深夜、午前零時をまわったころ、美由紀は埼玉県菖蒲町の田畑に延びるあぜ道に、パトカーを走らせていた。
川越街道のいたるところに検問があることは予測できたため、それに並行する生活道路や道なき道を進んだために時間がかかった。とはいえ、パトカーのナビゲーションは便利だ。一般に発売されているものより道路情報が細かく表示されることを、美由紀は初めて知った。とりわけ信号の待ち時間のカウントダウン表示が重宝する。
そのナビゲーションが告げた。「目的地周辺です。案内を終了します」
美由紀はパトカーを停めた。
菖蒲町大字有川二三一二、メッセージに記された住所に着いた。ナビ画面によれば周囲には天王山塚古墳があるだけで、あとは森林と田畑ばかりだ。
パトカーを降りて外にでる。コヤシのにおいが鼻をついた。都内とは段違いに気温が低い。夏なのを忘れてしまいそうだ。
あぜ道沿いに金網が張ってあるが、その向こうは広大な畑だ。真ん中に工場のような建物があって、明かりはついている。けれども、フェンスに掲げられた看板は製本所とは無縁のものだった。(株)オニオンフーズ埼玉菖蒲町工場。
オニオン。あのノウレッジ出版の男によれば、タマネギが大量にある場所だといっていた。
金網をよじ登って、その向こう側に降り立つ。畑に侵入した。暗闇に目を凝らすと、ミドリいろの植物がすべて倒伏している。
その植物を一本握りしめて、土から引き抜いた。
やはりタマネギだった。よく育っている。収穫の時期ということだろう。
タマネギはほとんどが北海道で生産されるはずだが、関東でもわざわざ気温の低いこの辺りにタマネギ畑を作った理由はなんだろう。ただのカモフラージュとしては異質で、目立つようにも思える。
姿勢を低くしながら工場に向かって走った。しだいに機織《はたおり》機のような騒々しい音が耳に入ってくる。
大きなトラックが何台も停めてあるが、荷台部分に屋根はなく、積荷もなかった。食品を運ぶものではなさそうだった。
接近すると、工場棟はわりと新しいプレハブ建築で、かなりの体積があった。
警備員らしき制服姿の男がうろついている。通り過ぎるのを待ってから、美由紀は大きく開いた車両出入り口に駆けこんでいった。
工場の内部は広大なわりに、ひとけはなかった。ただし、生産ラインは稼働中だった。
印刷機に製本機。コンベアーで次々に運ばれてくる書籍に、巻き取りフィルムが上下からでてきて包装し、電熱で溶着されパッキングされる。
一冊ずつビニールでくるむとは手間がかかっている。ラインによってハードカバーから雑誌まで、あらゆる本が印刷、製本されていた。
雑誌を手にとった。週刊インシデント。それも創刊号だった。作りとしては、ゴシップ好きな写真週刊誌そのものだ。
だが美由紀は、表紙の見出しに気になる記載を見つけた。
隅田川花火大会、大爆発事故の秘められた事実。そうあった。
包装を破って開いた。花火大会の事故など聞いたことはない。というより、今年の隅田川花火大会はまだこれからだ。
グラビアページには何枚かの写真つきで、その記事が大きく扱われていた。文章にざっと目を通す。
今年七月末に起きた隅田川花火大会の大惨事は、日本ばかりか世界をも震撼《しんかん》させたが……。
まだ実施されていない花火大会の記事、それも悲劇を予兆したかのような文面。未来のニュースが載った雑誌か。ありえない話だ。
これにはなにか裏がある。あとで詳しく読んでみるべきだろう。美由紀は雑誌を丸めて、デニムの尻《しり》ポケットにねじこんだ。
いまはこの奇怪な製本施設の全容を知りたい。そう思って、ラインの奥へと歩を進めていく。
印刷機に近づくと、フィーダーから供給された紙にページごとのグラビアが印刷されていた。北朝鮮の兵器類の写真とイラストが載ったページもある。『ダリス』誌だろう。
妙だった。たしかに胡散臭《うさんくさ》い印刷物ばかりではあるが、わざわざこんな田舎に製本所を隠す必要はないはずだ。ノウレッジ出版の企業規模からいえば、この施設は金がかかりすぎているようにも思える。
活字の本を印刷する機械に近づいたとき、またしてもちぐはぐな設備を目にした。
