シュウメイギク
シュウメイギクは、キブネギクとも呼ばれる。京の北山の鞍馬山麓の貴船川のほとりに多く咲いていたのであろう。
しかし私は、戦後の十年近く京に住んで、家の近くから叡電に乗り、鞍馬から芹生あたりを何度か歩いたが、シュウメイギクは、民家やお寺の庭などにあり、山の道で見つけることはできなかった。キクと名づけられても、キンポウゲ科のこの花の優雅さが好きである。そして山で見かけるとお前はまだ山で生きていたかとうれしくなる。関東では二ケ所の山で見かけ、四国では天狗高原への道で見かけ、九州では古処山で見てうれしかった。
古処山は八五九・五メートル。福岡の南の秋月の町のうしろを馬見山、|屏山《へいざん》とつづいて、屏風のようにかこんでいる。いつか福岡から、陶器の小石原へゆく時に、秋月を通り、江戸時代の茶店や武家屋敷を復原した町づくりを、なかなか風情があると感心したが、町の背後に、照葉樹の深々とした緑に被われた山を古処山、ツゲの原生林のある山と聞かされ、今度来たらぜひ登ってみたいと思った。福岡に近い山で残ったのは古処山だけであった。
最近の秋の一日、福岡双葉のシスターたちと標高差三〇〇メートルの地点から歩き出し、古処山から屏山の九二七メートルまで、九州自然歩道となっている稜線を経て江川ダムに下った。
ツゲは古処山の頂上から、屏山へゆく道の左側の石灰岩地帯に密生し、いずれもみごとな大木であった。細かい葉が秋の陽に映えて美しく、稜線にはマテバシイやアラカシなどの照葉樹もぎっちりと生えていて、聞けば秋月氏時代に領主から保護されて滅多なひとを入れなかったという。秋月氏はかつて三十六万石の太守であったのが、秀吉の九州征伐に負けて、高鍋藩二万七千石に移されたのである。領主は代わっても、この山の緑はずっと大事にされて来たというのは、他領からの守備の意味もあったろう。花も多く、レイジンソウ、ヤマジノホトトギス、ジンジソウなどが眼についた。
しかし私は、戦後の十年近く京に住んで、家の近くから叡電に乗り、鞍馬から芹生あたりを何度か歩いたが、シュウメイギクは、民家やお寺の庭などにあり、山の道で見つけることはできなかった。キクと名づけられても、キンポウゲ科のこの花の優雅さが好きである。そして山で見かけるとお前はまだ山で生きていたかとうれしくなる。関東では二ケ所の山で見かけ、四国では天狗高原への道で見かけ、九州では古処山で見てうれしかった。
古処山は八五九・五メートル。福岡の南の秋月の町のうしろを馬見山、|屏山《へいざん》とつづいて、屏風のようにかこんでいる。いつか福岡から、陶器の小石原へゆく時に、秋月を通り、江戸時代の茶店や武家屋敷を復原した町づくりを、なかなか風情があると感心したが、町の背後に、照葉樹の深々とした緑に被われた山を古処山、ツゲの原生林のある山と聞かされ、今度来たらぜひ登ってみたいと思った。福岡に近い山で残ったのは古処山だけであった。
最近の秋の一日、福岡双葉のシスターたちと標高差三〇〇メートルの地点から歩き出し、古処山から屏山の九二七メートルまで、九州自然歩道となっている稜線を経て江川ダムに下った。
ツゲは古処山の頂上から、屏山へゆく道の左側の石灰岩地帯に密生し、いずれもみごとな大木であった。細かい葉が秋の陽に映えて美しく、稜線にはマテバシイやアラカシなどの照葉樹もぎっちりと生えていて、聞けば秋月氏時代に領主から保護されて滅多なひとを入れなかったという。秋月氏はかつて三十六万石の太守であったのが、秀吉の九州征伐に負けて、高鍋藩二万七千石に移されたのである。領主は代わっても、この山の緑はずっと大事にされて来たというのは、他領からの守備の意味もあったろう。花も多く、レイジンソウ、ヤマジノホトトギス、ジンジソウなどが眼についた。