憂愁をこめた手紙を送っている。
「このような一挙に出たのは、ひとえに忠興《ただおき》の末よからんと思ったがためだ。近畿を平定し次第、あとは忠興や十五郎(自分の嫡子《ちゃくし》)にゆずって隠居するつもりである」
だから味方をしてくれ、という結論であったが、しかし文章のにおいは懇請よりも哀願に似ていた。光秀は形勢が自分に日に日に非であることをさとっている。大和の筒井順慶もそうであった。
縁戚にありしかも組下大名であるという点では細川藤孝とかわらない。その上、順慶にとって光秀は筒井家復興の恩人であった。大和の領主であった筒井家が、松永久秀のために所領を斬《き》りとられてしまっていたのを、信長の松永退治ののち光秀が口をきいて筒井家の所領を復活させてやったのである。光秀にとって、たれが参加して来なくても細川藤孝と筒井順慶だけは加盟してくるものと信じきっていた。
事実、筒井順慶は味方をしてくれた。それも微妙すぎるほどの参加であった。ほんの一部だけを光秀の軍に従軍させ、形ばかり近江平定戦に参加したが、当の順慶は大和郡山《こおりやま》城から出て来なかった。ばかりか、順慶は羽柴秀吉を盟主とする旧織田系の連合軍が山陽道を猛進しつつあるという報をきき、態度をさらに変えた。明智軍に与力させている隊をも大和へひきあげさせてしまったのである。彼等は、光秀にあいさつさえせず、京都郊外から消えた。
(筒井でさえ、そむいたか)
光秀は、自分の人気の凋落《ちょうらく》をまざまざと見せつけられたような気がした。
この形勢と心境のなかで、光秀は金蔵から金銀を掃き出すような勢いでそれをくばっている。もはやこの段階では人気とりというようなものではなかった。
光秀としては、浮世での望みを絶ちはじめている。むしろ望みが絶え、肉体がほろんだあとの人気を後世に買おうとしていた。そのために金をまいている。金銀をもらった天子、親王、公卿、門跡、五山の僧たちは、光秀の心境や立場を、おそらくはその死後において弁明してくれるであろう。

山陽道を駈《か》けのぼっている羽柴秀吉の猛進はすさまじい。ある日などは泥濘《でいねい》のなかを一日二十里(八十キロ)という、ほとんど記録的な行軍速度で進んだ。
進軍しつつも、みちみち四方に軍使を発しては織田家の諸将の従軍をもとめた。かれらはあらそって秀吉に誓書を出し、秀吉を押したてることによって家運をひらこうとし、従軍をちかった。秀吉はその気運をつかまえ、気運を自分の手で沸騰《ふっとう》させつつ自分の未来にむかって馳《は》せのぼりつつあった。天は秀吉に微笑をあたえた。秀吉が信長から与えられていた軍勢は、敵が毛利氏だけに圧倒的に多い。
——秀吉が勝つ。
という計算は、たれの目にもあきらかであった。自然、人は勝つほうに参加し、その人数はいよいよふくれあがった。羽柴秀吉がついに摂津尼崎城に到着し、
「精のつくものを呉れよ」
といって大蒜《にんにく》をなま焼きに焼いて喫した六月十一日の段階で、その人数は三万二千余にまでなっていた。
孤軍の明智軍は、一万数千でしかない。
 当然、光秀はあせった。
(せめて順慶だけなりとも)
と思い、家来の藤田伝五という者を大和郡山城にやって詰問させ、出勢を催促した。口だけでは順慶は動くまいとおもい、威圧を加えようとした。光秀は六月十日、みずから軍を指揮して京を出発し、南下して男山《おとこやま》(石清《いわしみ》水《ず》八幡《はちまん》)の裏を通って洞《ほら》ケ峠《とうげ》に進出し、ここに陣を布《し》いた。
洞ケ峠から順慶の居城の大和郡山までわずかに二十キロである。
「きかねば、郡山を攻める」
という恫喝《どうかつ》の姿勢であった。しかもこの峠は、足もとに京都・大坂間の平野をひろげ、それを一望におさめることができた。その野に、数日も経《た》てば羽柴秀吉の大軍が北進してくるであろう。ちなみに筒井順慶が洞ケ峠に陣し、眼下に展開する明智・羽柴両軍の勝敗を観望したといわれるのはなにかのまちがいであろう。光秀がこの峠に陣した。峠は、大阪府北河内郡の最北端にあり、京都府に接している。
光秀はこの日、終日峠の上で順慶を待ち、ついに夜営した。その夜があけても順慶は来ない。陽《ひ》が高くなったが、筒井順慶はついに郡山城を出て来なかった。
「望みは絶えたか」
光秀はつぶやき、峠の天をあおいだ。抜けるほど青かった。すでに梅雨があけ、山河は青葉でいろどられ、四季のなかで京都郊外のもっとも美しい季節になっていた。
光秀は、落胆した。峠に出てきたのも、青葉を見物するだけのことになった。順慶が来ぬとなれば、こんなところでぐずぐずしてはいられない。京都南郊にもどって羽柴軍を迎撃すべき布陣をしなければならなかった。
正午、光秀は坂をおりた。降りつつ、自分の運命が時代から転落してしまっていることを知った。
(それにしても、あっけなさすぎる)
と、光秀はおもわざるをえない。どこに手違いがあったのであろう。光秀の計算では、計算として精《せい》緻《ち》なつもりであった。しかしあくまでも計算は現実ではない。計算は計算にすぎなかった。
(そういうことらしい。最初から、間違いのうえに立って算用を立てた。あやまりは根本にある)