フォークリフトで運ばれてきたらしい大量のタマネギがコンテナに山積みになっていて、食品を加工するらしい円筒形の炉が設置してある。そこから延びたゴムホースが、ガラスの容器に液体を溜《た》めこみ、さらにサイフォン式の管でインクと混合されて、印刷機に運ばれているようだった。
容器の金属製の蓋《ふた》をはずして、においを嗅《か》いだ。熱風とともに、なんともいえない強烈な香りがたちこめる。
と同時に、美由紀のなかにひとつの考えが浮かんだ。なるほど、そういうことか。
突拍子もない思いつきだが、牛肉の挽肉《ひきにく》の中に豚肉を混ぜたり、黒ずんだ肉に血液を混ぜて色を変える食肉業者がいる世の中だ。それらに比べれば、さほど浮世離れした犯罪ではない。
ふいに背後で男の声がした。「なにをしている」
びくっとして振りかえる。
辺りには、十数人の男たちがいた。そのほとんどが警備員、何人かアジア系外国人の労働者たちの姿もあった。
声を発したのは、黄色いヘルメットを被《かぶ》った体格のいい男だった。ひとりだけチェックのシャツにジーパン姿だった。
美由紀はきいた。「あなたが管理責任者?」
「工場長の衛藤《えとう》だ」と男はいった。「誰だおまえは。どこから入った」
「さあね。ノウレッジ出版のやってることに興味があって来てみれば、とんでもない光景を目にしちゃったってとこかしら」
「なんだと?」
外国人労働者たちは、怯《おび》えたように身を屈《かが》ませて後ずさっている。
やせ細った彼らが、ここで奴隷のごとく虐げられて労働を強制されているのはあきらかだった。実際、こんな時刻まで工場を運転していること自体、労働基準法に違反している。
「泣けるわね」美由紀は皮肉をこめていった。「タマネギから抽出した硫化アリルを混入させたインクで『夢があるなら』を刷ってるなんてね。この製本ラインを見るかぎり、硫化アリル入りインクで印刷してるページは二百五十ページ以降ってことね。不治の病にかかった少女が息も絶えだえになる……そのあたりね。これが泣ける本のからくりってわけ」
衛藤が目を光らせた。「女。無事に帰りたかったら、何も見なかったことにしておけ」
「どうして? こんなアンフェアは世間に広く公言すべきでしょ。タマネギを切ると涙がでる、その原因となる成分がページに染みこんでいれば、ページを開いたときに泣ける。安直な発想だけど、数回にわたって効力があるでしょうね」
「ふん。そんな馬鹿げた話を本気にする奴がいると思うか?」
「ええ。基礎涙、反射性涙とは異なって、感情性の涙がなぜ出るのかはまだ科学的には解明されてない。悲しいときに泣く理由はまだ明らかじゃないの。だから『夢があるなら』を読み進んで、終盤にさしかかって涙腺《るいせん》が緩みだしたとき、読者はその理由を自己分析できない。物理的要因と気づくことは不可能だから、感動しているんだと思いこんでしまう。ガムを噛《か》みながら読むと泣けないって噂は本当だったのね。タマネギを切るときも、ガム噛んでれば涙でないし」
「小難しいことをよく知ってるな。あいにく俺は不勉強なんで、なんの話かさっぱりわからんが」
「そうでもないでしょう? 表情を見れば図星だってわかるもの。インチキな本で話題を呼んで、三百万部も売って、そのお金で写真週刊誌を大々的に立ち上げようとしてる。隅田川花火大会の爆発事故って何? 前もって印刷してあるところをみると、事故が起きることを知ってるみたいね。他社を出し抜いていち早く報道すれば売り上げ部数は大きく伸びる。考えていることがせこいわね」
「そうとう嗅ぎまわったみたいだな」衛藤は袖《そで》をまくり、太い二の腕をのぞかせた。「どうやら痛い目に遭わんとわからんらしい」
「それは」美由紀は冷ややかにいった。「あなたたちでしょ?」
「ほざけ!」と衛藤の拳《こぶし》が唸《うな》りをあげて美由紀の顔面に迫った。
だが美由紀は身を退《ひ》いてそれをかわし、太極|腿《たい》の低い蹴《け》りで衛藤の片脚のふくらはぎを蹴って、ひざまずかせた。
愕然《がくぜん》とした衛藤の顔に、美由紀は容赦なく手刀を振り降ろした。弾《はじ》けるような音とともに、衛藤は床に叩《たた》きつけられた。
