芭蕉が、出羽三山に登ったのは旧暦の六月はじめだから、ちょうど七月五日に東京をたった私たち一行と同じ頃である。
「行春や鳥啼魚の目は泪」とあって、都を出たのは春の終り。「前途三千里の思ひ胸にふさかりて幻のちまたに離別の泪をそそぐ」などと、感無量の出発であったのにくらべると、私たちは前夜、新宿駅前を夜の九時にバスで出発。明け方の四時には、羽黒山の二千二百段の石段の下に到着した。
有難や雪をかほらす南谷
涼しさやほの三日月の羽黒山
江戸から北に、日光、那須、白河、松島、平泉、尾花沢と長い旅路を重ねて来て、芭蕉は羽黒山の鬱蒼とした杉木立ちの中に身をおいた時、言い知れぬ安堵感に浸されたのではないだろうか。その句のゆとりある気持ちがよくでている。羽黒山は葉黒山であろうと言われている。先ず眼に入ったのは、樹齢三百年から五百年と言われる杉の大樹の林立である。互いに枝をさしかわして暁の空を被い、その深々とした姿に、徹夜バスの疲れが一度に拭われた。
羽黒山は平安から鎌倉にかけて山伏修験のもっとも盛んな時期を迎え、南北朝時代には、吉野金峰山に協力して南朝方のために働いた。山伏姿の修験者は、敵の情勢をさぐる役目を果したのである。
「山形県総合学術調査会」の報告によれば、明治初年の神仏分離が行なわれるまでは、山内には百十三の堂舎があったが、排仏毀釈の方針によって、八十五棟が破壊されてしまったという。
伯耆大山や戸隠にいっても、そうした悲劇を聞かされたが、作業に当ったひとびとはどんな心境でいたのだろうか。たしかに神仏混淆という発想は、宗教を政治的に処理した気配があって、あまりすっきりした話ではないと私は思っている。しかし、もともと日本人の宗教心は漠然とした自然信仰であって、対象は神でも仏でもよく、神経質に、せっかく歴史のあとを残している堂塔を破壊することはなかったと思う。
建物の破壊や、寺を神社と言いなおしての純粋神道促進主義が、どこまで民衆の生活に定着したか知らないが、私には、出羽三山、鳥海山といえば、心に残る強い印象がある。
数年前に、水道橋の能楽堂で、山形県東田川郡の黒川に五百年の伝統を伝える黒川能の演じられるのを見た。中央の能のように、観賞能として洗練されたものでなく、あくまでも、神事能として存立して来たことが、演者たちの拝礼のかたちや、熱意こもる演能のはしばしにもあらわれていて、そこには、演劇が、神にささげられるものとして発達して来たという意義が脈々として息づいているように思われて感動した。黒川は、はるか北に鳥海山を、南に出羽三山を仰ぎ見る位置にある。
中世に於ける地頭の武藤家や、徳川期の大名酒井家の保護によって、春日神社に奉納されるその演能がつづけられたというけれど、すでにそれ以前から、山々に住む神へのつつましい信仰が、それらの村に住むひとの心に根づいていればこそと思わずにいられなかった。
菅原伝作氏は、鳥海山麓の村々には、山伏修験者たちによって、番楽とよばれる舞曲が伝えられ、遊佐町にあってはいまも比山番楽として、演じられているという。これも娘時代の記憶に、九段の能楽堂へ観にいったことがあり、その素朴で幽玄な舞いに感じ入って、一生懸命スケッチして来たものを持っている。番楽には黒川能より古い歴史があり、上代の昔から火を噴きつづけて来た鳥海山を神として畏怖して来た心が、舞いの形におさめこまれたものであろう。
これらの山々にかこまれたあたりは、庄内平野とよばれる米どころである。米つくりに欠かせない水は山々の峰から流れ落ちてくる。早くから山はひとびとにいのちの源を与えてくれる崇高なものとする思いが育っていったのであろう。
月山や鳥海山には長く女人禁制の戒めがあったが、羽黒山には女も登ることができたという。その石段はいかにも女の足にふさわしくゆるやかにつけられていて、山頂まで一・七キロ、杉並木の間から不動堂、護摩堂、普賢堂、五重塔などの古色床しい建物を仰いでゆく道のかたわらには、ミヤマヨメナの薄紫の花がいっぱい咲いていた。ツルアリドオシの白く小さい花の外は、すべてヨメナと言いたい程の群生で、杉の木の男性的な樹間を埋めて、いかにも女らしい姿であった。
