どうして、団地の中には公園があるのかしら?
──真田充江は、自分でも理由はよく分らないのに、そんなことを考えていた。
もう夫が帰って来る。そう、夜遅いんだもの。
それとも、まだ早いのかしら? 時間の感覚が、このところ少しおかしい。
あの薬のせいだろうか。それとも……。
でも、私にだって分る。今が夜だってことぐらいは。こんなに暗いんだもの。
充江は、公園のベンチに座っていた。
確かに、団地の中にはたいてい公園がある。そして公園には池がある。
風が少し冷たい。──昼間は、子供を喜ばせに連れて来る母親たちのにぎやかな笑い声で埋る公園も、日が暮れると砂漠のように無人の地となる。
充江は、ベンチに座って池を眺めながら、自分がどんどん地面の中へ沈み込んでいくように感じていた。地中に沈んで、やがて灰になって消えてしまう。
いっそ──いっそそうなってしまえばいいのに。
「お金を持ってらっしゃい!」
あの、倉田信子の声が、今も充江の耳の中に響いて消えない。
充江は頭を下げて頼んだ。いや、哀願した。しまいには、倉田信子の所の玄関に膝《 ひざ》をついて、祈るようにすがった。
「あの薬を下さい……」
と言って──。
しかし、倉田信子はただ冷ややかに笑って、
「あげるわよ。三万円持ってくればね。簡単なことよ、分るでしょ? いくら頭の悪いあんたでもね」
と言った。
「月給日まで待って下さい。もう預金も残ってないんです。必ず、必ず来週には持って来ますから、お薬を──」
「お金と引き換えよ。何度言えば分るの? 出てって! お客様がみえるんだから」
「お願いです、少しでも──」
と、取りすがる充江を、信子は突き放した。
「さ、出てって!」
と、ドアを開けると──。「来たのね」
そこに立っていたのは、証券会社の男だった。
「お取り込みですか。出直しましょうか?」
「いいえ。もうこの人、帰るところなの。──さ、入って」
充江は押し出され、代りに証券会社の男が入って行き、
「遅かったじゃないの」
と、信子が甘えた声を出すのが聞こえた……。
充江は、自分がどれくらいこの公園にいるか、よく分らなかった。
一びん三万円のあの薬……。何てすてきな気分にしてくれることか!
でも、預金残高はたちまち減っていき、底をついた。借金したくても、貸してくれる人もいない。
そして──夫も、遠からず預金がゼロになっていることを知るだろう。
どうしよう。──どうしよう。
「──何してるんです?」
声をかけられて振り向くと、見知らぬ男が……。でも会社帰りなのだろう、背広姿で、少し酒くさい。
「座ってるんです」
と、充江は言った。「あなたは?」
「僕は──会社の帰りです。そうですとも。見りゃ分るでしょ?」
と、男は笑った。
「ええ……。でも、どうしてここへ?」
「そりゃあ……あなたを見かけたからです。何してるのかな、って、気になってね」
男は、ベンチに並んで座ると、充江の肩に手を回して来た。酒くさい息に、充江は顔をしかめた。
「やめて下さい」
「そう言わないで。──ね、こんな所で時間潰《 つぶ》してんじゃ、あんたも放ったらかしにされてるんでしょ?」
男の手が胸もとをさぐるのを感じて、充江はゾッとしたが、同時に、ある考えが浮んだ。それは、自分がそんなことを考えるとは思ってもみないような考えだった。
「──私が欲しい?」
と、充江は言った。
「え?」
「私のこと──好きにしてもいいわ」
「そうですか? そりゃ悪いな。──いいんですか?」
男はせっかちに充江のスカートの中へ手を入れて来た。
「待って。通る人がいたら困ります。ね? どこか……人目につかない所で」
「ええ。──じゃ、その茂みの奥で、どうです?」
充江は、自分が自分でないようで、何も感じない内に、男に組み敷かれていた。ただ、背中に小石がこすりつけられて痛かった。
男は充江の胸をはだけ、スカートをまくり上げてのしかかって来ると──アッという間に終ってしまった。
充江は、そのときになって初めて青ざめ、痛みを覚えた。心の内側の痛みを。
「──ちょっと呆気《あつけ》なかったな」
と、男は笑ってズボンを上げると、「この次はもっとゆっくりね」
「お金」
と、充江は言った。
「──何です?」
「お金下さい。三万円。──私を抱いたんだから」
と、充江は起き上って言った。
男は、ちょっとの間呆気に取られていたが、
「冗談じゃねえや」
と、鼻先で笑った。「三万円? 何を寝言言ってんだ。こっちが払ってほしいね。抱いてやったんだぜ」
「お金、くれないの?」
「あのね。あんた、十六やそこらの小娘じゃないんだ。大人同士なんだよ。どうしようってんだ? 訴える? そっちが恥かくだけさ。よく鏡を見てみなよ。金のとれる顔かい」
男は一気にまくし立てるように言った。──男の方も不安だったのだ。怯《 おび》えているのだ。充江にもそれが分った。
「じゃ、結構です」
