日本の古代にあった、歌垣、|かがい《ヽヽヽ》などというものは、さぞ大らかでたのしかったろうと思われる。
「万葉集」にある、かの筑波嶺《つくばね》の歌会《かがい》の歌を見てもあきらかである。
「……筑波の山の 裳羽服津《もはきつ》の その津の上に 率《あども》ひて 未通女《をとめ》・壮士《をとこ》の ゆきつどひ かがふ歌《かがひ》に 人妻に吾《あ》も交はらむ わが妻に他《ひと》も言問《ことと》へ……」とある。
自分も人妻と交歓するから、私の妻も他の男と交歓したらいい、という。
「この山を領《うしは》く神の 昔より禁《いさ》めぬわざぞ」
神もちゃんとみとめ給うた行事で、むしろ神の嘉《よみ》したもうことだという。
酒を飲み(飲酒は古代ではたいせつな神事の一部である)歌をうたって悪霊を払い、相つどうて男も女も交歓する、実にノビノビした性の開放である。
その風習がのちにのこって、諸国に伝わったのが、「ツト入り」であろう。
「ツト入り」というのは、旧暦七月十六日の夜は、どこの家へでも勝手に、つっとはいっていって、そこの女たちと交歓することだそうだ。
あるいは、地方によると、氏神の祭礼の夜に限り自由な交歓をゆるされるとか、ある神社ではまた、神事の行われる真夜中、定まった時刻に、部落中いっせいに灯を消し、戸をあけ放ち、その夜だけは自由に通じ合うとか、また、ある神社の祭礼の夜は、女はかならず三人の男と交歓せねばならぬことになっていて、老醜の女はなかなかノルマが消化しきれず、義務を果せないで、煩悶したそうである。
それ、どこだす? とカモカのおっちゃんなら、あわててヒザを乗り出して聞くであろうが、おっちゃんにとって残念なことに、これらはみんな、たいそう古い話で、現代では行われていない。近代でも明治初年までである。
よしんば仮りに、おそろしい辺陬《へんすう》の地に、のこっているとしても、部落内の行事として秘め、他国者が入り交ったとて排斥されるのがオチ、いまの世では、すでに見果てぬ夢になってしまったのだ。
いや、今でも、夫婦交換パーティだ、乱交パーティだと、あるではないか、という人もあろう。しかし、そういうのは勝手にしているのだから、有難みがうすい。
いったい、セックスの刺戟は、度を深めれば深めるほど、底なしにおちてゆくのが、本質ではなかろうか? ゆきつくところは性の頽廃にすぎない。
乱交パーティといい、交換パーティといい、そういうことを経験してのちの恋人なり夫婦なりが、以前よりも仲むつまじくなるということが、ほんとにあるのだろうか? 実験者の報告によれば、そうなっている。たいてい、「以前にはなかったフレッシュな感じで、妻(又は恋人)との仲もいっそう深く強く結ばれた気がします」などといっている(私はそんな記事を読むのがだいすきである)。
あるいはそうかもしれないし、あるいはまた、書く人のつくりごとかもしれへん。
またあるいは、その当座、刺戟を受けたので、強い暗示をうけて錯覚を信じこんだのかもしれない。
だが、それで止《とど》まるとは私には思えない。そこまでいくのが、夫婦や恋人の愛情復活の手段とは思えない。それが更にあたらしい目的を生み、果てしのない世界へなだれこんでゆく気がする。
そこから先の世界は、ある種の人間にはたのしむ力は与えられても、ある種の人間には堪えられない、持ち重りのする世界になってしまう。そういう人々を待っているのは破滅だけである。そこへくると歌垣は性質がちがう。
だから凡婦の私が想像できるのは、せいぜい、歌会《かがい》という性の一大饗宴ぐらいである。
「結構ですなあ、やりまほ、いつでも僕はよろし、メンバー集めます」
とカモカのおっちゃんは手に唾していさみたつが、ちゃうねん、ちゃうねん、私のいうてるのは、そんなんちゃうねん。
「どこがちがいます?」
「だって、それやったら、雑魚寝《ざこね》といいますか、乱交《ワイルド》パーティといいますか、『よくあること』じゃないですか」
「ほな、どんなんをいうてるねん」
「だからですね、私は、大昔の、氏神さまや土地の産土《うぶすな》神が生きていられて、人々が神の力をおそれ、つつしんでいたとき、年に一度、今日だけは許されるト、むしろ、神サンが奨励してはるト、いや、却って、それをやらないと神の祟りがあるト、そういう状況のもとでやるのが望ましいのです」
「一緒のこっちゃおまへんか、することは変らへんのやから」
いや、それがちがうのだ。ほんとうはしたくないのだけれど、そういうわけにはいかない、というように、切羽つまってせまられたい。
私はそういう、あさましい、みだらな、言語道断、おそろしい、思いもよらない、コワーイことは、したくない、しようとも思わぬ、できるとも思えない、私は一人だけでも抜けたい、みなさんどうぞご勝手にあそばせ、と私は逃げる、それをみんなが追いかける。
「何ということを、これは厳粛、荘重な神事ですぞ、人間のさかしらな小才やチエで、ちょこまかと判断するようなもんとちがう、神を祭るというおごそかなつとめを、あんた、何と考えてはんねん」
と叱られ、私はそれでも負けず、抵抗をこころみる、
「しかし、ですね。私は『人妻に吾も交はらむ わが妻に他も言問へ……』というような状況は考えられないのでございます、私は、私は……」
「そういう、あさはかなことをいうもんではない、生々発展の人間の生きの命のめでたさ、旺《さか》んな華やぎの奢《おご》りを神がおよろこびになるからこそ、たのしくめでたい媾《まぐわ》いを神に献《ささ》げるのです。一人抜けるとはとんでもない」
長老たちに叱られおどされすかされ、不承不承・イヤイヤ・しぶしぶ・よんどころなく・泣く泣くに、歌垣や歌会、ツト入りに参加する、そういうのが、私は望ましい、何しろ神のため、という大義名分がありますからな。
「それなら、参加します、いやだけれど仕方ない」
おっちゃんはただ一言。
「卑怯者!」