清河八郎が去った。
新選組が誕生した。
——壬生郷八木源之丞屋敷の門に、山南敬助の筆《て》による「新選組宿」の大札がかかげられたのは、文久三年三月十三日のことである。京は、春のたけなわであった。この宿陣からほど遠くない坊城通四条の角にある元祇園社《もとぎおんしや》の境内の桜が、満開になっている。
きのう今日、壬生界隈は、花あかりがした。
が、歳三の顔だけは明るくない。
「近藤さん、要は金だな」
と、いった。
歳三のいうとおり、京都守護職会津中将様のお声がかりがあったとはいえ、まだ、私党であった。軍用金はどうなるのか。十三人の隊士の食う米塩をどうするのか。
壬生の郷中の者は、隊士の服装をみて、みぶろ、壬生浪《みぶろ》、と嘲りはじめていることを、歳三は知っている。むりもなかった。どの隊士も、まだ旅装のままで、袴はすりきれ、羽織に|つぎ《ヽヽ》をあてている者もあった。初老の井上源三郎などは、大小を帯びなければ乞食と見まがうような姿だった。
——壬生浪やない、身ぼろ、や。
と、蔭口をたたく者もあった。
「金が、古今、軍陣の土台だ。——攘夷がどうだ、尊王がどうだという議論もだいじだろうが」
隊士は、毎日、なすこともないから、山南敬助を中心に天下国家ばかりを論じあっている。歳三はそれをいった。
「そうか、金か」
近藤には百もわかっている。柳町試衛館のころは、近藤は、苦労といえば金のことだった。江戸でも「芋道場」と蔭口をたたかれたほどの貧乏道場である。妻子が食いかねるときでも養父周斎老人の食膳には三日に一度は魚をつけたが、その魚さえ、購《もと》めかねるときがあった。
「また、日野に頼むか」
と、近藤はいった。入洛後、これで二度目である。試衛館のころから、せっぱつまると、武州日野宿名主佐藤彦五郎に無心をいうのが、近藤の唯一の経営法であった。
「むりだ」
と、歳三はいった。いかに義兄《あに》(彦五郎)に無心をいっても、送ってもらえるのは、五両、七両、といったはしたがねである。
「すぐ飛脚を差し立てよう」
「近藤さん、おれはね」
と歳三はこわい顔でいった。
「考えがある。この壬生に天下の刺客をあつめ、新選組を二、三百人の大世帯にし、王城下、最大の義軍に仕立てあげたいと思っている」
「歳《とし》」
近藤はおどろいた。かれの構想にはないことであった。この歳三という男は、まるで自分をおどかすためにいつもそばにいるように思われた。
「それには、金」
歳三は、指でトントンと畳をたたいた。
「金だ。筋目の通った金が要る。隊が費《つか》ってもつかいきれないほど湯水のように湧いてくる金が。——だから」
「なんだ」
「いつも日野から、五両、十両と小金をせびっているようなあんたのやり方を変えてもらわねばならぬ。いっておくが、精鋭二、三百人を養うとなれば、五、六万石の小大名ほどの経費《ぞうよ》が要る。では、あるまいか」
「そ、そのとおりだ」
小大名、ときいて、近藤は喜色をうかべ、自分の位置が、いまや京で、天下で、容易ならぬものになりつつあることをあらためて気づかされる思いであった。思わず胸がふくらんだ。
「よかろう」
といった。
「では近藤さん、早速、芹沢を|おだ《ヽヽ》て《ヽ》」
といってから、歳三は、近藤にさしさわりがあると思ってすぐ言葉をかえ、
「いや、芹沢にもう一度働いてもらって、会津侯にまで、その旨を通して貰いたい。いまのところ、芹沢は大事なお人だ」
「そうしよう」
近藤は、すぐ、芹沢の部屋へ行った。
芹沢鴨は、自室で、新見錦、野口健司、平山五郎ら水戸以来の腹心の連中と飲んでいた。
どの男の膝の前にも、ぜいたくな酒肴の膳がある。
この芹沢系五人は、近藤系の連中とはちがい、食うものも着るものも、豪奢であった。いずれも黒縮緬《くろちりめん》の羽織をまとい、芹沢などは、三日にあげず島原にかよい、すでにいい女までできているという。
近藤は、その資金の出所は知っている。かれらは、市中のめぼしい富家に難癖をつけては「押し借り」をはたらいているということだ。
「押し借り」などは、尊攘を口念仏にしている浮浪志士のやることではないか。それを鎮圧する、というのが、京都守護職から差しゆるされた新選組の本義ではないか。
近藤は着座した。
「いかがです、近藤先生」
と、新見錦は、杯をさしだした。
「いや、私は結構」
