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花の百名山121

时间: 2020-06-28    进入日语论坛
核心提示:月山《がつさん》   ウズラバハクサンチドリ・クロユリ 本田安次氏著の『山伏神楽・番楽』で、その分布を見ると、奥羽山脈を
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月山《がつさん》
   ウズラバハクサンチドリ・クロユリ
 
 本田安次氏著の『山伏神楽・番楽』で、その分布を見ると、奥羽山脈を中央にして、太平洋側は早池峰山を中心にした山伏神楽、日本海側は鳥海山や|太平《たいへい》山を中心にした番楽の盛んな村々、町々が固まっている。これらの山々が山岳信仰の中心になっているのであろう。最上川を境にして、月山、湯殿山、羽黒山を合わせて出羽三山とよばれる地帯には、そのような村々や町々がしるされていない。月山を中心とする出羽三山の信仰と、山伏神楽、番楽を持つ民とは別種の流れを持つようである。
出羽三山は、羽黒山の修験道を中心として、開山したのは、|東 漢 直 駒《やまとのあやのあたいこま》に殺された崇峻天皇の皇子の蜂子皇子とされている。つまり、ヤマト朝廷をつくったひとびとの流れである。
出羽三山とは、熊野三山にならってということらしいが、熊野は、ヤマト朝廷民族が大阪湾から上陸して、生駒山から大和に入ろうとして果たせず、紀伊半島をまわって熊野川沿いにヤマトへの侵入を果たした基地である。出羽三山と熊野三山は、同一民族ということでつなぐことができる。山伏神楽や番楽の最上川以北の民とは、日本渡来のルートがちがうのではないかという私の推定説についてはこれくらいにして、私は、この時の山旅の一番の目当ては鳥海山におき、月山は、帰りに蔵王山へゆく途中でたちよる|立石《りつしやく》寺と同じに、芭蕉も登ったあとを辿るというような気持ちだけ。羽黒山には、羽黒山伏として江戸時代に盛んな活躍を見せた山伏たちの本拠を知りたいという意味だけがあった。
羽黒山には、|葛城《かつらぎ》出身の|役 行者《えんのぎようじや》が来て、修験の山の羽黒の興隆に力を|藉《か》したことになっている伝承がある。葛城氏は、ヤマト朝廷以前のヤマトの豪族。ヤマト朝廷によって征服され、役行者は中央を追われた人物である。蜂子皇子も父君の横死によって、中央の場を失っている。そうした敗者たちが霊界の王となって、現世の利益を得ようとする亡者たちを支配することになる。
さて、明け方の羽黒山の山道にミヤマヨメナの花がいっぱい咲いているのを見て、バスで月山に来ると、車は八合目に着いたので、一九八〇メートルの頂きまで、あと標高差は六〇〇メートル足らず。
昨夜はバスの中でろくろく眠らなかったけれど、仙人沢の下り口まで一二キロ歩くだけと考えたのが浅はかで、登りはだらだらとゆるい傾斜なのでかえって疲れ、頂上の月山神社から弥陀原あたりに下って来ると、激しい風雨となり、急坂のハシゴを使っての下りは『奥の細道』の苦労話が身にしみた。とにかく『コンサイス日本山名辞典』には「わが国最大の楯状火山」としている。芭蕉は「月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を|包《つつみ》、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に、氷雪を|踏《ふみ》て登る事八里、更に日月行道の雲関に|入《いる》かとあやしまれ、息|絶《たえ》身こゞえて頂上に|臻《いた》れば、日|没《ぼつし》て月|顕《あらは》る」とあって、下から強力に引っ張られながら歩いて、頂上で一泊。八里、三二キロの道を一日でいったらしいが、時は旧暦の六月。今の七月である。
私たちの登った日も雲が重くかぶさって谷々は霧の中だったが、爆発でとばされたという西半分の大斜面がところどころに雪渓を残しながら、雪どけの草地にニッコウキスゲの黄、ヨツバシオガマの紫と華麗なお花畑をつくっているのがよく見え、期待していなかったので、私は大よろこび。ところどころの池塘にはワタスゲやイワイチョウがすでに夏山の姿を見せ、ミツガシワも白い花をつけている。キンコウカもトキソウもタテヤマリンドウもあって、尾瀬より花が多いと口走ったほどである。おまけに、右斜面はすっかり雪がとけていて、ベニバナイチゴの花も咲き、ウズラバハクサンチドリが点々と|斑《ふ》のある葉に紅紫の花をつけ、ウサギギクの群落の中の小さな穴から、オコジョが顔を出して「こんにちは」とかわいい表情をした。神社のまわりにはクロユリがいっぱい咲いていて、北アルプスの双六岳や五色ケ原よりずっと多い。仙人沢での下りは辛かったが、天上の花園を大いに楽しめたので十分に満足した。
黒百合や人界わかつ神の山
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