タツナミソウは、その花の形にふさわしく、美しいひびきの名を持っている。
|淡々《あわあわ》とした薄紫いろの小さな花の一つ一つが、基部から起ち上って、やさしい唇をあけ、何か訴えるように、語りかけるように見えるかわいらしさが、昔からひとびとに愛されたのであろうか。コバノタツナミ、ヤマタツナミ、ハナタツナミ、ミヤマナミキ、コナミキ、ヒメナミキと、それらの仲間たちはいずれもやさしい名を与えられている。
早春の三月はじめ、国鉄の湯河原で下車して、新崎川の谷を北に進み、|幕山《まくやま》から南郷山にいった。毎年、夏山に備えて、冬は千メートル前後の低い山で足馴らしをする。この山をえらんだ理由は、相模湾にのぞんで海風をまともに受けるから、どんな花があろうかと期待したこと。学生時代に地理の先生に連れられて、箱根の地質を調べに来たとき、湯河原の奥の大観山、鞍掛山など、箱根火山の古い外輪山は歩いたが、更にその外に出来た側火山の幕山はゆき残してしまったことなどである。
幕山は金時山と共に、二つの山を結ぶ構造線の割れ目に沿ってできたもので、二子山や台ヶ岳と同じように、熔岩円頂丘とよばれる特異な形をしているという。幕山につづいて南郷山があるが、こちらは、多賀火山の北隣にあって、小型の湯河原火山の外輪山である。このあたりで一番古い火山活動を示すのは多賀火山だが、その火口は熱海の錦ヶ浦の沖合にあるという。湯河原はその北の斜面にあり、熱海峠が西の斜面、初島が東の外輪山の斜面となっているという。
太陽系の星たちができたのは四十六億年の昔で、日本列島の歴史は三億年から四億年までさかのぼれるという。いずれを聞いても、ただただ溜息ばかりでるようなはるけき日々の思いだが、この幕山、南郷山界隈は、比較的新らしい歴史の中にその姿をあらわす。鎌倉幕府の記録である『吾妻鏡』に、治承四年八月、三島神社の祭りに乗じて挙兵した源頼朝が、伊豆から北上して石橋山に至り、敗れて幕山周辺の山中を三日もさまよって難渋した記事がのっている。大庭景親を大将とする相模と武蔵の兵は三千。伊豆からは三百の手兵をつれた伊東祐親が追って来て背後を衝く。頼朝の兵は四百。進退極まってほとんど自決せんばかりであったが、二十九日、真鶴岬に辿りついて船に乗ることができた。
関東生まれの人間にとって、京の朝廷からはなれて幕府の成立を見たことは、平将門以来の念願が成就したことでもあり、長い流人の生活から起ち上った頼朝挙兵の物語りはいつ聞いてもおもしろい。やがては征夷大将軍となれる前途も知らず、乾坤一擲の緒戦に傷ついた傷心の頼朝が、道なき道を求め、樹間の藪に身をかくしたあとをしのぶなら、八月にこそと思ったが、猛烈にヘビのきらいな私とて、早春の、まだ枯れ草いっぱいの頃の山歩きとなった。
温泉郷湯河原も奥に入ると、こんなに閑散としているのかとうれしくなるような谷沿いの道から、幕山登山口の標識のところを右折すると、急な登りがつづく。わずか五、六百メートルの丘と思えないような急峻な斜面には、輝石石英安山岩の白々とした露岩が連なり、登るにつれて、白銀山などがその頂きをあらわして来て、よっぽど深い山に入って来たような気分になった。
一時間あまりで頂上につくと、折からの晴天に、南は十国峠・日金山から玄岳、天城へとつづく山なみが、東には、青一いろの海原に浮ぶ初島が遠く眺められ、頼朝の手兵も夏草の茂みをわけて登って来て、東西南北の位置をたしかめたろうかと思ったりした。
北の急斜面を下りて、前方に盛り上る幕山と同じようなカヤトの頂きの南郷山に向かう。植林らしい杉木立ちを抜けると、背丈を越すハコネダケの密生地帯となり、道幅も狭く、現代でさえ、こんな藪なのだから、頼朝の頃はどんなにか歩きづらかったろうと思われ、両側からおしかぶさるばかりなのを、両手でわけわけ進んだ。道がひどくぬかっていると思ったら、山と山の間の低湿地で、浅い水たまりもあり、自鑑水と案内書にあるものらしい。頼朝もこの水でのどをうるおしたのであろう。まだ芽を出したばかりだが、ツリガネニンジン、レイジンソウ、アザミなどがたくさんある。ギボウシもエビネもあった。カヤトの南郷山の頂きを湯河原ゴルフ場にむかって下り、広い芝生を横切って駅にむかいながら、ゴルフ場をかこむ林の下草にタツナミソウの芽生えをいっぱい見た。花の咲く夏の頃に来たら、花の一つ一つが、頼朝の昔を語ってくれそうな気がした。
