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燃えよ剣63

时间: 2020-05-26    进入日语论坛
核心提示:甲 鉄 艦話はかわる。江戸城の西ノ丸に本営をおく官軍総督府では、密偵や、外国公館筋からの報告で、北海道の状況をくわしく知
(单词翻译:双击或拖选)
甲 鉄 艦

話はかわる。
江戸城の西ノ丸に本営をおく官軍総督府では、密偵や、外国公館筋からの報告で、北海道の状況をくわしく知っていた。
毎日のように参謀会議がひらかれた。
「どうやら、北海道《えぞち》全土はかれらの手に帰したらしい」
という報道は、歳三の松前城占領の十日後には外国汽船によってもたらされていた。
その後数日たって、北海道政府の樹立がつたわり、政府要人の名簿まで伝えられた。
なにしろ横浜の外人間では、このうわさでもちきりであった。
「函館政府は、在函館の外国公館、商社、船長などをまねいて、盛大な祝賀会をやったらしい」
という報道も、横浜の英字新聞に載った。
フランス人などは、旧幕時代の関係で暗にこの政権に好意をもっており、条約まで結ぼうという動きがあるといううわさが、江戸城内にもつたわった。
さらに榎本は、英、仏、米、伊、蘭、独の各国公使を通じて、京都政権との併立和合をはかろうとして、精力的な文書活動をつづけている。
むろん新政府では、
「攻伐」
に決していた。
当然なことで、京都政権がせっかくできあがった早々、内乱敗北派による別の政権が北辺に成立しているのをだまっていては、唯一無二の正式政府としての対外信用が皆無になる。
「早急に」
というのが、薩長要人の一致した意向であった。
ただ、総参謀長の長州藩士大村益次郎だけは、早急討伐論に反対であった。
「まだ寒い」
というのが、戦術家がいった唯一の理由である。その門人の回想談では、益次郎の意向をこう伝えている。
 この冬にむかって、寒い土地に行っては、とても仕事がやりにくかろう。なにもいま騒ぐことはない。それに、むこうがべつに攻めてくるわけではない。来春がいい。陸軍は青森で冬籠りし、海軍もその間に軍艦を修繕して、すっかり準備しておくがよい。
 函館では、すでに選挙によって政府要人の顔ぶれをきめていた。
総裁は、榎本武揚である。
副総裁は、松平太郎であった。
海軍奉行は荒井郁之助。陸軍奉行は大鳥圭介。陸軍奉行並が、土方歳三。
ほかに、かつて旧幕府の若年寄だった永井玄蕃頭(尚志、旧称主水正)が首都の市長ともいうべき函館奉行、松前城には松前奉行をおき、漁港の江差には江差奉行、さらに開拓長官として開拓奉行などをおき、実戦部隊指揮官として、海軍頭《かいぐんがしら》、歩兵頭、砲兵頭、器械頭などの旧幕以来の職をもうけ、二十二人の練達者が選任された。

歳三は、五稜郭の本営にいる。
明治二年二月、官軍の艦船八隻が、品川沖で出航準備をととのえつつあるという情報が、函館の外国商社筋から入った。
さっそく軍議がひらかれた。
「軍艦は四隻です」
と榎本武揚はいった。
「運輸船は四隻。これに陸兵六千をのせてくるというはなしです。これだけの数字ならおそるるに足りないが、ただ、こまったことがある。軍艦のなかに甲鉄艦《ストーン・ウオール》がふくまれていることです」
一同の表情に、非常な驚きが走った。とくに海軍関係者はその軍艦の威力を知っているだけに驚きというだけでは済まされない。
恐怖といってよかった。
「土方さん」
榎本は、微笑をむけた。
「甲鉄艦のことはごぞんじでしょう」
馬鹿にしてやがる、とおもった。いくら歳三でもこの艦のことは知っている。
甲鉄艦はこの時期、おそらく世界的水準の強力艦であったろう。
