歳三は函館政府軍における唯一の常勝将軍であった。
この男がわずか一個大隊でまもっていた二股の嶮は、十数日にわたって微塵もゆるがず、押しよせる官軍がことごとく撃退された。
歳三の生涯でもっとも楽しい期間の一つだったろう。
兵も、この喧嘩師の下で|★[#口+喜]々《きき》として働いた。
一日一銃で一千余発を射撃したお調子者もあり、そういう男どもの顔は煙硝の|かす《ヽヽ》で真黒になった。
銃身が焼けて装填《そうてん》装置が動かなくなった。熱くて手に火傷をおい、皮がやぶれた。
歳三は、ふもとから水桶を百ばかり運ばせて、銃を水につけては、射たせた。水冷式の射撃戦をした男など、同時代のヨーロッパにも、いなかったのではないか。
「弾はいくらでもある、射って射って射ちまくれ」
と、陣地々々をまわっては、激励した。
この男の一軍が蟠踞《ばんきよ》している、
「二股」
という峠は、函館湾の背後の山嶺群の一つで、函館市内から十里。日本海岸江差から函館へ入る間道が走っており、函館港を背後から衝こうとする官軍は当然ここを通らねばならなかった。
戦略地理的な類型を求めれば、日露戦争の旅順港攻防戦における松樹山《しようじゆざん》、二〇三高地といったものに相当しており、ここが陥ちれば函館の市街は眼下に見おろされ、裸になったのと同然であった。日露戦争といえば、榎本武揚がステッセル将軍に相当するであろう。頭がよく、学識がある。ただ、どちらも若いころから物に飽きっぽい(江戸を脱走して榎本軍に加わった幕臣心形一刀流宗家伊庭八郎は、江戸を出るとき、末弟の想太郎にいったという。「榎本という人は意思の薄弱な人だから、この戦いは終りまで為し遂げることはできない」と。当時榎本にはそういう評価がわりあい行なわれていた)。
旅順の露西亜陸軍でいえば、土方歳三はコンドラチェンコ少将に酷似している。どちらも育ちがわるい。学問がないが、最も戦さ好きでしかも巧者であり、将士の信望を一身にあつめていた。コンドラチェンコ少将の戦死後、旅順の士気がにわかに衰え、あれほど早期に開城せざるをえなくなった最も主な原因の一つをつくった。
二股は、現在《いま》、中山峠とか鶉越《うずらごえ》という名でふつう呼ばれている。
峠道は、北方の袴腰山《はかまごしやま》(六一三メートル)と南の桂岳《かつらだけ》(七三四メートル)とのあいだを走っており、歳三の当時には馬が一頭、やっと通れる程度のせまさであった。
天峻といえる。
歳三はこの道の上に最近函館の外国商館から買い入れた西洋式司令部天幕を張り、部下にも携帯天幕を張らせて野営させた。
身辺に、新選組隊士はいない。数人残っているのだが、諸隊の隊長などをして各地にちらばっているため、二股陣地では洋式訓練兵ばかりであった。
五稜郭の本営からは、榎本の伝令将校が毎日のように来る。
榎本は、戦況が心配でならないらしい。
「だいじょうぶだよ」
としか、歳三もいわない。
何度目かに歳三は、「馬のわらじを損ずるだけだ。戦況に変化があればこちらから報らせる。薩長は天下をとったが、二股だけはとれぬといっておいてくれ」と、この男にはめずらしく広言をはいた。
司令部幕舎の中には、仏人の軍事教師ホルタンも同居している。
陣中、歳三が句帳にしきりと俳句をかきつけていると、ひどくめずらしがって、それは何か、とたずねた。
「ハイカイだよ」
歳三はぶっきら棒に答えると、仏語のややわかる吉沢大二郎という歩兵|頭《がしら》が通訳した。
峠道は、北方の袴腰山《はかまごしやま》(六一三メートル)と南の桂岳《かつらだけ》(七三四メートル)とのあいだを走っており、歳三の当時には馬が一頭、やっと通れる程度のせまさであった。
