花火大会から一か月後、岬美由紀は検察官による公訴を受け、被告人となった。
裁判は東京地裁で、美由紀の回復を待って八月下旬からおこなわれた。
容疑は不法侵入、窃盗、公務執行妨害、傷害など多岐にわたるが、すでに被疑者でなく被告人となってしまった以上、蒲生の出る幕はなかった。
証人として法廷に招かれたその日、蒲生はひさしぶりに美由紀の姿を見た。
美由紀は無言でうつむき、立ち尽くしていた。そこには、あの何物をも恐れぬ大胆不敵さも、強気な面影もなかった。ただ消耗し、疲れ果てたようすのひとりの女がたたずむだけだった。
「蒲生さん」弁護士はいった。「捜査一課の警部補として被告人と行動を共にすることが多かったあなたは、被告人のいわゆる千里眼と呼ばれる能力について、その完全性において揺るぎない信頼を寄せていますね?」
「……ええ、まあ。驚くに足る能力だと常々思ってます」
「被告人のその能力が、捜査の重要なポイントになったことがありますね?」
「そういえることも何度か……」
「異議あり」検察官が声を張りあげた。「弁護側は、被告人のいわゆる千里眼の技能に、あたかも科学的に揺らぎのない実証性があるかのように印象付け、被告人の主観的判断が絶対的な真実に結びつくものとしたがっています。われわれが何度も主張したとおり、被告人はいまや民間人であり、事件性のある事象に対しての捜査権を有しているわけではありません。いわゆる千里眼なる特殊な技能を持ちえているからといって、被告人の超法規的な捜査権を容認できるものではありません」
弁護士はむっとしていった。「被告人のいわゆる千里眼は、過去の事件解決の実績およびそれらの証言から、科学的証拠として充分な信頼がおけるものと考えられます。数学的確率で分析しても、被告人が相手の嘘を見抜くことができる確率は、ポリグラフ検査すなわち嘘発見器のそれを確実にうわまわっております。ポリグラフ検査が昭和四十三年二月八日の最高裁判決で証拠能力があると認定された以上、被告人のいわゆる千里眼能力に関しても同様とみるべきでしょう」
「異議あり! その最高裁の判例は、ポリグラフの検査結果が検査者の技術経験、検査器具の性能に徴《しる》して信頼できるものであることや、検査の経過及び結果を忠実に記録した場合に限るとされている。被告人のいわゆる千里眼は常に、被告人の独断的解釈によってなされるものであり、結論が導きだされる経緯が第三者にとって透明性があるものとはいえない。いわば警察犬による臭気選別を証拠として提出するケースと同じです」
「警察犬の能力も有罪認定の証拠になると認められています。最高裁、昭和六十二年三月三日の判例で」
「その場合も、専門的な知識と経験を有する指導手が捜査を実施することや、能力が優れていると証明されている警察犬を使用すること、臭気の採取および保管の過程や選別の方法に不適切な点がないときに限るとされている。指導手は警察官であり、警察犬もその管理下に置かれていて本来、捜査権を持っているといえる。たとえ被告人のいわゆる千里眼に捜査権を認めることが今後あろうとも、さかのぼって今回の数々の事件を引き起こした事実に免罪の効果が派生するものではない」
「ならば筆跡鑑定は? これは警察が民間の専門家に依頼することもありえるし、きわめて被告人の千里眼の技能に近いと思えるものです。昭和四十一年二月二十一日の判例で、筆跡鑑定は証明力に限界はあるものの、非科学的で不合理であるとはいえず、経験によって裏付けられた判断であるから、証拠能力はありうるとしています」
「だからといって筆跡鑑定の専門家が、犯罪の可能性を嗅《か》ぎつけたからといって他人の家に押し入ったり、抵抗されたからといって暴力を振るったり、パトカーを奪ったりしてもよいという判例はないはずだ。民間の専門家は警察からの捜査協力の依頼があって、はじめて限定的な権限を有する」
弁護士は蒲生に向き直った。「蒲生誠警部補におたずねします。被告人が一連の行動を引き起こすよりも前に、あなたは被告人に捜査の協力を依頼しましたか?」
そのような事実はない。
だが、蒲生は本心を偽ろうと心を決めていた。