「ああ、近藤先生は、下戸でしたな。されば菓子でも」
「頂戴できませぬ。私どもの子飼いの者は、朝起きれば夕餉《ゆうげ》の膳の米のめしの心配からせねばならぬ|てい《ヽヽ》たら《ヽヽ》く《ヽ》です。頂戴しては、罰があたりましょう」
「ほほう」
新見錦は、酔っている。皮肉に笑った。この男は、このときから半年後に、「遊興にふけり隊務|懈怠《げたい》のかどにより」ということで、祇園で近藤一派のために詰め腹を切らされる男だ。
「感服しましたな、さすがに芋道場の御素姓は」
あらそえぬ、というつもりだったのだろうが、自分でも暴言に気づいたか、そこまではいわず、
「ご質朴なものでござる」
近藤は、だまっている。
芹沢は、床柱の前から声をかけた。
「近藤君、おはなしは?」
「されば」
近藤は膝をすすめ、口下手だがよく透る声で、歳三に教えられたとおりのことをいった。
「小大名?」
芹沢も、満足した。
「なるほど、よくぞ申された。皇城鎮護、将軍家御警護のためには、われわれはゆくゆく十万石の大名ほどの人数、武備をもつ必要がある。さっそく、守護職にかけあおう」
「拙者も、お供つかまつる」
近藤は、いった。いつまでも京都守護職との折衝を芹沢にだけまかせておけば、近藤一派は、下風に立つばかりであった。
早速、近藤は歳三に命じて、門前に馬をそろえさせた。
三頭、用意された。
芹沢は、近藤が乗ってから、もう一頭に気づいて、
「近藤君、この馬は?」
「さあ」
近藤は、とぼけた。
坊城通を四条に出てから、うしろから歳三が馬で駈けてきた。
「なんだ、君もか」
「お供します」
「君が来るなら、|うち《ヽヽ》の新見もよべばよかった」
黒谷に到着し、会津藩公用方外島機兵衛らに会い、この建案を大いに弁じた。歳三はあくまでも近藤を立てるように巧妙に話をしむけて行ったから、自然、会津側も、近藤にばかり話しかけるようになった。
「よくわかりました」
会津人は行動力がある。
すぐ別室で、家老横山|主税《ちから》、田中土佐らが協議し、藩主容保に通じた。容保は即決した。時期もよかった。会津藩は、表高二十三万石のほかに、京都守護職拝命とともに公儀から職俸五万石を加えられ、さらに数日前五万石が加増されるという内示があったばかりであった。京都駐兵の費用は、潤沢すぎるほどになっている矢さきだったのである。
「すぐ隊士を徴募しよう」
と、歳三はいった。
徴募の仕方は、「京都守護職|御預《おあずかり》」という権威をもって、京都、大坂の剣術道場を説きまわることであった。おそらく、風《ふう》をのぞんでやってくることだろう。
「近藤さん、これは大事なことだが、徴募の遊説《ゆうぜい》は、われわれ武州派の手でやることだな」
「どうしてだ?」
「芹沢一派にやらせると、その手を伝ってやって来る浪士はみな芹沢派になる」
「なるほど」
近藤は苦笑した。
歳三の処置は迅速だった。あくまでも、同宿の芹沢らには内密である。
その翌日から、沖田、藤堂、原田、斎藤、井上、永倉らを指揮して京大坂の道場をしらみつぶしに歩かせて、応募を勧誘させた。
もともと、京大坂は道場のすくない町だが、それでも三、四十はある。
資格は、目録以上の者で、剣がおもだが、柔術、槍術であってもかまわない。
——ぜひ。
と、即座に入隊を応諾する者もある。
小うるさい道場主になると、「せっかく御光来くださったのだから、ひと手、御教授ねがいたい」と、暗に新選組という耳なれぬ集団の実力を測ろうとする者もあった。
——のぞむところです。
と、沖田、斎藤、藤堂などという連中はむぞうさに竹刀をとって立ち合い、一度も敗れをとったことがなかった。
大坂|松屋町《まつちやまち》筋で槍術、剣術の道場を営む谷兄弟のばあいなどは、兄の三十郎が、原田左之助の槍術の師匠だったこともあって、
——さあ。
と尊大ぶってなかなか応じない。弟子が幹部になっている浪士組など、たかが知れたものとみたのか、それとも、処遇のことで高望《たかのぞ》みでもあったのか、煮えきらなかった。
沖田総司は利口者だから、こういう手合いには百の弁舌よりも試合を所望するにかぎるとおもい、
——谷先生、ひと手、お教え願います。
といって立ちあい、槍で立ちむかってくるところを三度とも手もとにつけ入って、あざやかな面をとった。
というようなわけで、あらかた諸道場に話をつけおわったころ、芹沢が近藤に、