天峻といえる。
歳三はこの道の上に最近函館の外国商館から買い入れた西洋式司令部天幕を張り、部下にも携帯天幕を張らせて野営させた。
身辺に、新選組隊士はいない。数人残っているのだが、諸隊の隊長などをして各地にちらばっているため、二股陣地では洋式訓練兵ばかりであった。
五稜郭の本営からは、榎本の伝令将校が毎日のように来る。
榎本は、戦況が心配でならないらしい。
「だいじょうぶだよ」
としか、歳三もいわない。
何度目かに歳三は、「馬のわらじを損ずるだけだ。戦況に変化があればこちらから報らせる。薩長は天下をとったが、二股だけはとれぬといっておいてくれ」と、この男にはめずらしく広言をはいた。
司令部幕舎の中には、仏人の軍事教師ホルタンも同居している。
陣中、歳三が句帳にしきりと俳句をかきつけていると、ひどくめずらしがって、それは何か、とたずねた。
「ハイカイだよ」
歳三はぶっきら棒に答えると、仏語のややわかる吉沢大二郎という歩兵|頭《がしら》が通訳した。
シノビリカいづこで見ても蝦夷の月
そう句帳にある。
シノビリカとは歳三がこの地にきて覚えた唯一のアイヌ語である。「ひどく佳《よ》い」という意味らしい。
「閣下は芸術家《あるていすと》か」
と、この仏国陸軍の下士官はちょっと妙な顔をしていった。
「あるていすと、とは何だ」
と、歳三はきいた。歩兵頭は、「歌よみ、絵師のことだと思います」といった。もっとも|ある《ヽヽ》てい《ヽヽ》すと《ヽヽ》には、「名人」とか「奇妙な人」という意味もある。歳三は、その奇妙なひとのほうかもしれなかった。
戦いというものに、芸術家に似た欲望をこの男はもっている。
榎本武揚、大鳥圭介などは、この戦争についてのかれらなりの世界観と信念とをもっていた。どうみてもかれらは戦争屋というより、政治家であった。その政治思想を貫くべく、この戦争をおこした。
が、歳三は、無償である。
芸術家が芸術そのものが目標であるように、歳三は喧嘩そのものが目標で喧嘩をしている。
そういう純粋動機でこの蝦夷地へやってきている。どうみても榎本軍幹部のなかでは、
「奇妙な人」
であった。
あるいはこの仏国下士官はそういう意味で旦那は|ある《ヽヽ》てい《ヽヽ》すと《ヽヽ》かとたずねたのかもしれない。
二股の攻防戦では、歳三はほとんど芸術家的昂奮でこの戦さを創造した。
血と刀と弾薬が、歳三の芸術の材料であった。
官軍の現地司令部は、しきりと東京へ援軍を乞うた。
歳三らのすさまじい戦いぶりについて、それらの手紙には、窮鼠《きゆうそ》必死の勁敵《けいてき》とか、余程|狡猾《こうかつ》、何分練磨、などという極端な表現がつかわれており、薩摩出身参謀の黒田了介(清隆)は自軍の弱さをなげき、
「この官軍(つまり諸藩混成の)ではとても勝算はむずかしい。薩摩兵と長州藩のみが強い。わが藩以外に頼むは長州兵のみで、他の藩兵は賊よりも数等落ちる。歎息の至りである。ねがわくば後策(増援)望み奉る次第である」
と東京へ書き送っている。
ところが、十六日にいたって官軍陸軍の増援部隊が松前に上陸し、さらに艦隊の沿岸砲撃が予想以上に奏功しはじめてから、形勢が一変した。
歳三の二股陣地に各地の敗報がぞくぞくととどいた。
十七日松前城が陥落し、二十二日には大鳥圭介がまもる木古内陣地(函館湾まで海岸線七里の地点)が陥ち、このため官軍艦隊が直接函館港を攻撃する態勢をとりはじめた。
「だらしがねえ」