旧幕府が米国に注文し、できたときは、幕府瓦解の直後であり、米国側はこれを横浜港にうかべ、
——国際法上の慣例により内乱がおさまるまで双方に渡せない。
と、どちらにも渡さなかった。
榎本も、品川沖出航の直前まで執拗に米国側とかけあったが、|らち《ヽヽ》があかない。
「大げさにいえば、あのときあの甲鉄艦さえ手に入っておれば、北海道《えぞち》防衛はあの一艦で間にあうほどのものです」
と、かつて榎本は北海道への航海中、歳三に語ったことがある。
この艦が、新政府側の大隈《おおくま》八太郎(のち重信《しげのぶ》)らの苦心の折衝で、ようやく手に入れることができ、海軍力のよわい官軍に強大な威力を加えることになった。
まだ、艦名はない。
木製だが甲鉄でつつんで鋲《びよう》で打ちとめてあるから、そういう通称がうまれたのであろう。
艦の大きさは函館政権の「回天」とさほどかわらないが、馬力が「回天」の四百にくらべ、千二百である。
備砲は四門。
数ははすくないが、三百|斤《ポンド》のガラナート砲、および七十斤の艦砲をそなえ、一弾で敵艦を粉砕できる日本最大の巨砲艦とされている。
 余談だが、この艦は、アメリカの南北戦争の最中に北軍の注文で建造されたもので、一艦もって南軍艦隊を破りうるといわれたほどのものであった。が、できあがったときには南軍政府が降伏し、戦争はおわっていた。
おりから幕府の軍艦買いつけ役人が渡米して、この新造艦を港内で見、ぜひゆずってほしいということで、話がついた。
ところが横浜に入ったときは、幕府がなくなっている。宿命的な軍艦といっていい。
この艦はのちに東艦《あずまかん》と命名され、二十数年後の日清戦争のときでもなお庶民のあいだで代表的軍艦として名を知られていた。
「日清談判破裂して、品川乗り出す東艦」
という日清戦争のときの唱歌は、この艦をうたったものだが、厳密には同艦は明治二十一年には老朽して船籍から除籍されている。
「榎本さん、その甲鉄艦は、南部領(岩手県)の宮古湾に寄港するでしょう」
と歳三はいった。
「当然、するでしょうな」
「そのときに襲ってこちらに奪いとってしまえばよろしい」
「………」
みな、あきれたような顔で歳三を見た。
(この無学者が)
というところであったろう。
歳三は、例のはれぼったい眼を薄眼にしてねむったように瞳を動かさない。
榎本だけは、しきりとうなずいている。すでに宮古湾の洋上で、歳三から、この夢のような戦術をきかされていたからである。
「しかし土方君、わがほうにすでに開陽がないのだ。あの当時とこちらの条件がちがっている」
と、榎本はいった。
開陽は昨秋十一月、江差の弁天島投錨地で台風に遭い、沈没してしまっていた。これによって函館の海軍力は半減した、といっていい。
「回天があるでしょう。蟠竜、高雄もある。陸軍の私がいうのは妙だが、とにかく海軍はわれわれを運んでくれるだけでよい。乗っ取るのは陸軍でやる。もっとも乗っ取ったあと艦を動かして帰るのは海軍だが」
「………」
みな沈黙した。といって好意的な沈黙ではなかった。旧幕府陸海軍の秀才たちは、こういう戦術を学んだことがない。
(まるで昔の倭寇《わこう》ではないか)
という感想であった。
このあと軍議は雑談におわって解散した。
 この函館海軍当局の恐怖が、函館居住の外国人によって新政府に報告され、その報告文が横浜の英字新聞「ヘラルド」に掲載された。
文中、「函館政府の将校たちは、甲鉄艦が近くやってくることに非常に恐怖している。そのせいか、海峡にたびたび捜索船を出しているようである。昨夜も、蒸気船二隻を出し、函館港の内外を航行させていた」とある。