過去にも何度かあったことだ。美由紀は常に正しい。俺が証言すれば彼女の正当性が証明される。法を曲げたくはないが、美由紀は世の善悪のレベルを超越した正義感の持ち主だ。彼女を守ってやれなくてどうする。
「はい」と蒲生はいった。「すべては私が被告人に依頼したことです。元自衛官である彼女なら、急を要する場合に容疑者を確保する身体能力を持ち合わせていると考えました。もちろん、いわゆる千里眼の能力というものにも全幅の信頼を置いています」
法廷はざわついた。
美由紀はうつむいたままだった。その表情に深刻な影がさしたように、蒲生には思えた。
「ほう」検察官が目を輝かせた。「ならば被告人にお尋ねしたい。蒲生警部補はいま本当のことを言ってるかね。それとも嘘をついているのか?」
弁護士があわてたようすで怒鳴った。「異議あり。検察側は不当な質問によって証拠能力の有無という論点を……」
「私は弁護側の主張に従って質疑しているだけだ。被告人が主観的に判断することが証拠になるというのなら、いまも絶対的な答えが返ってくるだろう。被告人、答えてください。蒲生警部補は真実を語っているんですか?」
しばらく沈黙があった。
喉《のど》にからむ声で、美由紀はぼそりと告げた。「蒲生さんは、本当のことを言っていません」
蒲生は驚いていった。「おい、美由紀」
「いいんです。……ぜんぶわたしの過ちでした。わたしは犯罪者です」
法廷内は騒然となった。弁護士も面食らったようすで、美由紀を見つめている。
「静粛に」裁判長が告げた。「何人たりともこの場で独善的な判断に走ることは許されない。あなたもですよ、被告人。あなたが有罪かどうかは、われわれが判断することです。日本の法律では、推定無罪といって、何人も有罪と宣告されるまでは無罪と推定されるのです。すなわち、有罪とするからには検察の立証責任を必要とします。それまであなたは、犯罪者ではありません。よく肝に銘じておいてください」
美由紀は黙っていた。小さくうなずいたが、目を伏せただけかもしれない。
「裁判長」検察官がいった。「被告人がこちらの蒲生警部補から捜査協力を求められていたとしても、警察官の有する権限すべてを譲渡できるものではありません。まして、警察官であっても令状なしに家宅捜索はできません。被告人が勝手に防衛省施設に侵入したり、ノウレッジ出版の本社や製本所に立ち入って収集した証拠は、違法に収集されたことになります。違法収集証拠の排除法則に従い、これらは証拠禁止にあたると思いますが」
「検察の異議を認めます」裁判長の声が響き渡った。「刑事訴訟法三一七条は、事実の認定は証拠によると規定しています。自然的関連性があり、法律的関連性があり、証拠禁止にあたらないことが重要です。被告人がたとえ常人をはるかに超える能力の持ち主だったとしても、伝聞証拠、つまり法廷での反対尋問を経ない供述証拠は、原則的に法律的関連性がないとされます。結果として大勢の人命が救われたとはいえ、あらゆる面において、被告人の行動を警察の捜査の代行と位置づけることはできません」
しんと静まりかえった法廷で、弁護士はため息をついて頭をかきむしった。
「蒲生さん」弁護士は低くいった。「ありがとうございました。お席にお戻りください」
一礼して、蒲生は踵《きびす》をかえした。もういちど美由紀に目を向ける。
美由紀は辛《つら》そうな顔でうつむくばかりだった。
今回に限って、どうしたというのだろう。蒲生は思った。こういう裁判は過去にもあった。いつもみずからの信じる正義を優先し、俺の証言による正当化もあるていど是としてきたというのに、なぜ今回は否定したのか。
弁護士は咳《せき》ばらいした。「つづきまして、証人尋問を請求したいと思います。臨床心理士の嵯峨敏也先生をお招きしております」
嵯峨が立ちあがり、証人席に進みでた。表情はやはり硬いものだった。
検察官がすかさずいった。「今度は被告人の責任能力を問おうというのかね。ついいましがた捜査権を主張しておきながら、次は心神喪失状態だったのであらゆる行為に責任がなかったと?」
