オクエゾサイシン
室蘭岳は北海道の室蘭市の背後にあって九一一メートル。東にアムイヌプリの七四五メートル、西に八五五メートルと八二五メートルのピークを持つ尾根を連ねている。道南地方は、千島火山帯と、那須火山帯の重なるところで、室蘭岳も北に火口壁と思われる急斜面を持つが、南面はゆるやかな展望の地形となっている。
室蘭へゆく度に、いつか登りたいと思っていた願いが果たされたのは、数年前の六月で、当時は室蘭社会保険所長の滝本幸夫さんと、北海道庁の新技術産業課係長の鈴木和夫さん、室蘭カトリック教会のマイレット神父に、信者の野中由子さん、北海道における山仲間の井原和子さん、町田智津子さんたちのおかげである。
私が室蘭岳に執着したのは、明治六年に二十六歳で来日し、大正四年に六十九歳で台湾で死なれた植物研究家のフォーリー神父が、先ず日本の植物の多種多様性におどろき採集に熱中しはじめたのが、室蘭カトリック教会の司祭になってからであるという。
一九八〇年から九〇年代にかけて、ヨーロッパアルプスやカナディアンロッキーやピレネーを歩いて、私の知ったのは、あちらは量は多いが、日本の方が、高山植物の種類がずっと多いということであった。
北海道は、緯度的にヨーロッパに近く、パリ外国宣教会に属していたフランス人のフォーリー神父にとって、明治半ば以前の北海道は、全く天上の花の楽園とも思えたのではないだろうか。
高山植物の中には、学名でフォーリーの名のつくものが幾つもある。皆、神父の発見命名による。
あまりにも植物に夢中になった神父は、北海道から台湾の布教に任ぜられる。しかしここもまた植物の宝庫なのであった。彼は、教会に戻る時間も惜しく、山の巨木に縄で自分をしばりつけて寝た。そして山蛭におそわれ、山蛭が鼻から脳に入りこんだことで、死なねばならなかったのである。
私は室蘭にまだ、フォーリー神父が見たであろう山の花が残っていると思い、神父をしのんでどうしても登りたかった。
その朝は快晴で、八時に麓について八時十分出発。標高四六〇メートル地点である。ミヤマハンノキやコナラの林の中を進む。ベニバナノイチヤクソウが咲いている。尾瀬にも多かったと思い出す。ギンリョウソウもある。夏鶯の声。小さな沢沿いの道はがんばり岩と書かれた岸壁にぶつかるが、自動車のタイヤを積み重ねた階段が出来ている。大きな火山岩なのであろう。このタイヤ階段のないときは、やっこらさっと岩角に取りつきしがみつきして、シラカバ林にとつづく道に入ったのであろうと思った。
標高七五〇メートルの「休み石」地点までに見たのはハクサンチドリ、ヤマハハコ、オオユキザサ、クルマユリなど。ヤマトリカブト、ベンケイソウなどもあって、ここも花の山だな、でも茂りに茂るクマザサが、花たちを大分おしのけたかもしれない、フォーリー神父の時代はどうであったろうと想像しつつ、一面の木々やクマザサの緑一いろの眺めを楽しむ。うす紅い花がある。ハマナスかと思ったらタカネバラである。北アルプスあたりなら、二千メートル越えなければならぬ花たちが、東京近くで言えば七〇〇メートル前後の高水三山に咲いているということ。やっぱり北海道は低くてもいい花がいっぱい見られて、それが何よりのありがたさと思った。下から電気草刈機械を背負った老人が登って来た。老人と言っても、しっかりとした足つきで、背もピンと伸びている。滝本さんが「ごくろうさま」と挨拶すると、にっこりとわらって首を下げたまま、頂上目指してたのもしい足どりで登ってゆく。滝本さんに聞いた。どういう方? 室蘭にある大会社の新日鉄を定年退職したひとが、独力で室蘭岳の整備に着手し、何百回となく登られてクマザサを伐り払って、だれでも歩ける山にされたのだという。あのタイヤも自分で運んで来て、独力でつけてくれたのだという。
頂上に着くと、そのボランティアで、ふるさとの山を整備した高田昌美さんも休んでいた。年は七十二歳。ゲートボールなどやって勝敗を争うより、他者のためになる仕事をしたかったと言う。すっかり感心させられてしまった。
頂上からの眺めは広大で、すぐ眼の下に室蘭の町がひろがり、その先に海がある。室蘭港がつくられている。
この頂上には又、滝本さんが『北の山の栄光と悲劇』に書かれた札内川の沢で、徒渉中の友が流されようとしたのを助けて、自身流された室蘭工業大学生の井出隆文さんの墓と、北日高で遭難死した同じ大学生の山口雄三さんの墓と二つが並んでいる。
二つの墓の主の霊魂は、自分の学んだ大学を、山の上から見下ろしている。山での遭難死者は数多いが、学校の見えるところに分骨された墓どころをつくってもらえる例などあまり聞いたことがない。高田さんの山を思う心と共に、室蘭は、やさしいひとの集う所だと思った。