警備員たちが腰の警棒を引き抜き、いっせいに襲い掛かってきた。
躊躇《ちゆうちよ》なく攻撃的姿勢をしめすあたり、まともな警備会社から派遣された人員ではないのだろう。かえって好都合だと美由紀は思った。おかげで手加減せずに済む。
真っ先に警棒を振りあげて襲ってきた男に、美由紀は独脚法で鍛えたハイキックを浴びせた。踵《かかと》をもろに顔面に受けた男は蝦反《えびぞ》りになって吹き飛んだ。男の手にしていた警棒が宙に舞う。美由紀は跳躍してそれをつかんだ。
身構えたとき、警備員たちの向こうで戸惑う外国人労働者たちの姿が見えた。
「すぐに逃げて!」美由紀は怒鳴った。「外にパトカーがあるわ。無線マイクを取れば自動的に近隣の警察本部につながる。通報して!」
労働者たちはあわてたようすで戸口に向かって駆けていった。
それを見た警備員たちが、阻止しようと追跡を始める。
だが美由紀は猛然と駆けだし、警備員たちの前にまわりこんだ。「どこへ行く気よ。あなたたちの相手はわたしでしょ?」
「この女」警備員のひとりが突進してきた。「どけ!」
美由紀は警棒を竹刀のごとく腰に構え、居合の袈裟《けさ》斬りに入った。引き抜く動作とともに警備員の胴を打ち、それから頭上に振りかぶって垂直に打ち下ろす。
手に痺《しび》れるような反動を感じた。男は白目を剥《む》いてその場にへたりこんだ。
続々と襲いかかる警備員を四方斬りの要領でなぎ倒していきながら、美由紀は硫化アリルの精製装置の前に舞い戻った。
喧嘩《けんか》を長引かせたところで意味はない。じきに警察が来る。工場は一網打尽にしてほしいが、わたしはまだ捕まる気はない。
警棒をバットのように水平にスイングして、美由紀は力まかせに硫化アリルの入ったガラス容器を打ち砕いた。
粉々になった破片とともに、沸騰状態の液体が辺りに飛び散り、湯気が噴出した。たちまち警備員たちが悲鳴をあげて、警棒を投げ捨て、両手で顔を覆った。
直後に美由紀も、彼らと同じ感覚に襲われた。目が痛い。催涙ガスをまともに食らったときのように、涙がとめどなく流れ落ちる。
気化したタマネギの成分を吸うまいと、美由紀は呼吸をとめて一気にサッシ窓に向かった。肩からタックルするように飛びこみ、ガラスを砕くと、畑のなかに埋もれるように突っ伏した。
ただちに起きあがり、駆けだそうとする。脚に痺れるような痛みがある。またあちこち切ったらしい。傷にはもう慣れた。それより、息苦しさのほうが問題だった。げほげほと咳《せき》こみながら、美由紀は走った。
足がもつれる。目を開けられないせいで、バランス感覚を保つのが難しかった。このままでは警備員に追いつかれてしまう。
ところがそのとき、タイ語で怒鳴る男の声が聞こえた。「来い!」
涙をぬぐいながら目を開けると、トラックの荷台いっぱいにひしめきあった労働者たちが、美由紀にしきりに手を振っていた。
エンジン音がする。むろん、ドライバーも労働者のひとりだろう。いま逃亡を図るのに、これほど便利なしろものはない。
トラックに向かって駆けていくと、男たちが手を差し伸べてきた。「気をつけて!」
その手をつかむと、美由紀の身体は荷台の上に引きあげられた。
すぐさま、トラックは走りだした。畑の上を激しく振動しながら前進し、金網に衝突していった。
派手な音をたててフェンスを突き破り、トラックはあぜ道にでた。
労働者たちが歓声をあげる。彼らの仲間が運転しているらしいパトカーの先導で、トラックは工場から遠ざかった。
ようやく、目のほうが落ち着いてきた。美由紀は安堵《あんど》とともにいった。「ありがとう」
男たちは口々に、笑いながら告げてきた。「どういたしまして」
美由紀は思わず苦笑した。彼らを助けに来たはずなのに、いつの間にか立場が逆転している。
これにはなにか裏がある。あとで詳しく読んでみるべきだろう。美由紀は雑誌を丸めて、デニムの尻《しり》ポケットにねじこんだ。
いまはこの奇怪な製本施設の全容を知りたい。そう思って、ラインの奥へと歩を進めていく。
印刷機に近づくと、フィーダーから供給された紙にページごとのグラビアが印刷されていた。北朝鮮の兵器類の写真とイラストが載ったページもある。『ダリス』誌だろう。