「ぼつぼつ、隊士の徴募にかからねばなりませんな」
と相談をもちかけた。
(遅い。……)
が、近藤はさあらぬ体で同意し、芹沢方にも徴募にまわってもらった。しかし芹沢の連中は怠惰で近藤派のような足まめな仕事にむかず、結局はまかせっきりになった。これがやがて、かれらの墓穴を掘ることになる。
徴募隊士はざっと百名。
諸国を流浪して京大坂にあつまってきた者が多く、どの男も、一癖も二癖もあるつらがまえをしていた。
歳三は、山南敬助と相談しながら、これらの宿割りをした。
あとは、百十数名にふくれあがったこの隊を、どう組織づけるか、である。
「近藤君、これを二隊にわけて、貴下が一隊、それがしが一隊持ちますか」
などと芹沢はいい、近藤も同意しかけたが、歳三は、それに極力反対した。
「それなら、烏合の衆になる」
というのだ。歳三の考えでは、これらが烏合の衆だけに、鉄の組織をつくらねばならない。しかし、どういう組織がいいか。古来、
藩
という組織がある。これが日本の武士の唯一の組織だが、参考にはならない。かれらには藩主というものがあり、主従でむすばれている。しかもその藩兵体制は戦国時代のままのもので、不合理な面が多かった。歳三にはなんの参考にもならず、このさい、独創的な体制を考案する必要があった。
歳三は、黒谷の会津本陣に行き、公用方外島機兵衛に仲介してもらって、洋式調練にあかるい藩士に会い、外国軍隊の制度をきいたりした。
これは、参考になった。参考というより、むしろ洋式軍隊の中隊組織を全面的にとり入れ、これに新選組の内部事情と歳三の独創を加えてみた。これが、このあたらしい剣客団の体制となった。
まず中隊付将校をつくる。
これを、助勤《じよきん》という名称にした。名称は、江戸湯島の昌平黌《しようへいこう》(幕府の学問所。東京大学の前身)の書生寮の自治制度からとった用語で、歳三はこれを物知りの山南敬助からきき、
「それァ、いい」
と、すぐ採用した。士官である助勤は内務では隊長の補佐官であり、実戦では小隊長となって一隊を指揮し、かつ、営外から通勤できる。その性格は、西洋の軍隊の中隊付将校とおなじであった。
隊長を、
「局長」
とよぶことにした。
ただ、芹沢系、近藤系の勢力関係から、局長を三人つくらねばならなかった。芹沢系から二人出て、芹沢鴨と新見錦。
近藤系からは、近藤勇。
その下に、二人の副長職をおいた。これは近藤系が占め、土方歳三、山南敬助。
「歳、なぜ局長にならねえ」
と、近藤がこわい顔をしたが、歳三は笑って答えなかった。隊内を工作して、やがては近藤をして総帥の位置につかしめるには、副長の機能を自由自在につかうことが一番いいことを歳三はよく知っている。
なぜなら、隊の機能上、助勤、監察という隊の士官を直接にぎっているのは、局長ではなく副長職であった。
助勤には、旗揚げ当時の連中の全員をつけさせ、それに新徴の士数人を加えた。助勤十四人、監察三人、諸役四人、これら士官は、圧倒的に近藤系をもって占めた。
(出来た)
歳三は、上機嫌であった。
すでに桜が散り、京に初夏が訪れようとしている。
隊旗もでき、制服もできた。新選組は名実ともに誕生した。歳三にとっては、かけがえのない作品のようにおもわれた。
桜がまだ散りきらぬころ、暮夜、市中見廻り中の近藤が、沖田、山南とともに、四条|烏丸《からすま》西入ル|鴻池《こうのいけ》京都屋敷の門前で、塀をのりこえて出ようとした押し込み浪人四、五人を斬り伏せたことを皮切りに、諸隊、毎夜のように市中で、「浮浪」を斬った。
当時、会津藩公用方のひとりであった広沢富次郎が、その随筆「鞅掌録《おうしようろく》」に、
浪士、一様に外套《がいとう》を着し、長刀地に曳き、大髪《だいはつ》、頭《かしら》をおほひ、形貌はなはだ偉《ふとぶと》しく、列をなしてゆく。逢ふ者、みな目をそむけ、これをおそる。
とある。
都大路の治安は、まったく新選組の手ににぎられた。ときには、大坂、奈良まで「出陣」し、浪士とみれば立ちどころに斬った。
このころである。
歳三は、建仁寺《けんにんじ》のある塔頭《たつちゆう》で会津藩公用方外島機兵衛と会談し、そのあと、沖田総司ひとりをつれて、大和大路を北にむかった。
風が、こころよい。
「木の芽のにおいまで、京はちがうような感じがするなあ」
