格別、珍しいことでもない。
出席をとって、返事のない生徒は、〈欠席〉なのである。
安東令子は今年四十歳。教師として、もう二十年近いキャリアを経て来ていて、出席をとる、なんてことは呼吸するのと同様、ほとんど無意識の内にこなすことができた。
そのとき、安東令子は、
「栗田さん」
と呼んだのだった。「栗田みゆきさん」
当然、返事があると思って、手にしたボールペンは早くも〇印を半分書いてしまっていた。しかし──返事はなく、
「栗田さん?」
と、出席簿から顔を上げた。
この教室へ入って来たとき、安東令子は栗田みゆきを見たような気がしていたので、当然出席と思ったのである。
確か、あの子は窓際の席で……。
そう。──確かに栗田みゆきはいつもの席に座っている。
「栗田さん。──何をぼんやりしてるの?」
安東令子は、極力叱《 しか》るような言い方にならないよう気を付けながら言った。
栗田みゆきは、おとなしい、真面目な生徒だった。おしゃべりするのを生れついての権利と思っている最近の子とは違っていた。
だから、たまにぼんやりすることがあっても叱るまいと思ったのである。
だが、どうも様子がおかしかった。少々ぼんやりしていても、これだけくり返し呼ばれたら気が付くはずだ。
周囲の席の子たちが振り向いて、
「みゆき。──みゆき!」
と、声をかけた。
それでも、栗田みゆきはじっと前方を見つめたまま、動かない。
「顔色が悪いようね。──気分でも悪い?」
と、安東令子はメガネを直して、机の間を歩いて行った。「栗田さん、聞いてる?」
と、突然──栗田みゆきが飛び上るように立ち上ったのである。そして、
「来ないで!」
と、耳をつんざくばかりの叫び声を上げた。「近寄らないで! 放っといて! 私のことなんか、放っといて!」
ほとんど、言葉になっていないほどの金切り声だった。誰もが唖《 あ》 然《 ぜん》として、動くこともできない。
「やめて!──やめて!──触らないで! やめて! いやよ! いやよ!」
髪を振り乱し、全身をよじるようにして、栗田みゆきは叫んだ。
「しっかりして! 栗田さん! 落ちつくのよ!」
やっと我に返った安東令子は、みゆきの肩をつかんだ。すぐにみゆきは身をよじって逃れたが、教師は追いすがるようにして抱きしめると、
「誰か、手を貸して!」
と怒鳴った。
その前から、席を立って駆けつけて来ていたのは、間近紀《 のり》 子《 こ》だった。しっかりした子である。
が、紀子の席は大分離れていた。栗田みゆきは、窓に体ごとぶつかって、ガラスが割れた。
「危い!」
と、間近紀子は叫んで、間の机の上に飛び上ると、宙を飛んで、もみ合う二人の上に落ちた。
だが、紀子が捕まえることができたのは一人だけだった。一瞬早く、もう一人の体は割れた窓のガラス片と共に外へ落ちていたのだ。
声にならない悲鳴がクラスの中に満ちた。
紀子は起き上って、
「みどり!──先生は?」
と叫んだ。
しっかりと、みゆきを床の上に押えつけている。紀子の親友の伊東みどりが駆けて来て、窓から下を見た。
「落ちてる」
みどりの声は上ずっていた。「下の……テラスに……。倒れてるわ、血を吐いて」
一斉にクラスの子たちが立ち上る。
「みどり! 早く先生たちを呼んで!」
紀子は、なおも暴れようとする栗田みゆきを必死で押えつけた。「誰か、手を貸して! みゆきを押えて!」
しかし、誰もが呆《ぼう》然《ぜん》とし、まるで悪い夢でも見ているみたいに、突っ立っていた。
紀子は、みゆきの爪《 つめ》で顔を引っかかれ、殴られながらも、押えつける手を緩めなかった。
みどりが男の先生数人を呼んで来たとき、紀子の制服はほとんどボタンが飛び、ブラウスは裂けてしまっていた。
「──よし、間近、任せろ!」
と、男の教師が代ってくれて、やっと紀子は床へ転がるようにして逃れた。
「紀子! 大丈夫?」
みどりが駆けて来て、「急いだんだけど──」
「分ってるわ。大したことない。引っかき傷くらいよ」
と、ぐったり椅《い》子《す》に座り込んで、 「安東先生は?」
「今、先生たちが──」
と言いかけたとき、学年主任のベテラン、水上の禿《 は》げ上った頭が見えた。
「何ごとだ! 一体何があったんだ?」
真っ赤な顔でやって来ると、紀子の様子を見て、
「──喧《 けん》嘩《 か》でもしたのか」
と言った。
「違います! 私、みゆきを……」
振り向くと、栗田みゆきが急にぐったりと気を失ってしまった。
「──気絶した。ヒステリーか?」
「水上先生。安東先生は?」
水上はチラッと腹立たしげな表情を見せると、
「亡くなった」
と言った。
水上が怒っているのは、こんなことを起こした生徒にではなく、こんなことが起こったということ、それ自体になのだと、紀子は分っていた……。