妙だった。たしかに胡散臭《うさんくさ》い印刷物ばかりではあるが、わざわざこんな田舎に製本所を隠す必要はないはずだ。ノウレッジ出版の企業規模からいえば、この施設は金がかかりすぎているようにも思える。
活字の本を印刷する機械に近づいたとき、またしてもちぐはぐな設備を目にした。
フォークリフトで運ばれてきたらしい大量のタマネギがコンテナに山積みになっていて、食品を加工するらしい円筒形の炉が設置してある。そこから延びたゴムホースが、ガラスの容器に液体を溜《た》めこみ、さらにサイフォン式の管でインクと混合されて、印刷機に運ばれているようだった。
容器の金属製の蓋《ふた》をはずして、においを嗅《か》いだ。熱風とともに、なんともいえない強烈な香りがたちこめる。
と同時に、美由紀のなかにひとつの考えが浮かんだ。なるほど、そういうことか。
突拍子もない思いつきだが、牛肉の挽肉《ひきにく》の中に豚肉を混ぜたり、黒ずんだ肉に血液を混ぜて色を変える食肉業者がいる世の中だ。それらに比べれば、さほど浮世離れした犯罪ではない。
ふいに背後で男の声がした。「なにをしている」
びくっとして振りかえる。
辺りには、十数人の男たちがいた。そのほとんどが警備員、何人かアジア系外国人の労働者たちの姿もあった。
声を発したのは、黄色いヘルメットを被《かぶ》った体格のいい男だった。ひとりだけチェックのシャツにジーパン姿だった。
美由紀はきいた。「あなたが管理責任者?」
「工場長の衛藤《えとう》だ」と男はいった。「誰だおまえは。どこから入った」
「さあね。ノウレッジ出版のやってることに興味があって来てみれば、とんでもない光景を目にしちゃったってとこかしら」
「なんだと?」
外国人労働者たちは、怯《おび》えたように身を屈《かが》ませて後ずさっている。
やせ細った彼らが、ここで奴隷のごとく虐げられて労働を強制されているのはあきらかだった。実際、こんな時刻まで工場を運転していること自体、労働基準法に違反している。
「泣けるわね」美由紀は皮肉をこめていった。「タマネギから抽出した硫化アリルを混入させたインクで『夢があるなら』を刷ってるなんてね。この製本ラインを見るかぎり、硫化アリル入りインクで印刷してるページは二百五十ページ以降ってことね。不治の病にかかった少女が息も絶えだえになる……そのあたりね。これが泣ける本のからくりってわけ」
衛藤が目を光らせた。「女。無事に帰りたかったら、何も見なかったことにしておけ」
「どうして? こんなアンフェアは世間に広く公言すべきでしょ。タマネギを切ると涙がでる、その原因となる成分がページに染みこんでいれば、ページを開いたときに泣ける。安直な発想だけど、数回にわたって効力があるでしょうね」
「ふん。そんな馬鹿げた話を本気にする奴がいると思うか?」
「ええ。基礎涙、反射性涙とは異なって、感情性の涙がなぜ出るのかはまだ科学的には解明されてない。悲しいときに泣く理由はまだ明らかじゃないの。だから『夢があるなら』を読み進んで、終盤にさしかかって涙腺《るいせん》が緩みだしたとき、読者はその理由を自己分析できない。物理的要因と気づくことは不可能だから、感動しているんだと思いこんでしまう。ガムを噛《か》みながら読むと泣けないって噂は本当だったのね。タマネギを切るときも、ガム噛んでれば涙でないし」
「小難しいことをよく知ってるな。あいにく俺は不勉強なんで、なんの話かさっぱりわからんが」
「そうでもないでしょう? 表情を見れば図星だってわかるもの。インチキな本で話題を呼んで、三百万部も売って、そのお金で写真週刊誌を大々的に立ち上げようとしてる。隅田川花火大会の爆発事故って何? 前もって印刷してあるところをみると、事故が起きることを知ってるみたいね。他社を出し抜いていち早く報道すれば売り上げ部数は大きく伸びる。考えていることがせこいわね」
「そうとう嗅ぎまわったみたいだな」衛藤は袖《そで》をまくり、太い二の腕をのぞかせた。「どうやら痛い目に遭わんとわからんらしい」
「それは」美由紀は冷ややかにいった。「あなたたちでしょ?」
