武田久吉さんは、八十代になってなお、よく尾瀬を訪れられたという。
一緒に連れていってあげると言われたのは、亡くなられる何年前であったろうか。法政大学の雑誌で、山の旅、山の花について対談した。
おうちも法政の近くにあり、お庭には山草がいっぱいあるので、是非と誘って下さったが、果せなかったのは終生の恨事である。
尾瀬は沼や原もいいが、そのうち至仏や|燧《ひうち》ヶ岳など、まわりの山に登りたくなるでしょうと言われたが、ようやく至仏に登り得たのは、原や沼に親しむようになってから数年のあとである。
平野長靖さんが、大清水からの自動車道路開発を拒否する運動に殉じて、四十六年十二月、雪の三平峠に、まだ三十六歳の若いいのちを埋めた翌年、告別式には出られなかったので、せめてその霊を悼みたくて、ヤナギランの丘と名づけられた沼山峠の下のお墓に詣でて、その魂の平安を祈った。
帰途、鳩待峠にむかって沼のほとりを過ぎ、白砂乗越を下り、幾つもの流れをわたりながら原を横切ってくると、眼の前に空を被うようにして至仏が大きくせり上って来た。
ミズバショウがようよう白い苞をひらき、タテヤマリンドウやショウジョウバカマがわずかに花を見せていて、人里では初夏だが、尾瀬はようやく早春の趣きをあらわしはじめた頃である。
もうすぐミツガシワの花が咲くだろう。まわりの山にチシマザクラもタムシバもムラサキヤシオも咲く。ヒツジグサもオゼコウホネももうすぐ。ニッコウキスゲもすぐ、ヒオウギアヤメもカキツバタもチングルマもと数えあげてゆくうちに、不意に涙が溢れ上って来た。
——平野長靖さんもそのようにして、毎日花たちの挨拶を待っていたのだ。
幼い三人の子供たちと、年若い恋妻を残して、長靖さんはどんなにか死にたくなかったろうかと思うと、涙は次々溢れて、至仏が霞んで見えなくなった。しかしまた、至仏は、私の行先にどっしりとおちついて、悠久な自然のいのちの中に、限られた人間のいのちのはかなさを、何も語らずに教えてくれているようであった。
至仏へ登りたいと父君の長英さんに、東京に帰ってたよりを出すと、折返してすぐ同行すると返事があり、ミネウスユキソウがさかりですと書かれてあった。
その前夜、片品温泉へ一泊して、朝五時に鳩待峠につくと、長英夫人靖子さん、長靖未亡人紀子さんの母君も一緒にと待っていて下さった。それぞれにズボンとヤッケ。キャラバン・シューズをはいての、山馴れのした姿であった。
長英さん夫妻は、長靖さんが小屋に入る少し前に、静岡大学生の次男を海に失っている。そして京大出身の長男を山にとられたのである。長英さん自身は数年前に足を痛めた。もう恢復したとはいえ、七十代で、あとにつづく大事な息子たちを先だたせた悲しみは、全身の骨肉を打ちくだかんばかりであったろう。
短歌雑誌を通じて知り合われたのが、交際のはじめであったという夫人も、町の生活を切りはなしての馴れぬ山住いに、辛酸の月日を経て来て、相次いでの愛児の死を迎えなければならなかった。札幌の新聞社時代に長靖さんと同僚であったという紀子さんもまた、町の暮しから、夫君を助けて山に入ったのである。
嫁いだわが娘に仕合わせあれと祈るのは、どこの母親も同じ。長靖さんの死は、紀子さんだけでなくお母さんにも大きな悲嘆であったろう。
三人の悲しみを抱いたひとたちと、至仏への道を歩きながら、何というしずけさ、おだやかさであったろうか。
今は亡い長靖さんが辿った道を、一歩一歩、思い出をかみしめてゆくその足どりや表情は、決して重く暗く沈んではいなかった。軽々と、むしろ明るかった。若い未亡人と遺児たちをまもって、このひとたちは嘆いてばかりはいられないのだと思い、胸が切なかった。
片品川の支流の谷沿いの道には、ササヤブの中にシラネアオイが群生し、頂きにむかう山腹の湿原にはコオニユリ、ハクサンコザクラ、サワオグルマ、ワタスゲなどがいろとりどりに鮮やかである。
露岩がいっぱいある頂上近いところには、ミネウスユキソウもヒナウスユキソウも咲いていた。尾瀬ヶ原を見下したところで昼食をとる。南面した斜面には、タカネニガナ、ミヤマシオガマ、タカネコウゾリナなどが礫の間に咲いていた。薄紫のアズマギクもさかりであった。伊豆の玄岳にたくさんあったのにくらべ、花柄に毛がいっぱい生えている。武田久吉さんが生きておられたら、伊豆と尾瀬のアズマギクのちがいを教えて下さるのにと思った。武田さんは長靖さんの死をどんなに気の毒がられることであろう。
長英さんのお父さんで、燧ヶ岳にはじめて登り、尾瀬に山小屋をつくって、仙人とよばれた長蔵さんは、植物の研究に尾瀬に通われた武田さんのよい先達であったという。
——長靖さんは死んではおりません。尾瀬の山に、尾瀬の沼に生きていますよ。