と、充江はスカートを直して、よろけるように立ち上った。「お引き止めして、すみません」
男の方は、充江がえらくおとなしいので少し悪いと思ったのか、
「いや……。言い過ぎたな。ごめん」
と、ネクタイを直した。「──金がないんですよ。いや、本当に。財布の中はほんの二、三千円で……。情ない話ですがね」
充江は、ほとんど聞いていなかった。
「会社がね、リストラだとか言って。要するに人減らしなんです。で、俺も引っかかっちゃってね。──もうこの二週間、会社へ行ってないんですよ。でも、女房にそうは言えないし……。で、一日中あちこちぶらついて、こうして帰って来るんだけど……。もうちょっと遅い方が本当らしいだろうと思ってね、この公園で時間を潰《 つぶ》してたんです。──ま、勘弁して下さい」
男は、充江が何も言わないので、早々に行ってしまった。
充江はフラッと元のベンチの方へ戻って行って、ペタッと腰をおろしたが……。
金のとれる顔かい。──本当に、そうよね。私なんか、主人にだって愛想つかされて当り前なんだわ。
目の前の池にさざ波が立った。風が出て来たのだ。
そう。──分ってるわ。私の居場所は、このベンチじゃない。こ《ヽ》の《ヽ》池《ヽ》なんだわ。
そうだわ。やっと分った……。
充江は低い柵を乗り越えて、池の中へ足を入れた。深くはないが、泥で足をとられ、頭から突っ込んでしまう。
一《いつ》旦《たん》は水から顔を出したが、充江はそのまま再び水に頭ごと沈んで、もう二度と現われて来なかった……。
「──ちょっと寄ってけよ」
と、真田に言われて、大久保も断り切れなかった。
真田にすっかりごちそうになった挙句、二軒も飲み歩いた。これで「失礼します」とは言えない。
バスを降りて二人が団地の中を歩いて行くと、サイレンを鳴らして、救急車が二人を追い越して行った。
「何かあったんですかね」
と、大久保が言うと、真田は肩をすくめて、
「団地の中じゃ、サイレンの聞こえない夜はないぜ。住んでると、すっかり慣れっこさ」
「そんなもんですか」
「しかし──すぐそこだな。珍しいな、こんな近くで」
と、真田は言った。
救急車は、公園の入口で停っていた。
「公園で何かあったのかな」
と、真田が言って、近くで足を止める。
近所の住人らしい七、八人が救急車から少し離れて様子を眺めていた。大久保は、その内の一人の女が、真田に気付いて急いでやって来るのに目を留めた。
「真田さん。誰か──」
「やあ、ご近所の奥さんだ。──相沢さん、何ごとです?」
その少し神経質そうな四十がらみの女性は、ひどくあわてた様子で駆けて来ると、
「真田さん! 良かったわ、見付けて」
「え?──何かあったんですか。ああ、これは僕の大学の後輩で大久保というんです。相沢京子さん」
「どうも」
と、大久保は会釈した。
「真田さん。落ちついて聞いてね。奥様が──」
「充江が? どうかしたんですか」
「亡くなったの」
大久保は息をのんだ。──真田の方はピンと来ないのか、
「あの──充江の奴《 やつ》が、どうしたんですって? 何かご迷惑を──」
「その池で……。溺《 おぼ》れたんです」
と、相沢京子という女が言うのを聞いて、大久保は、
「大変だ! 真田さん、ともかく救急車の人に話を」
「うん……。でも、溺れたって? あの池はそんなに深くないんですよ」
「奥様、たぶん……自殺なさったんだと思うわ」
「──自殺」
「ええ。私も何とかしてあげれば良かったんだけど」
と、相沢京子はため息をついた。
真田が近寄って行くと、集まっていた野次馬がサッと退《 さ》がった。
「──何かあったんですか」
と、大久保が相沢京子に訊《 き》く。
「ええ。──お金に困ってらしたんですよ、奥さん」
「お金に?」
「ご主人に内緒で使ってしまっていたらしくてね。銀行預金がゼロだって泣いてたわ」
「どうしてまた……。何に使ってたんですか」
「分らないけど……」
と、相沢京子は少し声をひそめて、「これ、誰にも言わないで下さいね。真田さんの奥さん、覚醒剤か何かやってたらしいんですよ」
「何ですって?」
大久保は唖《 あ》然《 ぜん》とした。
「しっ! 他の人の耳に入ると──」
「でも、大変なことじゃないですか、もし本当なら」
「ええ……。でも、ただの噂《 うわさ》ですから」
と、相沢京子は言った。
真田が大久保たちの方へ戻って来ると、
「本当に──充江の奴だった」
「真田さん、何か僕でお役に立つことがあれば……」
「ありがとう。大久保、悪いが今日はここで──」
「ええ、もちろんです。元気を出して下さい!」
「うん。ありがとう……。相沢さん、家内についてってやりますので、明日には何かとご相談に伺うかもしれません」
「ええ、どうぞ」
「じゃ……」
大久保は、真田が救急車の方へ力なく歩いて行くのを見送った。真田の後ろ姿が、急に年齢《とし》をとったように見えた……。