この記事が大きく扱われているところからみても、横浜の外人にとって、函館政府の動きは重要な関心事だったにちがいない。
 歳三の案は、榎本の口から旧幕府の仏人軍事教師団に伝えられた。
ニコールという男が、
「それは外国の戦法にもある」
といったから、榎本はにわかに関心をもった。接舷攻撃《アボルダージ・ボールデイング》、というのである。
「土方君、外国にもあるそうだ」
「あるでしょう。戦さというものは、学問ではありませんよ。勝つ理屈というものは、日本も外国もちがうもんじゃない」
(そのとおりだ)
榎本も閉口し、眉をさげる特有の笑いかたで、歳三の肩をたたいた。
「私が負けた」
「私も船のことはわからないから回天艦長の甲賀源吾君にきいてみた。すると甲賀君は学問があるわりには」
と、歳三は榎本をみて苦笑し、
「いや、これは学問のあるあなたへの皮肉ではない。甲賀君は学者のわりには頭が素直なようです。出来そうだ、といってくれた。とにかく研究してみる、ということだった。軍艦はべつとして、陸兵は私が指揮をします」
「陸軍奉行みずからゆくべきじゃない」
「私は戦いに馴れている。近藤勇は甲州城を奪いそこねて恨みをのんで死んだが、その報酬に甲鉄艦を奪いたい」
「薩長はおどろくだろう」
榎本は、歳三が軍神のようにみえてきたらしい。外国人がよくするように手を握った。
「想像するだけでも愉快なことだ。土方さん、薩長にすればまさか新選組が軍艦に乗って斬りこんで来るとはおもうまい」
「これには諜報が要《い》る。かんじんなことは、むこうの艦隊がいつごろ宮古湾に来るのか」
「いや、今日あたり江戸の諜者からの手紙が英国船に託されて入ってくるはずだ。それをみればほぼ見当がつく」
 新政府は、艦隊の編成にこまった。政府の艦船としては、甲鉄艦一隻、輸送船は飛竜丸一隻きりである。
他は、旧幕以来、諸藩が外国から購入した艦船をあつめざるをえなかった。
そうした艦船が品川沖にあつまってきて、艦隊、船隊を組みおわったのは、明治二年三月のはじめである。
軍艦は四隻、汽船は四隻であった。
甲鉄艦を旗艦とし、これにつぐ軍艦としては、薩摩藩の「春日」(一二六九トン)がわずかに期待される程度である。
のこる二隻は、長州藩の「第一|丁卯《ていぼう》」(一二〇トン)、秋田藩の「陽春」(五三〇トン)であるが、大きさ、速力、威力は函館側とくらべれば問題にならない。
彼女らは、三月九日、いっせいに錨をあげて出航した。
この旨は、横浜に潜伏している函館政府の間諜(外国人か)から報告されて、日ならず函館政府は知った。その報告には「宮古湾寄港は十七日か十八日」と書かれていた(麦叢録)。
官軍艦隊の第二艦「春日」(薩摩藩)に、のちの東郷平八郎が、二十三歳の三等士官として乗り組んでいた。
乗組士官は、艦長が赤塚源六、副長格が黒田喜左衛門。ほかに谷元《たにもと》良助、隈崎《くまざき》佐七郎、東郷平八郎。
この無口な若者は、砲術士官として舷側砲をうけもっている。
「東郷元帥の経歴のふしぎさは、わが国におけるあらゆる海戦に参加したことである」
と、のちに小笠原|長生《ながなり》翁が書いているように、これほど戦さ運にめぐまれた人物は外国の例にもないといわれる。
——あれは天運のついた男だ。
というのが、日露戦争の直前、海軍大臣山本権兵衛が、当時閑職の舞鶴鎮守府長官として予備役編入を待つだけの運命であった東郷(当時中将)を連合艦隊司令長官に任命した理由だったという。
明治天皇が、なぜ東郷をえらぶのか、と山本海相にその選考理由を下問したときも、
「ここに幾人かの候補者がいます。技術は甲乙ございませぬ。ただ東郷のみは運の憑《つ》きがよろしゅうございます」
と答えた。