二股の|ある《ヽヽ》てい《ヽヽ》すと《ヽヽ》は、憤慨した。もはや前線で日章旗があがっているのは、歳三の陣地だけとなった。
官軍は、各地の陣地を掃蕩《そうとう》して大軍を二股のふもとに集め、いよいよ四月二十三日をもって猛攻撃を開始した。
「来やがったか」
歳三は山上で、京のころ「役者のようだ」といわれた厚ぼったい二重まぶたの眼を、細く光らせた。
激闘は、三昼夜にわたった。官軍は十数度にわたって撃退されたが、なおも攻撃をくりかえしてくる。ついに二十五日の未明、歳三は剣術精練の者二百人をえらび、抜刀隊を組織してみずから突撃隊長になった。
旗手には、とくに日章旗は持たさず、緋羅紗《ひラシヤ》の地に「誠」の文字を染めぬいた新選組の旗をもたせた。
「官軍には鬼門すじの旗さ」
と、二百人の先頭に立って路上にとびだし、銃隊に援護させつつ、十町にわたる長距離突撃をやってのけた。
激突した。
歳三は斬りまくった。頃を見はからって抜刀隊を両側の崖に伏せさせる。そこへ銃隊が進出して射つ。さらに抜刀隊が駈けこむ。
それを十数度繰りかえすうち、官軍はたまらずに潰走《かいそう》しはじめた。
すかさず歳三は山上待機の本隊に総攻撃を命じ、
「一兵も余すな」
と突進した。
官軍は大半が斃れ、長州出身の軍監駒井政五郎もこのとき戦死した。
シノビリカとは歳三がこの地にきて覚えた唯一のアイヌ語である。「ひどく佳《よ》い」という意味らしい。
「閣下は芸術家《あるていすと》か」
と、この仏国陸軍の下士官はちょっと妙な顔をしていった。
「あるていすと、とは何だ」
と、歳三はきいた。歩兵頭は、「歌よみ、絵師のことだと思います」といった。もっとも|ある《ヽヽ》てい《ヽヽ》すと《ヽヽ》には、「名人」とか「奇妙な人」という意味もある。歳三は、その奇妙なひとのほうかもしれなかった。
戦いというものに、芸術家に似た欲望をこの男はもっている。
榎本武揚、大鳥圭介などは、この戦争についてのかれらなりの世界観と信念とをもっていた。どうみてもかれらは戦争屋というより、政治家であった。その政治思想を貫くべく、この戦争をおこした。
が、歳三は、無償である。
芸術家が芸術そのものが目標であるように、歳三は喧嘩そのものが目標で喧嘩をしている。
そういう純粋動機でこの蝦夷地へやってきている。どうみても榎本軍幹部のなかでは、
「奇妙な人」
であった。
あるいはこの仏国下士官はそういう意味で旦那は|ある《ヽヽ》てい《ヽヽ》すと《ヽヽ》かとたずねたのかもしれない。
二股の攻防戦では、歳三はほとんど芸術家的昂奮でこの戦さを創造した。
血と刀と弾薬が、歳三の芸術の材料であった。
官軍の現地司令部は、しきりと東京へ援軍を乞うた。
歳三らのすさまじい戦いぶりについて、それらの手紙には、窮鼠《きゆうそ》必死の勁敵《けいてき》とか、余程|狡猾《こうかつ》、何分練磨、などという極端な表現がつかわれており、薩摩出身参謀の黒田了介(清隆)は自軍の弱さをなげき、
「この官軍(つまり諸藩混成の)ではとても勝算はむずかしい。薩摩兵と長州藩のみが強い。わが藩以外に頼むは長州兵のみで、他の藩兵は賊よりも数等落ちる。歎息の至りである。ねがわくば後策(増援)望み奉る次第である」
と東京へ書き送っている。
ところが、十六日にいたって官軍陸軍の増援部隊が松前に上陸し、さらに艦隊の沿岸砲撃が予想以上に奏功しはじめてから、形勢が一変した。
歳三の二股陣地に各地の敗報がぞくぞくととどいた。
十七日松前城が陥落し、二十二日には大鳥圭介がまもる木古内陣地(函館湾まで海岸線七里の地点)が陥ち、このため官軍艦隊が直接函館港を攻撃する態勢をとりはじめた。
