ドアにノックの音がして、町田はゆっくりと歩いていくと、
「どなた?」
と訊いた。
返事はなかった。代りにもう一度ノックの音。
夜中、十二時を回っていたが、町田は寝る気になれずにいた。橋山が何か返事を持ってくるかもしれないと思っていたせいもある。
しかし、今のノックは……。
ドアを開けて、町田は一瞬時間が止ったような気がした。
谷口ひとみが立っていた。手にボストンバッグをさげ、真直ぐに町田を見る目は厳しく輝いていた。
「明日、あなたと東京へ行きます」
と、ひとみは宣言するように言った。「今夜、泊めて」
「ああ」
町田は傍へ退いて、ひとみを中へ入れた。
「——広いなあ」
と、ひとみはスイートルームの中を物珍しそうに見回して、「泊ってもいいのね?」
「君はいいのか」
「ええ」
ひとみは真直ぐに入って来ると、クルリと振り向いて町田を見た。
「今夜からだって同じことだわ」
「——確かにそうだ。しかし、君のお母さんは?」
「知らないわ。でも、いいの」
ひとみの言い方にはとげがあった。
「何かあったのか。母親と言い争ったのか?」
「当然でしょ。喜んで行かせる母親がいる?」
「それもそうだ。しかし、それを承知で私は君を連れて行くんだ」
「それなら、泊ってもいいわね」
ひとみは、バッグを放り投げた。そして、大きく伸びをすると、
「——お風呂に入ってくる」
と言った。
「その奥だ。ゆっくり入りなさい」
平気を装い、強がってはいるが、怯《おび》え、緊張している。膝《ひざ》は震えているかもしれない。
そんな十八歳の娘を抱くことなど、少し前の町田なら考えもしなかったろう。だが、今は分っている。自分があのきゃしゃな体をこの腕に抱きしめるに違いないということが……。
シャワーを浴びる音がバスルームから聞こえてくると、町田はあわててベッドルームへ入り、ベッドカバーをめくって、ピンと張った爽《さわ》やかなシーツの反射にまぶしい思いをした。
震えているのは俺の方かな? そう思うと笑ってしまう。
電話が鳴って、町田は舌打ちした。——何だ、こんな時間に!
電話をつなぐな、と言っておくんだった。
仕方なく出てみると、
「町田さんでいらっしゃいますか! あの——校長の小田でございます」
「ああ、どうも。こんな時間に何ごとです?」
「申しわけございません。あの……おやすみとは思ったのですが——」
「用件を早く言って下さい」
「はあ。申しわけも……。実は町長が——橋山町長が、ついさっき亡くなりまして」
町田もさすがに言葉を失った。
「町外れの吊橋の所で倒れていたのを見付けられて、病院へかつぎ込まれましてね。それで急いで手当てをして、一旦持ち直したんですが、また急に……。あの——一応お知らせしておいた方が、と……」
「もちろんです」
と、町田は言った。「お知らせいただいてありがとう」
「いえ、どうも……」
「今、ご遺体は病院ですか」
「は、さようです」
「これから参ります。明朝早く発たねばなりませんので」
と、町田は言った。「病院はどこです?」
町に、大きな病院は一つしかない。歩いても大した距離ではなかった。
「では」
と、電話を切り、町田は仕度しようとした。
「どうしたの?」
ひとみが立っていた。バスタオルを体に巻いただけの姿で。
「もう出たのか」
「お風呂、早いの。いつもお母さんに呆《あき》れられる」
と、ひとみは言って、「今の——お母さんから?」
「いや、そうじゃない。ちょっと出て来なきゃならない。待っててくれ」
「ええ……。でも、こんな時間に、どこへ?」
「すぐ近くだ」
町田は、ひとみから目を離せなかった。
そこには、ずっと昔に失った「青春」が息づいている。——そうだ。橋山は死んでしまったのだ。今さら急いでどうなる。
後でもいい。病院に行くのは、明日の朝でも……。
「——出かけるんじゃないの?」
と、ひとみが言った。
「そうだが……。急ぐこともないんだ」
町田は、ひとみを抱き寄せた。スッポリと腕の中へおさまってしまう、きゃしゃな少女の体は、かすかに固く引き締った。
「心配するな」
「してないわ」
強がりを言って、ひとみは自分から町田へしがみついた。
町田はひとみを抱え上げると、ベッドへ運んで行った。
「腰、痛くない?」
「平気さ」
ベッドへひとみを横たえると、町田は傍へ横になって、静かに唇を小さな唇の上に落とした。
ひとみが、かすかにため息をつくと、
「あなた……」
と言った。
その声が、町田の遠い記憶に共鳴した。
あなた……。あなた、か。
「——君のお母さんも、『あなた』と呼びかけるんだね」
宮田と谷口良子が話していた光景を思い出して、町田は言った。
「ああ、そうなの」
ひとみがちょっと笑って、「お母さんのお母さんが、いつも人に『あなた』って呼びかけて、よく誤解されてたって笑ってたわ、お母さんが」
「そうか……」