「春日」の乗組士官である薩摩藩士東郷は、かつて榎本の率いる幕府艦隊と阿波沖で交戦している。
慶応四年正月、鳥羽伏見の戦いの真最中での出来事で、当時「春日」は兵庫港にあり、同藩の汽船二隻を護送して藩地へ帰る命をうけていた。
四日朝、大坂湾をはなれて阿波沖にさしかかったとき、榎本の坐乗する日本最大の軍艦「開陽」に遭遇した。
むろん、「開陽」にかなうはずがない。「春日」は快速を利用して離脱しようとしたが、榎本はぐんぐん艦をちかづけて交戦を強《し》いた。
榎本は、十三門の右舷砲の火門をいっせいにひらかせて、砲撃した。
が、一発も「春日」にあたらない。なにしろ、艦は大きく、海軍技術ははるかに幕軍のほうがすぐれているはずなのに、撃ち出す砲弾はすべて「春日」の前後左右で水煙をあげるのみであった。
ついに「開陽」は、わずか千二百メートルの近距離にまでせまった。
このとき東郷みずからが操作する左舷四十|斤《ポンド》施条砲《せじようほう》が、はじめて火蓋《ひぶた》を切った。
これが一発で、「開陽」に命中し、第二弾、第三弾もいずれも命中した。
この海戦は、この国における洋式軍艦による最初の海戦であった。
この記念すべき戦闘で、海軍に熟達しているはずの「開陽」乗組員が、百発ちかい砲弾を発射したにもかかわらず、一発も命中しなかった。運がわるい、というほかない。
——東郷は運がいい。
という山本権兵衛の最初の印象は、この初一発の命中であったろう。「春日」は無事離脱して鹿児島へ帰っている。
 官軍艦隊は北上をつづけたが、途中何度か時化《しけ》にあい、宮古湾寄港が予定よりもずっと遅れた。
五稜郭にある榎本は、海軍奉行荒井郁之助をして、しきりと宮古湾周辺まで斥候船を出させている。
陸軍奉行並の歳三は、軍服に乗馬用の長靴をはき、函館港内に繋留している「回天」に乗りこんで毎日のように「斬り込み隊」の訓練をしていた。
「よいか、人を斬る剣は所詮は度胸である。剣技はつまるところ、面《めん》の斬撃《ざんげき》と、突き以外にない。ならい覚えた区々たる剣技の末梢をわすれることだ」
と歳三は、甲板上で右足を踏み出し、ぎらりと和泉守兼定をぬいた。
瞬間、凄味があたりに満ち、陸兵も海員もみな声をのんだ。京都のころ、史上、もっとも多くの武士を斬ってきた男が、ここで殺人法の実技をみせようとしている。
歳三の眼の前に、ハンモックが、袋に包んで立てられている。
踏みこんだ。
和泉守兼定が陽光にきらめいたかと思うと、そのハンモックはタテ真二つになってころがった。
「腰を」
歳三は自分の腰をたたいた。
「腰をぐっと押して行って相手の臍《へそ》にくっつけるところまで行って斬れ。切尖《きつさき》で切るのは臆病者のやることだ。刀はかならず物打《ものうち》で切る。逃げながら相手の胴を払ったり、籠手をたたいて身をかわすような小技《こわざ》はするな」
聞いている連中も、各隊よりすぐりの剣客だから素人ではない。
選ばれたのは、
新選組からは、野村利三郎、大島寅雄など二十人。
彰義隊からは、笠間金八郎、加藤作太郎、伊藤弥七など二十数人。
神木隊《しんぼくたい》からは、三宅八五郎、川崎金次郎、古橋丁蔵、酒井|★[#金+扇]之助《せんのすけ》、同良祐など二十数人である。
どの男も、京都、鳥羽伏見、上野戦争、東北戦争、蝦夷地《えぞち》鎮定戦などで死地のなかを何度もくぐってきた連中である。
 三月二十日夜十二時、かれらは三艦に分乗し、函館の町の灯をあとにして、ひそかに北海道を離れた。
「回天」は先頭にあり、艦尾に白燈をともして後続艦を誘導した。
宮古へゆく。
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