チョウカイフスマ・ニッコウキスゲ
鳥海山には、|吹浦《ふくら》口からのコースと、|象潟《きさかた》からのコースがあり、御浜小屋で一つになる。共に芭蕉の『奥の細道』にあらわれる土地である。
象潟や雨に西施がねぶの花
あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ
象潟は秋田県、吹浦は山形県で、鳥海山はその二県に裾野をひろげる。
私は、戦前は赤城、榛名より北の土地を知らず、戦後も北海道へゆく時は飛行機で、上野駅から東北線に乗ったことはなく、昭和三十年にはじめて仙台市を知った。つづいて米沢、青森、山形、能代、酒田と知り、遊佐へいって、北に秀麗な鳥海山を望んだのである。
遊佐町の教育委員会の菅原伝作氏に、ぜひ鳥海山のチョウカイフスマを見に来るようにとすすめられ、ナデシコ科の花の好きな私はすぐその気になった。また、秋田県の本荘市にもゆき、南の鳥海山の姿を眺めると、これまた素敵である。その頃、盛岡の草紫堂の紫根染めの着物が好きになり、鳥海山の麓には、まだムラサキの野生があると聞いて、あるいは山上でチョウカイフスマに出あう前に、ムラサキの一本にでもと思うようになった。秋田県側の黒川村の黒川能を水道橋の能楽堂で観たのもその頃である。中央の能よりも、世阿弥の頃の能楽の舞の姿をそのまま伝えていると言われている。それは鳥海山の神にささげられたもので、神前に舞うという謙虚な姿が、三番叟によくあらわれているという感銘を受けた。そして思い出したのは、学生時代に九段の能楽堂で見た、これも鳥海山麓の番楽の三番叟である。神にささげる舞を、太平洋側では神楽、日本海側では番楽という。
さて、十数年前の七月はじめの深夜、新宿を夜行バスで出発。午前四時に羽黒山に着き、午前八時に雨の月山にゆき、その夜は吹浦泊まり。あくる朝五時出発で、遊佐町教委の方々の案内で、|蔦石《つたいし》坂から登った。その日も雨である。ブナやミズナラやダケカンバが茂る見晴らし台までの急坂のかたわらを、雪どけの水が激流となって落ちてくる。樹林の下は、日本海側の豪雪地帯に多いチシマザサの藪で残雪がいっぱい。見晴らし台も一面の霧と雪原の眺めとなったが、ニッコウキスゲの固い蕾の花穂と葉が、雪の中から元気よく半分あらわれている。シラネアオイやツマトリソウがわずかに咲いている。
登りきると、平坦な道となり、雪も少なくなって、ハイマツの原となった。キャラボクもあって、|伯耆《ほうき》|大山《だいせん》のキャラボクは南限であったことを思い出す。低いところが雪が浅く、高度を増して雪が多くなるというのもおもしろい経験であったが、ハイマツ帯の中の道の両側に、やたらにアザミがいっぱいあるのにも驚いた。
そのアザミの葉がどれもこれもトゲが大きい。同行の『影鳥海』の著者の畠中善弥さんが、チョウカイアザミ、ウゴアザミと教えてくれた。チョウカイアザミはフジアザミに似て花が下を向いて咲くけれど、フジアザミより茎も太く葉も大きくてたくましい。ウゴアザミは背も低く花は上向きだが、葉のトゲの鋭さは同じである。
それよりさらに背が低く葉のトゲが小さく、花も小さいのがいくつか固まってかわいい感じのがオクキタアザミである。ちょっとヒゴタイに似ている。
御浜神社で一休みして千蛇谷まで。十二時に雪に埋もれた鳥海湖に向かう斜面にハクサンイチゲの満開を見た。そして、やや離れた砂礫地に点々と、チョウカイフスマの、エメラルドグリーンの繊細な葉に、やや蒼味をおびた白い花が、一群れずつ距離をおいて咲いていた。『影鳥海』には一八八五年に藤田九三郎氏が、雌阿寒で採ったのを、マキシモヴィッチ氏がメアカンフスマと名付け、一八八七年に鳥海山で矢田部良吉氏が採ったのが、メアカンフスマとはちょっとちがうので、一九一九年チョウカイフスマとしたという。のちに雌阿寒に登って私も見たが、やはり少し葉の色、花の形がちがうと思った。