|淡々《あわあわ》とした薄紫いろの小さな花の一つ一つが、基部から起ち上って、やさしい唇をあけ、何か訴えるように、語りかけるように見えるかわいらしさが、昔からひとびとに愛されたのであろうか。コバノタツナミ、ヤマタツナミ、ハナタツナミ、ミヤマナミキ、コナミキ、ヒメナミキと、それらの仲間たちはいずれもやさしい名を与えられている。
早春の三月はじめ、国鉄の湯河原で下車して、新崎川の谷を北に進み、|幕山《まくやま》から南郷山にいった。毎年、夏山に備えて、冬は千メートル前後の低い山で足馴らしをする。この山をえらんだ理由は、相模湾にのぞんで海風をまともに受けるから、どんな花があろうかと期待したこと。学生時代に地理の先生に連れられて、箱根の地質を調べに来たとき、湯河原の奥の大観山、鞍掛山など、箱根火山の古い外輪山は歩いたが、更にその外に出来た側火山の幕山はゆき残してしまったことなどである。
幕山は金時山と共に、二つの山を結ぶ構造線の割れ目に沿ってできたもので、二子山や台ヶ岳と同じように、熔岩円頂丘とよばれる特異な形をしているという。幕山につづいて南郷山があるが、こちらは、多賀火山の北隣にあって、小型の湯河原火山の外輪山である。このあたりで一番古い火山活動を示すのは多賀火山だが、その火口は熱海の錦ヶ浦の沖合にあるという。湯河原はその北の斜面にあり、熱海峠が西の斜面、初島が東の外輪山の斜面となっているという。
太陽系の星たちができたのは四十六億年の昔で、日本列島の歴史は三億年から四億年までさかのぼれるという。いずれを聞いても、ただただ溜息ばかりでるようなはるけき日々の思いだが、この幕山、南郷山界隈は、比較的新らしい歴史の中にその姿をあらわす。鎌倉幕府の記録である『吾妻鏡』に、治承四年八月、三島神社の祭りに乗じて挙兵した源頼朝が、伊豆から北上して石橋山に至り、敗れて幕山周辺の山中を三日もさまよって難渋した記事がのっている。大庭景親を大将とする相模と武蔵の兵は三千。伊豆からは三百の手兵をつれた伊東祐親が追って来て背後を衝く。頼朝の兵は四百。進退極まってほとんど自決せんばかりであったが、二十九日、真鶴岬に辿りついて船に乗ることができた。
関東生まれの人間にとって、京の朝廷からはなれて幕府の成立を見たことは、平将門以来の念願が成就したことでもあり、長い流人の生活から起ち上った頼朝挙兵の物語りはいつ聞いてもおもしろい。やがては征夷大将軍となれる前途も知らず、乾坤一擲の緒戦に傷ついた傷心の頼朝が、道なき道を求め、樹間の藪に身をかくしたあとをしのぶなら、八月にこそと思ったが、猛烈にヘビのきらいな私とて、早春の、まだ枯れ草いっぱいの頃の山歩きとなった。
温泉郷湯河原も奥に入ると、こんなに閑散としているのかとうれしくなるような谷沿いの道から、幕山登山口の標識のところを右折すると、急な登りがつづく。わずか五、六百メートルの丘と思えないような急峻な斜面には、輝石石英安山岩の白々とした露岩が連なり、登るにつれて、白銀山などがその頂きをあらわして来て、よっぽど深い山に入って来たような気分になった。
一時間あまりで頂上につくと、折からの晴天に、南は十国峠・日金山から玄岳、天城へとつづく山なみが、東には、青一いろの海原に浮ぶ初島が遠く眺められ、頼朝の手兵も夏草の茂みをわけて登って来て、東西南北の位置をたしかめたろうかと思ったりした。
北の急斜面を下りて、前方に盛り上る幕山と同じようなカヤトの頂きの南郷山に向かう。植林らしい杉木立ちを抜けると、背丈を越すハコネダケの密生地帯となり、道幅も狭く、現代でさえ、こんな藪なのだから、頼朝の頃はどんなにか歩きづらかったろうと思われ、両側からおしかぶさるばかりなのを、両手でわけわけ進んだ。道がひどくぬかっていると思ったら、山と山の間の低湿地で、浅い水たまりもあり、自鑑水と案内書にあるものらしい。頼朝もこの水でのどをうるおしたのであろう。まだ芽を出したばかりだが、ツリガネニンジン、レイジンソウ、アザミなどがたくさんある。ギボウシもエビネもあった。カヤトの南郷山の頂きを湯河原ゴルフ場にむかって下り、広い芝生を横切って駅にむかいながら、ゴルフ場をかこむ林の下草にタツナミソウの芽生えをいっぱい見た。花の咲く夏の頃に来たら、花の一つ一つが、頼朝の昔を語ってくれそうな気がした。