クモイコザクラ・レンゲショウマ
横山厚夫氏の『東京から見える山見えた山』の中に、大正六年(一九一七)の日本山岳会機関誌『山岳』に小暮理太郎氏がまとめて発表されたものとして、二〇〇〇メートル以上の山のすべては六十三座にもあがったことが書かれている。
横山氏は、この山々の見取り図と磁石を持ち、何度も都内の高い建造物や、見晴らしのきく台地に立ったという。
大正七年頃から、私は小学校に電車通学をしていたので、晩秋から初冬にかけての朝、池袋駅のプラットホームの上の長い通路の窓から西の空を眺めると、秩父の山々から丹沢、箱根、天城の山々がずらりと並び、雪の富士山が丹沢の上から、端然とした姿をあらわしていたのが忘れられない。
亡兄や亡弟は、よく飛龍だの、雲取だの、甲武信岳だのというので、今にいつかきっと、それらの山にあるという針葉樹の原生林の中を歩こうと自分の心をはげましていた。
私は白地図を、等高線の四〇〇メートルくらいの差で、茶色を重ねて塗るのが好きであった。
北アルプスの槍ケ岳や穂高も、甲武信中心の奥秩父も、五万分の一の地図を何枚か寒冷紗の上に張り合わせ、部屋の中にひろげて、浮かび上がった山稜や、谷々や、川の流れの姿に、想像の木々の林を思い浮かべ、花を咲かせてよろこんでいた。
さて、あこがれの甲武信は、六月のはじめ、私が七十八歳を迎えた記念に実現した。
新宿から小海線の信濃川上を経て|毛木《もうき》平まで車で四時間。十二時から歩き出した毛木平はズミが真っ白な花を咲かせ、ベニバナイチヤクソウが群落をつくっている。山道に入って、渓流沿いの道を蛇行して登ってゆく途中は、ズダヤクシュ、レンゲショウマ、ヒメイチゲ、エンレイソウ、ツバメオモト、アズマイチゲ、ツルネコノメソウ、コチャルメルソウと、まるで、天然の高山植物園の中をゆくような賑やかな花の出迎えである。
八丁頭の直下の急坂も、次にはどんな花があるかと心がさわぐ。十文字小屋には三時過ぎに着いて、小屋の前のシャクナゲは満開であった。北に向かってひらかれた樹間の空に遠く、|両神《りようかみ》山から上州|武尊《ほたか》が浮かんでいてうれしかった。
あくる日は六時に小屋を出て、コメツガやシラビソの林の中をゆくのだが、意外に木が細くて、櫛形山の方がずっと大木が生い茂っていたと思い、午後三時にやっと着いた甲武信小屋主の山中邦治さんに聞くと、台風で大木は倒れて若木が育ちつつあるのだとのこと。また、七十八歳でここまで来た女の人ははじめてだと、ビールをご馳走してくれた。
甲武信の頂上は意外に狭く、すぐ眼の前にいつか登った奥千丈岳や国師や金峰が見える。五十年前だったら金峰まで歩いたのにと残念であった。
大正五年の七月、当時の帝国大学(今の東大)を卒業した五人の青年たちが、雁坂峠から甲武信を目ざして出発。破風山を経て、一つ手前の|木賊《とくさ》山を甲武信とまちがえ、ヌク沢に入りこんで、風雨にたたかれ四人が死んでいる。兄や弟が甲武信にゆく時、母はその事件をおぼえていて心配した。
私はあくる日も朝六時出発。雁坂峠へ下らずに、ヌク沢を歩きたいと山中さんにたのんで案内してもらった。いたましい死者の霊を弔いたい気がして。
破風山の手前には、新しく避難小屋ができていて、その前の笹藪の中を下る。木賊山、鶏冠山を右にしての急降下がつづき、鹿が泥をかぶるヌタ場がある。
急に瀬音が高くなり、右に細い道を下って渓谷に出る。ヌク沢である。対岸の岸壁にクモイコザクラやキバナノコマノツメが咲いていた。とりたくてもとても徒渉してゆけるところではないので、安心してここに書く。
