ヒゴスミレ・マルバスミレ
二十六夜山は、コンサイスの山名辞典にはのっていないが、山梨県の秋山村に九七二メートル、都留市に一二九七メートルと二つあって、ともにその麓を桂川に注ぐ支流が流れている。
二つの二十六夜山は、都留市の東と南にあって、九七二メートルの方は、上野原から都留ゆきのバスにのって寺下に下車。三十分西に歩いて山路に入る。一月三日の正月登山に、雪の降りしきる中を登り、ぬかるみと、ノイバラのヤブコギで難渋した。
一二九七メートルは、道志川と桂川の谷をへだてる背梁の道志山塊を、|巌道《がんどう》峠から、赤鞍ケ岳、朝日山、菜畑山、今倉山と二〇キロ近く歩いての西端にあって、富士急行の赤坂駅の東の戸沢に下る。こちらにはつい最近の春の半ば、道坂トンネル脇から今倉山に登り、地図の上では無名峰の一四四〇メートルを越えて頂きに出た。こちらも戸沢への下りはひどいノイバラのヤブコギであり、もう一つ、二つの山に共通しているのは「二十六夜」と|彫《きざ》まれた名が、頂きよりちょっと下ったところにあり、そのまわりがやや低い平坦地になっていることである。
江戸時代には二十六夜信仰があり、一月と七月の二十六日の月の出をおがむと、月の中に弥陀、観音、勢至の三つの仏があらわれるのだという。
都留は戦国時代には武田二十四将の一人の小山田信茂が領有していたのだが、信玄の没後、武田勝頼が、笹子峠から岩殿城に逃げようとしたのを峠に柵をつくって拒んだため、勝頼は天目山で一族百数十人となって死に、織田信長は、小山田信茂をとらえて主に|叛《そむ》いた不忠者として、その母と共に殺した。
しかし領内で甲斐絹を生産していた都留のひとたちは、信茂がからだを張って勝頼を拒んで領内に入れず、領内が戦場にならなかったことに感謝し、今なお名君として慕っている。
さていつか天目山栖雲寺の石庭を観にいった時、本堂に安置された大きな仏像のうちの一体が十字架のついたロザリオを首からかけているのを不思議に思って住職に聞くと、甲斐にはキリシタン大名の有馬晴信が配流されていた関係ではないかとのこと。その甲斐はどこの地であろうかと気になっていたが、一二九七メートルの二十六夜山を下って来てから『山梨県史』を読むと、小山田氏亡きあとの都留は秋元氏領となったが、有馬晴信は秋元氏のところに引きとられ、やがて刑死するとあった。私は二十六夜山が日本の中でたった二つ、都留周辺にあるのは、晴信の家来たちの信者が、かくれキリシタンとしてこの地に住みつき、二十六夜の月にかこつけて、ひそかに山上に集まり、マリアへの祈りをささげたのではないかと想像した。
その熱い信仰がなくて、なんで一月二十六日夜の雪の明け方の、ヤブコギの道をお詣りなどに登って来たのであろうかと思うのである。
この長い道志の尾根歩きを、私たちは三回にわけて歩いた。一度は秋で、今倉山と菜畑山、道志口峠といって、竹之本に下った。黄紅葉した木々が美しかったが、道はぬかるみでどろんこになった。二度目は巌道峠を春の末に登り、晴れていたので、日照りが強くてまいった。この時この尾根道は花の道と思った。ヒゴスミレ、ホタルカズラ、マルバスミレ、キンラン、ギンランにであった。しかし長尾平から、赤鞍ケ岳あたりはヤブコギでマムシがこわかった。であったひとも二、三いた。ハンゴンソウが丈高くのびていた。朝日山から下って道志温泉に泊まった。三度目は早春で枯れ草の中からエイザンスミレ、マルバスミレが咲きはじめ、キジムシロやミヤコグサやトウダイグサ、コオニタビラコの黄、コケリンドウ、タチツボスミレのうす紫と、なかなかにぎやかな春の花の出迎えであった。
エイザンスミレは、|御岳《みたけ》あたりのよりも、花が白く、葉も小さい。ヒゴスミレかと思えば、葉はエイザンである。花が終わったら、この葉もやはり大きくなるのであろうか。あまりひとの訪れない山道には踏みあとも消えるほどスズメノカタビラなどが茂り、左に御正体山や杓子山、右に笹尾根を眺めながら、秋の紅葉の頃にまた来たいと思った