帰りの下山道で、室蘭山岳会の及川さんから、オクエゾサイシンの大きな葉を教えてもらった。道南特産のエンレイソウもシラネアオイも咲くという。
室蘭へゆく度に、いつか登りたいと思っていた願いが果たされたのは、数年前の六月で、当時は室蘭社会保険所長の滝本幸夫さんと、北海道庁の新技術産業課係長の鈴木和夫さん、室蘭カトリック教会のマイレット神父に、信者の野中由子さん、北海道における山仲間の井原和子さん、町田智津子さんたちのおかげである。
私が室蘭岳に執着したのは、明治六年に二十六歳で来日し、大正四年に六十九歳で台湾で死なれた植物研究家のフォーリー神父が、先ず日本の植物の多種多様性におどろき採集に熱中しはじめたのが、室蘭カトリック教会の司祭になってからであるという。
一九八〇年から九〇年代にかけて、ヨーロッパアルプスやカナディアンロッキーやピレネーを歩いて、私の知ったのは、あちらは量は多いが、日本の方が、高山植物の種類がずっと多いということであった。
北海道は、緯度的にヨーロッパに近く、パリ外国宣教会に属していたフランス人のフォーリー神父にとって、明治半ば以前の北海道は、全く天上の花の楽園とも思えたのではないだろうか。
高山植物の中には、学名でフォーリーの名のつくものが幾つもある。皆、神父の発見命名による。
あまりにも植物に夢中になった神父は、北海道から台湾の布教に任ぜられる。しかしここもまた植物の宝庫なのであった。彼は、教会に戻る時間も惜しく、山の巨木に縄で自分をしばりつけて寝た。そして山蛭におそわれ、山蛭が鼻から脳に入りこんだことで、死なねばならなかったのである。
私は室蘭にまだ、フォーリー神父が見たであろう山の花が残っていると思い、神父をしのんでどうしても登りたかった。
その朝は快晴で、八時に麓について八時十分出発。標高四六〇メートル地点である。ミヤマハンノキやコナラの林の中を進む。ベニバナノイチヤクソウが咲いている。尾瀬にも多かったと思い出す。ギンリョウソウもある。夏鶯の声。小さな沢沿いの道はがんばり岩と書かれた岸壁にぶつかるが、自動車のタイヤを積み重ねた階段が出来ている。大きな火山岩なのであろう。このタイヤ階段のないときは、やっこらさっと岩角に取りつきしがみつきして、シラカバ林にとつづく道に入ったのであろうと思った。
標高七五〇メートルの「休み石」地点までに見たのはハクサンチドリ、ヤマハハコ、オオユキザサ、クルマユリなど。ヤマトリカブト、ベンケイソウなどもあって、ここも花の山だな、でも茂りに茂るクマザサが、花たちを大分おしのけたかもしれない、フォーリー神父の時代はどうであったろうと想像しつつ、一面の木々やクマザサの緑一いろの眺めを楽しむ。うす紅い花がある。ハマナスかと思ったらタカネバラである。北アルプスあたりなら、二千メートル越えなければならぬ花たちが、東京近くで言えば七〇〇メートル前後の高水三山に咲いているということ。やっぱり北海道は低くてもいい花がいっぱい見られて、それが何よりのありがたさと思った。下から電気草刈機械を背負った老人が登って来た。老人と言っても、しっかりとした足つきで、背もピンと伸びている。滝本さんが「ごくろうさま」と挨拶すると、にっこりとわらって首を下げたまま、頂上目指してたのもしい足どりで登ってゆく。滝本さんに聞いた。どういう方? 室蘭にある大会社の新日鉄を定年退職したひとが、独力で室蘭岳の整備に着手し、何百回となく登られてクマザサを伐り払って、だれでも歩ける山にされたのだという。あのタイヤも自分で運んで来て、独力でつけてくれたのだという。
頂上に着くと、そのボランティアで、ふるさとの山を整備した高田昌美さんも休んでいた。年は七十二歳。ゲートボールなどやって勝敗を争うより、他者のためになる仕事をしたかったと言う。すっかり感心させられてしまった。
頂上からの眺めは広大で、すぐ眼の下に室蘭の町がひろがり、その先に海がある。室蘭港がつくられている。
この頂上には又、滝本さんが『北の山の栄光と悲劇』に書かれた札内川の沢で、徒渉中の友が流されようとしたのを助けて、自身流された室蘭工業大学生の井出隆文さんの墓と、北日高で遭難死した同じ大学生の山口雄三さんの墓と二つが並んでいる。
二つの墓の主の霊魂は、自分の学んだ大学を、山の上から見下ろしている。山での遭難死者は数多いが、学校の見えるところに分骨された墓どころをつくってもらえる例などあまり聞いたことがない。高田さんの山を思う心と共に、室蘭は、やさしいひとの集う所だと思った。
帰りの下山道で、室蘭山岳会の及川さんから、オクエゾサイシンの大きな葉を教えてもらった。道南特産のエンレイソウもシラネアオイも咲くという。