武田さんは、あの若々しい声でそうおっしゃるにちがいないとも思った。
一緒に連れていってあげると言われたのは、亡くなられる何年前であったろうか。法政大学の雑誌で、山の旅、山の花について対談した。
おうちも法政の近くにあり、お庭には山草がいっぱいあるので、是非と誘って下さったが、果せなかったのは終生の恨事である。
尾瀬は沼や原もいいが、そのうち至仏や|燧《ひうち》ヶ岳など、まわりの山に登りたくなるでしょうと言われたが、ようやく至仏に登り得たのは、原や沼に親しむようになってから数年のあとである。
平野長靖さんが、大清水からの自動車道路開発を拒否する運動に殉じて、四十六年十二月、雪の三平峠に、まだ三十六歳の若いいのちを埋めた翌年、告別式には出られなかったので、せめてその霊を悼みたくて、ヤナギランの丘と名づけられた沼山峠の下のお墓に詣でて、その魂の平安を祈った。
帰途、鳩待峠にむかって沼のほとりを過ぎ、白砂乗越を下り、幾つもの流れをわたりながら原を横切ってくると、眼の前に空を被うようにして至仏が大きくせり上って来た。
ミズバショウがようよう白い苞をひらき、タテヤマリンドウやショウジョウバカマがわずかに花を見せていて、人里では初夏だが、尾瀬はようやく早春の趣きをあらわしはじめた頃である。
もうすぐミツガシワの花が咲くだろう。まわりの山にチシマザクラもタムシバもムラサキヤシオも咲く。ヒツジグサもオゼコウホネももうすぐ。ニッコウキスゲもすぐ、ヒオウギアヤメもカキツバタもチングルマもと数えあげてゆくうちに、不意に涙が溢れ上って来た。
——平野長靖さんもそのようにして、毎日花たちの挨拶を待っていたのだ。
幼い三人の子供たちと、年若い恋妻を残して、長靖さんはどんなにか死にたくなかったろうかと思うと、涙は次々溢れて、至仏が霞んで見えなくなった。しかしまた、至仏は、私の行先にどっしりとおちついて、悠久な自然のいのちの中に、限られた人間のいのちのはかなさを、何も語らずに教えてくれているようであった。
至仏へ登りたいと父君の長英さんに、東京に帰ってたよりを出すと、折返してすぐ同行すると返事があり、ミネウスユキソウがさかりですと書かれてあった。
その前夜、片品温泉へ一泊して、朝五時に鳩待峠につくと、長英夫人靖子さん、長靖未亡人紀子さんの母君も一緒にと待っていて下さった。それぞれにズボンとヤッケ。キャラバン・シューズをはいての、山馴れのした姿であった。
長英さん夫妻は、長靖さんが小屋に入る少し前に、静岡大学生の次男を海に失っている。そして京大出身の長男を山にとられたのである。長英さん自身は数年前に足を痛めた。もう恢復したとはいえ、七十代で、あとにつづく大事な息子たちを先だたせた悲しみは、全身の骨肉を打ちくだかんばかりであったろう。
短歌雑誌を通じて知り合われたのが、交際のはじめであったという夫人も、町の生活を切りはなしての馴れぬ山住いに、辛酸の月日を経て来て、相次いでの愛児の死を迎えなければならなかった。札幌の新聞社時代に長靖さんと同僚であったという紀子さんもまた、町の暮しから、夫君を助けて山に入ったのである。
嫁いだわが娘に仕合わせあれと祈るのは、どこの母親も同じ。長靖さんの死は、紀子さんだけでなくお母さんにも大きな悲嘆であったろう。
三人の悲しみを抱いたひとたちと、至仏への道を歩きながら、何というしずけさ、おだやかさであったろうか。
今は亡い長靖さんが辿った道を、一歩一歩、思い出をかみしめてゆくその足どりや表情は、決して重く暗く沈んではいなかった。軽々と、むしろ明るかった。若い未亡人と遺児たちをまもって、このひとたちは嘆いてばかりはいられないのだと思い、胸が切なかった。
片品川の支流の谷沿いの道には、ササヤブの中にシラネアオイが群生し、頂きにむかう山腹の湿原にはコオニユリ、ハクサンコザクラ、サワオグルマ、ワタスゲなどがいろとりどりに鮮やかである。
露岩がいっぱいある頂上近いところには、ミネウスユキソウもヒナウスユキソウも咲いていた。尾瀬ヶ原を見下したところで昼食をとる。南面した斜面には、タカネニガナ、ミヤマシオガマ、タカネコウゾリナなどが礫の間に咲いていた。薄紫のアズマギクもさかりであった。伊豆の玄岳にたくさんあったのにくらべ、花柄に毛がいっぱい生えている。武田久吉さんが生きておられたら、伊豆と尾瀬のアズマギクのちがいを教えて下さるのにと思った。武田さんは長靖さんの死をどんなに気の毒がられることであろう。
長英さんのお父さんで、燧ヶ岳にはじめて登り、尾瀬に山小屋をつくって、仙人とよばれた長蔵さんは、植物の研究に尾瀬に通われた武田さんのよい先達であったという。
——長靖さんは死んではおりません。尾瀬の山に、尾瀬の沼に生きていますよ。
武田さんは、あの若々しい声でそうおっしゃるにちがいないとも思った。