二つの二十六夜山は、都留市の東と南にあって、九七二メートルの方は、上野原から都留ゆきのバスにのって寺下に下車。三十分西に歩いて山路に入る。一月三日の正月登山に、雪の降りしきる中を登り、ぬかるみと、ノイバラのヤブコギで難渋した。
一二九七メートルは、道志川と桂川の谷をへだてる背梁の道志山塊を、|巌道《がんどう》峠から、赤鞍ケ岳、朝日山、菜畑山、今倉山と二〇キロ近く歩いての西端にあって、富士急行の赤坂駅の東の戸沢に下る。こちらにはつい最近の春の半ば、道坂トンネル脇から今倉山に登り、地図の上では無名峰の一四四〇メートルを越えて頂きに出た。こちらも戸沢への下りはひどいノイバラのヤブコギであり、もう一つ、二つの山に共通しているのは「二十六夜」と|彫《きざ》まれた名が、頂きよりちょっと下ったところにあり、そのまわりがやや低い平坦地になっていることである。
江戸時代には二十六夜信仰があり、一月と七月の二十六日の月の出をおがむと、月の中に弥陀、観音、勢至の三つの仏があらわれるのだという。
都留は戦国時代には武田二十四将の一人の小山田信茂が領有していたのだが、信玄の没後、武田勝頼が、笹子峠から岩殿城に逃げようとしたのを峠に柵をつくって拒んだため、勝頼は天目山で一族百数十人となって死に、織田信長は、小山田信茂をとらえて主に|叛《そむ》いた不忠者として、その母と共に殺した。
しかし領内で甲斐絹を生産していた都留のひとたちは、信茂がからだを張って勝頼を拒んで領内に入れず、領内が戦場にならなかったことに感謝し、今なお名君として慕っている。
さていつか天目山栖雲寺の石庭を観にいった時、本堂に安置された大きな仏像のうちの一体が十字架のついたロザリオを首からかけているのを不思議に思って住職に聞くと、甲斐にはキリシタン大名の有馬晴信が配流されていた関係ではないかとのこと。その甲斐はどこの地であろうかと気になっていたが、一二九七メートルの二十六夜山を下って来てから『山梨県史』を読むと、小山田氏亡きあとの都留は秋元氏領となったが、有馬晴信は秋元氏のところに引きとられ、やがて刑死するとあった。私は二十六夜山が日本の中でたった二つ、都留周辺にあるのは、晴信の家来たちの信者が、かくれキリシタンとしてこの地に住みつき、二十六夜の月にかこつけて、ひそかに山上に集まり、マリアへの祈りをささげたのではないかと想像した。
その熱い信仰がなくて、なんで一月二十六日夜の雪の明け方の、ヤブコギの道をお詣りなどに登って来たのであろうかと思うのである。
この長い道志の尾根歩きを、私たちは三回にわけて歩いた。一度は秋で、今倉山と菜畑山、道志口峠といって、竹之本に下った。黄紅葉した木々が美しかったが、道はぬかるみでどろんこになった。二度目は巌道峠を春の末に登り、晴れていたので、日照りが強くてまいった。この時この尾根道は花の道と思った。ヒゴスミレ、ホタルカズラ、マルバスミレ、キンラン、ギンランにであった。しかし長尾平から、赤鞍ケ岳あたりはヤブコギでマムシがこわかった。であったひとも二、三いた。ハンゴンソウが丈高くのびていた。朝日山から下って道志温泉に泊まった。三度目は早春で枯れ草の中からエイザンスミレ、マルバスミレが咲きはじめ、キジムシロやミヤコグサやトウダイグサ、コオニタビラコの黄、コケリンドウ、タチツボスミレのうす紫と、なかなかにぎやかな春の花の出迎えであった。
エイザンスミレは、|御岳《みたけ》あたりのよりも、花が白く、葉も小さい。ヒゴスミレかと思えば、葉はエイザンである。花が終わったら、この葉もやはり大きくなるのであろうか。あまりひとの訪れない山道には踏みあとも消えるほどスズメノカタビラなどが茂り、左に御正体山や杓子山、右に笹尾根を眺めながら、秋の紅葉の頃にまた来たいと思った