「そうです」弁護士は顔いろひとつ変えなかった。「裁判長。被告人は臨床心理士としても優秀で、きわめて冷静沈着で温厚な態度で知られ、広く相談者《クライアント》の信頼を得ています。しかしながら今回のような暴走に至ったのは、精神面においてなんらかの理由が存在したと考えられます。嵯峨先生は被告人と旧知の間柄でもあり、精神鑑定も重視すべきものになるでしょう」
「しかし」検察官は苦い顔をした。「公私ともに関係がある人物で証人尋問とは。どのような鑑定書があがってくるのかわかりませんが、検察としては鑑定書を証拠とすることに同意はしません。そうすると鑑定書の証拠調べ請求は撤回を余儀なくされるわけですが」
「無駄だからやめたほうがいいとでも? 心外ですな。鑑定書をお読みになってから判断してもらいたいものです」
裁判長は美由紀をじっと見つめた。「被告人は、証人尋問に同意していますか?」
また静寂があった。
美由紀はゆっくりと首を横に振った。
「わたしは……。情状酌量をしてほしいとは思っていません。やはり罪を犯したと思っています。刑罰を受ける覚悟です」
嵯峨が険しい顔をした。「なんでそんなことをいうんだ、美由紀さん? きみなりに正しいと思って行ったことだろう?」
「わからない……」美由紀は泣きそうな声でつぶやくと、顔に手をやった。「突然に頭に血が昇って……。あんなことすべきじゃなかった。相手の不正に気づいたとしても、もっと理性的な行動をとるべきだったのに……。どうしても相手が許せなくなった。その連続だったんです。わたしは冷静じゃなかった」
戸惑いが法廷のなかを支配していた。
蒲生は息を呑《の》んだ。あそこまで暴走した美由紀も初めてなら、こんな弱気な美由紀もかつて目にしたことがない。
検察官がいった。「裁判長。さきほどから被告人は、罪を認めているようですが」
だがそのとき、荒々しい男の声が告げた。「しつけえな。有罪か無罪かは判決までわからねえって言ってるだろ」
傍聴席がざわついて、後方を振りかえった。蒲生も後ろの席に視線を向けた。
サングラスをかけ、Tシャツからたくましい二の腕をのぞかせた伊吹直哉が、通路をつかつかとやってくる。
伊吹はいった。「おい美由紀。さっきから聞いてりゃなんだ。どうしておまえを助けてくれようとしている味方の援護まで台無しにしちまうんだよ。暴走行為よりもずっと身勝手で迷惑だ。そこんとこ判ってんのか」
警備員があわてたように通路に躍りでる。傍聴席は喧騒《けんそう》に包まれた。
「静粛に」裁判長がいった。「騒ぎを起こすと退廷を命じますよ。席に戻ってください」
「美由紀」伊吹は、警備員に押しとどめられても前進しようとした。「防衛政策局の嵩原やら、オヤジどもの出会い系サイトに情報売ってたウェイターやら、ノウレッジ出版の奴らが許せなくてやっつけたわけだろ。畔取直子さんって人もすごく感謝してるってきのうのニュースでやってたじゃねえか。おまえはどこも間違っちゃいねえ。そもそも犯罪をのさばらせてるこの国家の司法なんか信用できねえんだ。どうみたっておまえが正しいんじゃねえか」
蒲生は立ちあがった。「伊吹。よせ」
「やなこった。美由紀、そこにいる検察官の本心とかも顔見りゃわかるんだろ? どうせ保身ばかり図ってる嫌な奴さ。真実がどうあれ、おまえを有罪にできりゃ手柄につながると、それしか考えてねぇ」
検察官は顔を真っ赤にして怒鳴った。「口を慎め! 法廷を侮辱するな!」
「侮辱してるのはあんたらだろ。美由紀が動かなかったら山ほど死人が出て、犯罪者どもはのうのうと生きているところだったんだぞ。少しはそこを理解したらどうなんだ」
「目的のためなら手段を選ばなくていいというのか? 法治国家ではありえんことだ」
「いいや。ありえるね。目的は手段を正当化するんだよ。外国人が侵略してきたらその時点で戦争だから、殺してもいい。俺たちは自衛隊でそう教わってる。じゃなきゃ、俺たちはなんで十八歳から人殺しの訓練を受けてたってんだ?」
傍聴席はもはや混乱状態だった。警備員が次々に押し寄せ、収拾がつかなくなった。
騒然とするなか、裁判長の声がかすかに聞こえてきた。休廷します。被告人は弁護人と充分に話しあっておくように。