満開のシャクナゲの林の中を鶏冠山林道まで下りて十一時であった。
石楠花新道息継ぐは鹿のあそび場
横山氏は、この山々の見取り図と磁石を持ち、何度も都内の高い建造物や、見晴らしのきく台地に立ったという。
大正七年頃から、私は小学校に電車通学をしていたので、晩秋から初冬にかけての朝、池袋駅のプラットホームの上の長い通路の窓から西の空を眺めると、秩父の山々から丹沢、箱根、天城の山々がずらりと並び、雪の富士山が丹沢の上から、端然とした姿をあらわしていたのが忘れられない。
亡兄や亡弟は、よく飛龍だの、雲取だの、甲武信岳だのというので、今にいつかきっと、それらの山にあるという針葉樹の原生林の中を歩こうと自分の心をはげましていた。
私は白地図を、等高線の四〇〇メートルくらいの差で、茶色を重ねて塗るのが好きであった。
北アルプスの槍ケ岳や穂高も、甲武信中心の奥秩父も、五万分の一の地図を何枚か寒冷紗の上に張り合わせ、部屋の中にひろげて、浮かび上がった山稜や、谷々や、川の流れの姿に、想像の木々の林を思い浮かべ、花を咲かせてよろこんでいた。
さて、あこがれの甲武信は、六月のはじめ、私が七十八歳を迎えた記念に実現した。
新宿から小海線の信濃川上を経て|毛木《もうき》平まで車で四時間。十二時から歩き出した毛木平はズミが真っ白な花を咲かせ、ベニバナイチヤクソウが群落をつくっている。山道に入って、渓流沿いの道を蛇行して登ってゆく途中は、ズダヤクシュ、レンゲショウマ、ヒメイチゲ、エンレイソウ、ツバメオモト、アズマイチゲ、ツルネコノメソウ、コチャルメルソウと、まるで、天然の高山植物園の中をゆくような賑やかな花の出迎えである。
八丁頭の直下の急坂も、次にはどんな花があるかと心がさわぐ。十文字小屋には三時過ぎに着いて、小屋の前のシャクナゲは満開であった。北に向かってひらかれた樹間の空に遠く、|両神《りようかみ》山から上州|武尊《ほたか》が浮かんでいてうれしかった。
あくる日は六時に小屋を出て、コメツガやシラビソの林の中をゆくのだが、意外に木が細くて、櫛形山の方がずっと大木が生い茂っていたと思い、午後三時にやっと着いた甲武信小屋主の山中邦治さんに聞くと、台風で大木は倒れて若木が育ちつつあるのだとのこと。また、七十八歳でここまで来た女の人ははじめてだと、ビールをご馳走してくれた。
甲武信の頂上は意外に狭く、すぐ眼の前にいつか登った奥千丈岳や国師や金峰が見える。五十年前だったら金峰まで歩いたのにと残念であった。
大正五年の七月、当時の帝国大学(今の東大)を卒業した五人の青年たちが、雁坂峠から甲武信を目ざして出発。破風山を経て、一つ手前の|木賊《とくさ》山を甲武信とまちがえ、ヌク沢に入りこんで、風雨にたたかれ四人が死んでいる。兄や弟が甲武信にゆく時、母はその事件をおぼえていて心配した。
私はあくる日も朝六時出発。雁坂峠へ下らずに、ヌク沢を歩きたいと山中さんにたのんで案内してもらった。いたましい死者の霊を弔いたい気がして。
破風山の手前には、新しく避難小屋ができていて、その前の笹藪の中を下る。木賊山、鶏冠山を右にしての急降下がつづき、鹿が泥をかぶるヌタ場がある。
急に瀬音が高くなり、右に細い道を下って渓谷に出る。ヌク沢である。対岸の岸壁にクモイコザクラやキバナノコマノツメが咲いていた。とりたくてもとても徒渉してゆけるところではないので、安心してここに書く。
満開のシャクナゲの林の中を鶏冠山林道まで下りて十一時であった。
石楠花新道息継ぐは鹿のあそび場