「だらしがねえ」
二股の|ある《ヽヽ》てい《ヽヽ》すと《ヽヽ》は、憤慨した。もはや前線で日章旗があがっているのは、歳三の陣地だけとなった。
官軍は、各地の陣地を掃蕩《そうとう》して大軍を二股のふもとに集め、いよいよ四月二十三日をもって猛攻撃を開始した。
「来やがったか」
歳三は山上で、京のころ「役者のようだ」といわれた厚ぼったい二重まぶたの眼を、細く光らせた。
激闘は、三昼夜にわたった。官軍は十数度にわたって撃退されたが、なおも攻撃をくりかえしてくる。ついに二十五日の未明、歳三は剣術精練の者二百人をえらび、抜刀隊を組織してみずから突撃隊長になった。
旗手には、とくに日章旗は持たさず、緋羅紗《ひラシヤ》の地に「誠」の文字を染めぬいた新選組の旗をもたせた。
「官軍には鬼門すじの旗さ」
と、二百人の先頭に立って路上にとびだし、銃隊に援護させつつ、十町にわたる長距離突撃をやってのけた。
激突した。
歳三は斬りまくった。頃を見はからって抜刀隊を両側の崖に伏せさせる。そこへ銃隊が進出して射つ。さらに抜刀隊が駈けこむ。
それを十数度繰りかえすうち、官軍はたまらずに潰走《かいそう》しはじめた。
すかさず歳三は山上待機の本隊に総攻撃を命じ、
「一兵も余すな」
と突進した。
官軍は大半が斃れ、長州出身の軍監駒井政五郎もこのとき戦死した。
が、他の戦線は潰滅総退却の現状にあり、五稜郭本営の榎本は、ついに戦線を縮小して、亀田の五稜郭と函館市街の防衛のみに作戦を局限しようとした。
(榎本は降伏する気だな)
と歳三が直感したのはこのときである。
なぜなら、二股放棄を勧告にきた伝令将校に生色がなかった。
その顔色で本営の空気を察することができた。
「ここは勝っている」
と、歳三は動かなかった。
が、伝令将校の口からおどろくべき戦況をきいた。
二股から函館への通路にあたる矢不来の陣地が敵の艦砲射撃で陥ちたという。もし官軍が入ってくれば、土方軍は孤軍になる。
やむなく十数日にわたって官軍を撃退しつづけてきた二股の陣地をくだり、歳三は亀田の五稜郭に帰営した。
「土方さん、よくやっていただいた」
と、榎本は城門で馬上の歳三を迎え、帰陣将士にもいちいち涙をためて目礼した。
榎本にはこういうところがあり、それが人徳になって一種の統率力にまでなっていた。
歳三も、近藤にはなかったそういう榎本の一面がきらいではない。しかしこの場合、その涙は余計であった。士気に影響した。
みな予想していた以上の敗色を、榎本の涙でさとった。
さらに帰営して驚いたのは、大鳥が率いていた幕府歩兵が数百人脱走してしまっていたことである。
どうせ根は武士ではなく、江戸、大坂でかきあつめた町人どもで、いざ敗戦となれば性根がない。
が、その脱走の事実を知って、歳三の戦勝部隊にいる歩兵も動揺し、帰陣後十日ほどのあいだに百人は姿を消した。
それにさらに衝撃をあたえたのは、函館政府軍の虎の子というべき軍艦が、つぎつぎと喪《うしな》われたことである。すでに高雄がなく、千代田形艦が函館弁天崎沖で坐礁し、最大の戦力であった回天も函館港内の海戦中五発の砲弾をうけて浅瀬に乗りあげ、無力化した。
残る蟠竜も、機関故障で機能をうしない、榎本がもっとも頼みにしていた海軍は全滅した。この全滅が、榎本をはじめ海軍出身の幹部にあたえた衝撃は大きく、かれらの意気|銷沈《しようちん》が全軍の士気を弱めた。
全滅は五月十一日で、このときから官軍艦隊は全艦、函館港に入った。
五稜郭本営では、この海軍全滅の日、もっとも緊張した空気のなかで軍議がひらかれた。
「どうする」
というのである。