鳥海山では群生し、雌阿寒では岩と岩の間にわずかにあった。
象潟や雨に西施がねぶの花
あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ
象潟は秋田県、吹浦は山形県で、鳥海山はその二県に裾野をひろげる。
私は、戦前は赤城、榛名より北の土地を知らず、戦後も北海道へゆく時は飛行機で、上野駅から東北線に乗ったことはなく、昭和三十年にはじめて仙台市を知った。つづいて米沢、青森、山形、能代、酒田と知り、遊佐へいって、北に秀麗な鳥海山を望んだのである。
遊佐町の教育委員会の菅原伝作氏に、ぜひ鳥海山のチョウカイフスマを見に来るようにとすすめられ、ナデシコ科の花の好きな私はすぐその気になった。また、秋田県の本荘市にもゆき、南の鳥海山の姿を眺めると、これまた素敵である。その頃、盛岡の草紫堂の紫根染めの着物が好きになり、鳥海山の麓には、まだムラサキの野生があると聞いて、あるいは山上でチョウカイフスマに出あう前に、ムラサキの一本にでもと思うようになった。秋田県側の黒川村の黒川能を水道橋の能楽堂で観たのもその頃である。中央の能よりも、世阿弥の頃の能楽の舞の姿をそのまま伝えていると言われている。それは鳥海山の神にささげられたもので、神前に舞うという謙虚な姿が、三番叟によくあらわれているという感銘を受けた。そして思い出したのは、学生時代に九段の能楽堂で見た、これも鳥海山麓の番楽の三番叟である。神にささげる舞を、太平洋側では神楽、日本海側では番楽という。
さて、十数年前の七月はじめの深夜、新宿を夜行バスで出発。午前四時に羽黒山に着き、午前八時に雨の月山にゆき、その夜は吹浦泊まり。あくる朝五時出発で、遊佐町教委の方々の案内で、|蔦石《つたいし》坂から登った。その日も雨である。ブナやミズナラやダケカンバが茂る見晴らし台までの急坂のかたわらを、雪どけの水が激流となって落ちてくる。樹林の下は、日本海側の豪雪地帯に多いチシマザサの藪で残雪がいっぱい。見晴らし台も一面の霧と雪原の眺めとなったが、ニッコウキスゲの固い蕾の花穂と葉が、雪の中から元気よく半分あらわれている。シラネアオイやツマトリソウがわずかに咲いている。
登りきると、平坦な道となり、雪も少なくなって、ハイマツの原となった。キャラボクもあって、|伯耆《ほうき》|大山《だいせん》のキャラボクは南限であったことを思い出す。低いところが雪が浅く、高度を増して雪が多くなるというのもおもしろい経験であったが、ハイマツ帯の中の道の両側に、やたらにアザミがいっぱいあるのにも驚いた。
そのアザミの葉がどれもこれもトゲが大きい。同行の『影鳥海』の著者の畠中善弥さんが、チョウカイアザミ、ウゴアザミと教えてくれた。チョウカイアザミはフジアザミに似て花が下を向いて咲くけれど、フジアザミより茎も太く葉も大きくてたくましい。ウゴアザミは背も低く花は上向きだが、葉のトゲの鋭さは同じである。
それよりさらに背が低く葉のトゲが小さく、花も小さいのがいくつか固まってかわいい感じのがオクキタアザミである。ちょっとヒゴタイに似ている。
御浜神社で一休みして千蛇谷まで。十二時に雪に埋もれた鳥海湖に向かう斜面にハクサンイチゲの満開を見た。そして、やや離れた砂礫地に点々と、チョウカイフスマの、エメラルドグリーンの繊細な葉に、やや蒼味をおびた白い花が、一群れずつ距離をおいて咲いていた。『影鳥海』には一八八五年に藤田九三郎氏が、雌阿寒で採ったのを、マキシモヴィッチ氏がメアカンフスマと名付け、一八八七年に鳥海山で矢田部良吉氏が採ったのが、メアカンフスマとはちょっとちがうので、一九一九年チョウカイフスマとしたという。のちに雌阿寒に登って私も見たが、やはり少し葉の色、花の形がちがうと思った。
鳥海山では群生し、雌阿寒では岩と岩の間にわずかにあった。