と、沖田は、相変らずのんきそうだった。
「総司は、京が好きか」
「ええ」
沖田は、微妙に含み笑いをみせた。歳三は、この沖田が、相手がたれとまではつかめないが、淡い恋をおぼえているらしいことを、その言葉のはしばしで察していた。
「土方さんは、きらいですね。一体、京のどこがきらいなのだろう」
「土が赤すぎる。土というものは、ゆらい、黒かるべきものだ」
「武州では、黒いですからね。土方さんの好ききらいなんて、みなその伝《でん》だからな。私など、こまってしまう」
「なにが、こまる」
「べつにこまりはしないけど」
沖田はくすくす笑って、
「きっと、恋をなさらぬからですよ。京女に恋をなされば、土方さんはきっと変わると思いますね」
「なにをいやがる」
ふと、武州府中の社家の猿渡家《さわたりけ》のお佐絵が、九条関白家にいるはずだが、と思った。が、あの当時あれほど想った女の顔が、いま、おもいだそうにもおもいだせないのだ。京にのぼってから、すべての過去が、遠いむかしの出来事のようにおもわれる。
「武州では、いろんなことがあったな」
「あったといえば」
沖田は、急に話題をかえた。
「例の八王子の比留間道場の七里研之助が、いましきりと河原町の長州屋敷に出入りしているそうですよ」
「たれにきいた」
「藤堂さんが、たしかに昨日、長州屋敷に入るのをみた、といっています」
「ふむ」
歳三たちは四条通に出た。大橋を西へ越え、茶店で休息した。貸し提灯を借りるためであった。日が、暮れはじめている。鴨川《かもがわ》の水に、あちこちの料亭の灯がうつりはじめた。
往来を、人がゆく。黄昏《たそがれ》どきのこの通りの人の急ぎ足というのは、平素、悠長な町だけに格別な風情があった。
提灯が西へ過ぎる。
また群れをなして東へゆく。
その提灯の一つが、パッと消えた。
「総司。——」
歳三は、立ちあがった。
路上に血のにおいが立ち、落ちた提灯のそばで、人が斬られている。
都大路の治安は、まったく新選組の手ににぎられた。ときには、大坂、奈良まで「出陣」し、浪士とみれば立ちどころに斬った。
このころである。
歳三は、建仁寺《けんにんじ》のある塔頭《たつちゆう》で会津藩公用方外島機兵衛と会談し、そのあと、沖田総司ひとりをつれて、大和大路を北にむかった。
風が、こころよい。
「木の芽のにおいまで、京はちがうような感じがするなあ」
と、沖田は、相変らずのんきそうだった。
「総司は、京が好きか」
「ええ」
沖田は、微妙に含み笑いをみせた。歳三は、この沖田が、相手がたれとまではつかめないが、淡い恋をおぼえているらしいことを、その言葉のはしばしで察していた。
「土方さんは、きらいですね。一体、京のどこがきらいなのだろう」
「土が赤すぎる。土というものは、ゆらい、黒かるべきものだ」
「武州では、黒いですからね。土方さんの好ききらいなんて、みなその伝《でん》だからな。私など、こまってしまう」
「なにが、こまる」
「べつにこまりはしないけど」
沖田はくすくす笑って、
「きっと、恋をなさらぬからですよ。京女に恋をなされば、土方さんはきっと変わると思いますね」
「なにをいやがる」
ふと、武州府中の社家の猿渡家《さわたりけ》のお佐絵が、九条関白家にいるはずだが、と思った。が、あの当時あれほど想った女の顔が、いま、おもいだそうにもおもいだせないのだ。京にのぼってから、すべての過去が、遠いむかしの出来事のようにおもわれる。
「武州では、いろんなことがあったな」
「あったといえば」
沖田は、急に話題をかえた。
「例の八王子の比留間道場の七里研之助が、いましきりと河原町の長州屋敷に出入りしているそうですよ」
「たれにきいた」
「藤堂さんが、たしかに昨日、長州屋敷に入るのをみた、といっています」
「ふむ」
歳三たちは四条通に出た。大橋を西へ越え、茶店で休息した。貸し提灯を借りるためであった。日が、暮れはじめている。鴨川《かもがわ》の水に、あちこちの料亭の灯がうつりはじめた。
往来を、人がゆく。黄昏《たそがれ》どきのこの通りの人の急ぎ足というのは、平素、悠長な町だけに格別な風情があった。
提灯が西へ過ぎる。
また群れをなして東へゆく。
その提灯の一つが、パッと消えた。
「総司。——」
歳三は、立ちあがった。
路上に血のにおいが立ち、落ちた提灯のそばで、人が斬られている。