「行春や鳥啼魚の目は泪」とあって、都を出たのは春の終り。「前途三千里の思ひ胸にふさかりて幻のちまたに離別の泪をそそぐ」などと、感無量の出発であったのにくらべると、私たちは前夜、新宿駅前を夜の九時にバスで出発。明け方の四時には、羽黒山の二千二百段の石段の下に到着した。
有難や雪をかほらす南谷
涼しさやほの三日月の羽黒山
江戸から北に、日光、那須、白河、松島、平泉、尾花沢と長い旅路を重ねて来て、芭蕉は羽黒山の鬱蒼とした杉木立ちの中に身をおいた時、言い知れぬ安堵感に浸されたのではないだろうか。その句のゆとりある気持ちがよくでている。羽黒山は葉黒山であろうと言われている。先ず眼に入ったのは、樹齢三百年から五百年と言われる杉の大樹の林立である。互いに枝をさしかわして暁の空を被い、その深々とした姿に、徹夜バスの疲れが一度に拭われた。
羽黒山は平安から鎌倉にかけて山伏修験のもっとも盛んな時期を迎え、南北朝時代には、吉野金峰山に協力して南朝方のために働いた。山伏姿の修験者は、敵の情勢をさぐる役目を果したのである。
「山形県総合学術調査会」の報告によれば、明治初年の神仏分離が行なわれるまでは、山内には百十三の堂舎があったが、排仏毀釈の方針によって、八十五棟が破壊されてしまったという。
伯耆大山や戸隠にいっても、そうした悲劇を聞かされたが、作業に当ったひとびとはどんな心境でいたのだろうか。たしかに神仏混淆という発想は、宗教を政治的に処理した気配があって、あまりすっきりした話ではないと私は思っている。しかし、もともと日本人の宗教心は漠然とした自然信仰であって、対象は神でも仏でもよく、神経質に、せっかく歴史のあとを残している堂塔を破壊することはなかったと思う。
建物の破壊や、寺を神社と言いなおしての純粋神道促進主義が、どこまで民衆の生活に定着したか知らないが、私には、出羽三山、鳥海山といえば、心に残る強い印象がある。
数年前に、水道橋の能楽堂で、山形県東田川郡の黒川に五百年の伝統を伝える黒川能の演じられるのを見た。中央の能のように、観賞能として洗練されたものでなく、あくまでも、神事能として存立して来たことが、演者たちの拝礼のかたちや、熱意こもる演能のはしばしにもあらわれていて、そこには、演劇が、神にささげられるものとして発達して来たという意義が脈々として息づいているように思われて感動した。黒川は、はるか北に鳥海山を、南に出羽三山を仰ぎ見る位置にある。
中世に於ける地頭の武藤家や、徳川期の大名酒井家の保護によって、春日神社に奉納されるその演能がつづけられたというけれど、すでにそれ以前から、山々に住む神へのつつましい信仰が、それらの村に住むひとの心に根づいていればこそと思わずにいられなかった。
菅原伝作氏は、鳥海山麓の村々には、山伏修験者たちによって、番楽とよばれる舞曲が伝えられ、遊佐町にあってはいまも比山番楽として、演じられているという。これも娘時代の記憶に、九段の能楽堂へ観にいったことがあり、その素朴で幽玄な舞いに感じ入って、一生懸命スケッチして来たものを持っている。番楽には黒川能より古い歴史があり、上代の昔から火を噴きつづけて来た鳥海山を神として畏怖して来た心が、舞いの形におさめこまれたものであろう。
これらの山々にかこまれたあたりは、庄内平野とよばれる米どころである。米つくりに欠かせない水は山々の峰から流れ落ちてくる。早くから山はひとびとにいのちの源を与えてくれる崇高なものとする思いが育っていったのであろう。
月山や鳥海山には長く女人禁制の戒めがあったが、羽黒山には女も登ることができたという。その石段はいかにも女の足にふさわしくゆるやかにつけられていて、山頂まで一・七キロ、杉並木の間から不動堂、護摩堂、普賢堂、五重塔などの古色床しい建物を仰いでゆく道のかたわらには、ミヤマヨメナの薄紫の花がいっぱい咲いていた。ツルアリドオシの白く小さい花の外は、すべてヨメナと言いたい程の群生で、杉の木の男性的な樹間を埋めて、いかにも女らしい姿であった。