が、野戦陣地はつぶされたとはいえ、五稜郭のほかに、函館港の弁天崎砲台、千代ケ|岱《たい》砲台はまだ健在であった。
「籠城がよかろう」
という意見は、大鳥圭介である。
が、榎本も松平太郎も、出戦論を主張した。
歳三は、相変らずだまっていた。もはや、どうみても勝目はない。
「私は、どちらでもいい」
と、意味のとおらぬことをいった。どちらにしても、負けることにきまっているのだ。
歳三は自分が死ぬことだけを考えるようになっていた。
函館政府がどう生き残るかという防衛論には興味をうしなってしまっている。
「それでは意見にならぬ」
と大鳥がいった。
「すると大鳥さん、この軍議はどうすれば勝つ、という軍議なのか」
「当然なことだ。それが軍議ではないか。あなたは何を考えている」
「驚いている」
と歳三はいった。
「なにが?」
「勝てるつもりかね」
歳三は、生真面目な表情でいった。
「勝つつもりの軍議なら、事ここに至ればむだなことだ。しかし戦さをするだけの軍議なら私も思案がある」
「戦さは勝つためにするものではないか」
「まあ、続けていただく。私は聞き役にまわろう」
一方、官軍の司令部では、すでに五稜郭の本営に対し降伏勧告の準備をしつつあり、正式の招降使を出す前に、五稜郭出入りの商人を通じて、うわさ程度のものをしきりと流して城内の反応を打診しようとした。
これをきいたとき、榎本以下の五稜郭の諸将はいずれも一笑に付したが、しかし部下の将士のあいだには、
「榎本は降伏するのではないか」
という疑惑がひろがった。
これが、千代ケ岱の守将中島三郎助の耳にまできこえ、馬を飛ばしてやってきた。
中島三郎助はかつて浦賀奉行所の与力だった人物で、嘉永六年六月三日、ペリーが来航したとき、小船に乗って訊問応接に出かけたことで知られている。
その後、幕命によって長崎で軍艦操練法を学び、のち軍艦操練所教授方頭取となったが、榎本はかつてその下僚であった。
幕府の末期には両御番上席格の軍艦役で、病身のため実役にはついていなかった。
幕府瓦解とともに長男恒太郎、次男英次郎とともに榎本に従って函館に走り、五稜郭の支城ともいうべき千代ケ岱砲台の守備隊長になっている。四十九。
詩文音曲にたくみでしかも洋学教育をうけた、というその教養からはおよそかけはなれた古武士然とした人物で、性格はひどくはげしい。
のち、榎本が降伏して五稜郭を開城してからもこの人物とその千代ケ岱砲台だけは降伏せず、五月十五日、官軍の猛攻をうけて奮戦のすえ、二児とともに戦死した。
「うわさはまさか、真実ではなかろうな」
と、本営の洋室に入ってきた。あいにく室内には歳三しかいなかった。歳三はこのときも、丹念に長靴をみがいていた。
「なんのことです」
と歳三はふりむいた。中島はこの男の主義で、和服である。開戦前は函館奉行をつとめていた。
「あ、土方殿か」
うしろ姿をみて、榎本とまちがえたらしい。
「土方ですが」
「貴殿でもいい。ご存じでござろう。風聞では、榎本が降伏すると申すが、まさか真実ではござるまいな」
「存じません。歩兵どもの間での他愛もないうわさでしょう」
「それならよいが」
と、中島三郎助は椅子をひきよせて腰をおろし、歳三をのぞきこむようにして、「土方殿」といった。
「こういっては何だが、榎本という男はいざとなれば存外腰の砕けやすい男だ。私は軍艦操練所のころ、かれを下僚にしていたからよく存じている。もし、いや仮に、でござる、榎本が降伏すると云いだせば、陸軍奉行たる貴殿はどうなさる」
「さあ」