光秀は、うすうす気づいていた。計算の根本にある自分についてである。どうやら新時代の主人になるにはむいていないようであった。
(そうらしい)
かつての道三は適《む》いていたのであろう。信長は、刻薄、残忍という類のない欠点をもちながら、その欠点が、旧弊を破壊し、あたらしい時代を創造しあげるのに神のような資質になった。光秀は、考えた。かれには、時代の翹望《ぎょうぼう》にこたえる資質はないようであった。ひとびとは光秀を望まず、秀吉を望みつつある。
光秀は、坂をくだった。
陣を下《しも》鳥羽《とば》方面に布き、しかも純粋の野戦陣形をとらなかった。勝竜寺城、淀《よど》城をいそぎ修繕し、要塞《ようさい》戦の要素を加味した。城の防衛力を恃《たの》まざるをえないほど光秀の人数はすくなかった。
この戦術形態こそ、光秀の心情のあらわれであろう。決戦と防衛のいずれかに主題を統一すべきであるのに、両者が模糊《もこ》として混濁していた。
この、やや尻《しり》ごみして剣を抜こうとする光秀の戦術思想を、宿将の斎藤内蔵助利三《としみつ》が批判し、反対し、
「味方のこの小勢では、防衛に徹底すべきでありましょう。思いきって近江坂本城にしりぞき、今後の形勢を観察なされてはいかがでありましょう」
と内蔵助はいった。内蔵助のいうところはもっともであった。光秀はこの期《ご》にいたっても全力をこの野外に投入せず、兵力の四分の一を近江の坂本、安土、長浜、佐和山の四城に置き据《す》えているのである。光秀にすれば野外で敗けたときに近江へ逃げるつもりであるらしい。
「いつもの殿らしからぬ」
と斎藤内蔵助は、その不徹底ぶりをついたのである。光秀はたしかに心が萎《な》え、はつらつとした気鋭の精神をうしなっていた。すでにみずからを敗北のかたちにもちこんでいた。貧すれば鈍す、という江戸時代の諺《ことわざ》はこのころにはまだなかったが、あれば斎藤内蔵助はそう言って主人をののしったであろう。
十二日、雨。
この夜、秀吉軍の接近を光秀は知り、むしろこれを進んで迎え撃とうとした。斎藤内蔵助はふたたび諫《いさ》めた。
——この小人数で、なにができる。
とどなりたかった。ところが光秀は全体の戦術構想においては攻守いずれにも鈍感な陣形をたてているくせに、この進襲迎撃については異常なほど勇敢で頑《がん》固《こ》であった。あくまで固執し、進撃隊形をきめ、それぞれの隊長に、
「あすの夜明け、山崎の付近に参集せよ」
と命じた。光秀がきめた予定戦場は山崎であった。
雨はやまず、光秀はそのやむのを待たなかった。豪雨をついて下鳥羽を出発し、桂川《かつらがわ》を渉《わた》った。この渡河のときに、明智軍が携行していた鉄砲の火薬はほとんど湿り、濡《ぬ》れ、物の役にたたなくなった。
(なんということだ)
光秀は、唇《くちびる》を噛《か》み、いっそ噛みちぎりたくおもった。鉄砲の操作と用兵については若年のころから名を馳せ、織田家につかえたのもその特技があったからであり、その後も織田軍団の鉄砲陣の向上に大きな功績をのこした。いまなお鉄砲陣のつかい方にかけては日本で比類がないといわれているのに、この手落ちはどういうことであろう。
(あすは、十分の一も鉄砲陣が使えぬ)
そのあすが、来た。
天正十年六月十三日である。戦いは午後四時すぎ、淀川畔の天地をとどろかせて開始され、明智軍は二時間余にわたって秀吉の北進軍を食いとめたが、日没前、ついにささえきれず大いに散乱潰走《かいそう》した。光秀は戦場を脱出した。
いったんは、細川藤孝の旧城である勝竜寺城にのがれたが、さらに近江坂本にむかおうとし、暗夜、城を脱して間道を縫った。従う者、溝《みぞ》尾《お》庄兵衛以下五、六騎である。大亀谷をへて桃山高地の東裏の小《お》栗《ぐる》栖《す》の里《さと》にさしかかった。このあたりは竹藪《たけやぶ》が多い。里はずれの藪の径《みち》を通りつつあったとき、光秀はすでに手綱を持ちきれぬまでに疲労しきっていた。
「小野の里は、まだか」
小声でいったとき、風が鳴り、藪の露が散りかかった。
不意に、光秀の最《さい》期《ご》がきた。左腹部に激痛を覚え、たてがみをつかんだ。が、すぐ意識が遠くなった。
「殿っ」
と溝尾庄兵衛がわめきつつ駈けよってきたとき、光秀の体は鞍《くら》をはなれ、地にころげ落ちた。槍《やり》がその腹をつらぬいていた。藪のなかにひそんでいたこのあたりの土民の仕業であった。
 幽斎細川藤孝は、このときなお丹後宮津城にあり、この戦闘には参加していない。
戦後ほどなく丹後から上洛し、本能寺の焼けあとに仮屋を設け、京の貴顕紳商をよび、信長追善のための百韻連歌の会を興行した。
この日、光秀を粟田口に出迎えた公卿たちの過半はこの連歌会に参加してきたし、むろんそのなかに連歌師紹巴《しょうは》もまじっていた。
このときの追善連歌が遺《のこ》っている。
墨染の夕《ゆうべ》や名残《なご》り袖《そで》の露   幽斎
魂《たま》まつる野の月のあき風   道澄
分け帰る道の松虫音《ね》に啼《な》きて 紹巴
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