「ほざけ!」と衛藤の拳《こぶし》が唸《うな》りをあげて美由紀の顔面に迫った。
だが美由紀は身を退《ひ》いてそれをかわし、太極|腿《たい》の低い蹴《け》りで衛藤の片脚のふくらはぎを蹴って、ひざまずかせた。
愕然《がくぜん》とした衛藤の顔に、美由紀は容赦なく手刀を振り降ろした。弾《はじ》けるような音とともに、衛藤は床に叩《たた》きつけられた。
警備員たちが腰の警棒を引き抜き、いっせいに襲い掛かってきた。
躊躇《ちゆうちよ》なく攻撃的姿勢をしめすあたり、まともな警備会社から派遣された人員ではないのだろう。かえって好都合だと美由紀は思った。おかげで手加減せずに済む。
真っ先に警棒を振りあげて襲ってきた男に、美由紀は独脚法で鍛えたハイキックを浴びせた。踵《かかと》をもろに顔面に受けた男は蝦反《えびぞ》りになって吹き飛んだ。男の手にしていた警棒が宙に舞う。美由紀は跳躍してそれをつかんだ。
身構えたとき、警備員たちの向こうで戸惑う外国人労働者たちの姿が見えた。
「すぐに逃げて!」美由紀は怒鳴った。「外にパトカーがあるわ。無線マイクを取れば自動的に近隣の警察本部につながる。通報して!」
労働者たちはあわてたようすで戸口に向かって駆けていった。
それを見た警備員たちが、阻止しようと追跡を始める。
だが美由紀は猛然と駆けだし、警備員たちの前にまわりこんだ。「どこへ行く気よ。あなたたちの相手はわたしでしょ?」
「この女」警備員のひとりが突進してきた。「どけ!」
美由紀は警棒を竹刀のごとく腰に構え、居合の袈裟《けさ》斬りに入った。引き抜く動作とともに警備員の胴を打ち、それから頭上に振りかぶって垂直に打ち下ろす。
手に痺《しび》れるような反動を感じた。男は白目を剥《む》いてその場にへたりこんだ。
続々と襲いかかる警備員を四方斬りの要領でなぎ倒していきながら、美由紀は硫化アリルの精製装置の前に舞い戻った。
喧嘩《けんか》を長引かせたところで意味はない。じきに警察が来る。工場は一網打尽にしてほしいが、わたしはまだ捕まる気はない。
警棒をバットのように水平にスイングして、美由紀は力まかせに硫化アリルの入ったガラス容器を打ち砕いた。
粉々になった破片とともに、沸騰状態の液体が辺りに飛び散り、湯気が噴出した。たちまち警備員たちが悲鳴をあげて、警棒を投げ捨て、両手で顔を覆った。
直後に美由紀も、彼らと同じ感覚に襲われた。目が痛い。催涙ガスをまともに食らったときのように、涙がとめどなく流れ落ちる。
気化したタマネギの成分を吸うまいと、美由紀は呼吸をとめて一気にサッシ窓に向かった。肩からタックルするように飛びこみ、ガラスを砕くと、畑のなかに埋もれるように突っ伏した。
ただちに起きあがり、駆けだそうとする。脚に痺れるような痛みがある。またあちこち切ったらしい。傷にはもう慣れた。それより、息苦しさのほうが問題だった。げほげほと咳《せき》こみながら、美由紀は走った。
足がもつれる。目を開けられないせいで、バランス感覚を保つのが難しかった。このままでは警備員に追いつかれてしまう。
ところがそのとき、タイ語で怒鳴る男の声が聞こえた。「来い!」
涙をぬぐいながら目を開けると、トラックの荷台いっぱいにひしめきあった労働者たちが、美由紀にしきりに手を振っていた。
エンジン音がする。むろん、ドライバーも労働者のひとりだろう。いま逃亡を図るのに、これほど便利なしろものはない。
トラックに向かって駆けていくと、男たちが手を差し伸べてきた。「気をつけて!」
その手をつかむと、美由紀の身体は荷台の上に引きあげられた。
すぐさま、トラックは走りだした。畑の上を激しく振動しながら前進し、金網に衝突していった。
派手な音をたててフェンスを突き破り、トラックはあぜ道にでた。
労働者たちが歓声をあげる。彼らの仲間が運転しているらしいパトカーの先導で、トラックは工場から遠ざかった。
ようやく、目のほうが落ち着いてきた。美由紀は安堵《あんど》とともにいった。「ありがとう」
男たちは口々に、笑いながら告げてきた。「どういたしまして」
美由紀は思わず苦笑した。彼らを助けに来たはずなのに、いつの間にか立場が逆転している。