歳三は、こまったような表情をした。かれはもはや他人《ひと》はひと、自分は自分という心境のなかにいる。
「私は身勝手なようだが、榎本がどうするにせよべつに異論はない。ただ私自身はどうするのかときかれれば、答えることができる」
「どうなさる」
「私にはむかし、近藤という仲間がいた。板橋で不運にも官軍の刃で死んだ。もし私がここで生き残れば」
歳三は、ふとだまった。
べつに他人に云うべきすじあいのことではないとおもったのだ、靴をみがきはじめた。
近藤は地下にいる。
もしここで自分が榎本や大鳥らとともに生き残れば地下の近藤にあわせる顔がない、と歳三は靴をみがきながらごくあたりまえのいわば世間話のような気安さでそのことを考えている。
これをきいたとき、榎本以下の五稜郭の諸将はいずれも一笑に付したが、しかし部下の将士のあいだには、
「榎本は降伏するのではないか」
という疑惑がひろがった。
これが、千代ケ岱の守将中島三郎助の耳にまできこえ、馬を飛ばしてやってきた。
中島三郎助はかつて浦賀奉行所の与力だった人物で、嘉永六年六月三日、ペリーが来航したとき、小船に乗って訊問応接に出かけたことで知られている。
その後、幕命によって長崎で軍艦操練法を学び、のち軍艦操練所教授方頭取となったが、榎本はかつてその下僚であった。
幕府の末期には両御番上席格の軍艦役で、病身のため実役にはついていなかった。
幕府瓦解とともに長男恒太郎、次男英次郎とともに榎本に従って函館に走り、五稜郭の支城ともいうべき千代ケ岱砲台の守備隊長になっている。四十九。
詩文音曲にたくみでしかも洋学教育をうけた、というその教養からはおよそかけはなれた古武士然とした人物で、性格はひどくはげしい。
のち、榎本が降伏して五稜郭を開城してからもこの人物とその千代ケ岱砲台だけは降伏せず、五月十五日、官軍の猛攻をうけて奮戦のすえ、二児とともに戦死した。
「うわさはまさか、真実ではなかろうな」
と、本営の洋室に入ってきた。あいにく室内には歳三しかいなかった。歳三はこのときも、丹念に長靴をみがいていた。
「なんのことです」
と歳三はふりむいた。中島はこの男の主義で、和服である。開戦前は函館奉行をつとめていた。
「あ、土方殿か」
うしろ姿をみて、榎本とまちがえたらしい。
「土方ですが」
「貴殿でもいい。ご存じでござろう。風聞では、榎本が降伏すると申すが、まさか真実ではござるまいな」
「存じません。歩兵どもの間での他愛もないうわさでしょう」
「それならよいが」
と、中島三郎助は椅子をひきよせて腰をおろし、歳三をのぞきこむようにして、「土方殿」といった。
「こういっては何だが、榎本という男はいざとなれば存外腰の砕けやすい男だ。私は軍艦操練所のころ、かれを下僚にしていたからよく存じている。もし、いや仮に、でござる、榎本が降伏すると云いだせば、陸軍奉行たる貴殿はどうなさる」
「さあ」
歳三は、こまったような表情をした。かれはもはや他人《ひと》はひと、自分は自分という心境のなかにいる。
「私は身勝手なようだが、榎本がどうするにせよべつに異論はない。ただ私自身はどうするのかときかれれば、答えることができる」
「どうなさる」
「私にはむかし、近藤という仲間がいた。板橋で不運にも官軍の刃で死んだ。もし私がここで生き残れば」
歳三は、ふとだまった。
べつに他人に云うべきすじあいのことではないとおもったのだ、靴をみがきはじめた。
近藤は地下にいる。
もしここで自分が榎本や大鳥らとともに生き残れば地下の近藤にあわせる顔がない、と歳三は靴をみがきながらごくあたりまえのいわば世間話のような気安さでそのことを考えている。