「それがどうかした?」
——この声。「あなた」と呼ぶ声。
この瞳《ひとみ》。この笑顔。
どこかで見たことがある。いつか、ずっと昔に知っていたような気がする……。
「どうしたの?」
と、ひとみが訊《き》く。
「いや、何でもない。——大したことじゃない」
町田はそう言って、明りのスイッチへ手をのばした。
病室の前に人が集まっているのが見えた。
町田は、静かな廊下を、その方へ進んで行こうとして——。
「失礼ですが」
と、呼びかける声で足を止めた。
「あんたか」
谷口良子は、黙って頭を下げた。
「町長が亡くなったと聞いてね」
「はい。あなたがおみえになると伺いましたので、お待ちしていました」
「娘さんのことだね」
「はい。町長さんからお話は……。でも、とてもそんなこと、親として承知するわけに参りません」
「娘さんはどう思うかな」
「あの子は、ただこの町を出て行きたいのです。高校を出れば、一人で出してもやります。でも、今は——あなたと一緒にやることなんか……」
「分るよ」
「私にはあの子しかありません。どうか——お一人で明日——いえ、この夜が明けたら、東京へ帰って下さい!」
良子は深々と頭を下げた。
病室の辺りがザワついた。
「——町長さんの奥様です」
「あんたはどうしてここへ来ていたんだ」
良子は少しの間黙っていたが、
「町長さんは——橋山さんは私にとって、特別な方だったんです」
と言った。「あの方のためにも、私はひとみをあなたへ渡すことができないんです」
町田は、ゆっくりと病室へ目をやって、それからもう一度、良子を見た。
「——誰かに似ていると思った」
と、町田は言った。「それで、あんたは一時この町を出ていたのか」
「橋山さんの具合が良くないと知って、戻りました。周囲にどう思われても、あの方のそばにいてあげたかったんです」
「そうか……」
と、町田は肯いた。
「どうかあの子のことは忘れて下さい! この通りです」
良子は、バタッと冷たい床に膝《ひざ》をつくと、両手をついて、頭を下げた。
「——立ってくれ。もう……あんたの娘は私の部屋にいる」
良子は呆《ぼう》然《ぜん》として顔を上げ、
「——まさか」
「本当だ、さっき、バッグを手にやって来た」
「それじゃ……」
「私のベッドで眠っている」
良子は、よろけるように立ち上ると、
「あの方に……橋山さんに申しわけない! 私と母の恩人なのに……」
「あんたの母親? だが——そんなころなら、橋山はまだ郵便局の課長だったろう」
良子はびっくりして、
「どうしてそんなことをご存知なんですか?」
「なぜ、君の母親の恩人なんだ」
「母を助けてくれたからです。——あの吊橋から飛び下りようとする母を、救ってくれたんです」
「吊橋から?」
「母は町の若い男に騙《だま》されて、郵便局のお金を盗んだんです。でも、その男は、お金だけ持って、母をオートバイから突き落として逃げました。母は絶望して、吊橋から飛び下りようとして——。それを橋山さんが助けてくれたんです。でもそのとき、母のお腹には私がいました……」
しばらく間があった。
そこへ、小田校長がやって来た。
「社長さん! おいででしたか! 気付きませんで」
「いや……」
「わざわざ恐れ入ります。あちらの病室で——。大丈夫ですか? お顔の色が——」
「いや、何ともない」
と、町田は言った。「ご挨《あい》拶《さつ》をさせていただきましょう」
「ご案内いたします」
町田は、小田の後について行った。
良子は、その場でじっと町田の後ろ姿を見つめて立ち尽くしていた……。
吊橋がかすかに揺れて、音をたてていた。
風があるとも見えないが、たぶん時々吹きつけていたのだろう。
町田は、吊橋の手すりから下を覗《のぞ》き込んだ。——谷川は、かすかな囁《ささや》きが耳に届くばかりで、まだ闇《やみ》の中に溶けている。
夜明けには時間があった。
ひとみは眠っているだろうか?——ひとみ。
町田は、ふと人の気配を感じて、
「ひとみか?」
と、振り返った。
ほの白い人影は、少し離れて立っていたが、やがてゆっくりと近付いて来た。
「——ひとみさんとおっしゃるの」
「恵美!」
妻の姿を見分けて、町田はびっくりした。「こんな所で、どうしたんだ?」
「あなたこそ! 一体自分がいくつだと思ってるの? あと何年、寿命が残ってると思うの? 今さら若い女にのぼせるなんて!」
「河野から聞いたな」
「話をつけに来たのよ。あのホテルも、この町も、潰《つぶ》してやるから!」
恵美の声が震えた。
「もう、そんな必要はない」
と、町田は言った。
「何ですって?」
「俺《おれ》は、夜が明けたら一人で発つつもりだった。しかし、もう仕事にも戻りたくない。もう……」
「あなた……。私をごまかそうとしたって——」
「言ったろう。もう帰るんだ。——お前も忘れてくれ。すんだことだ」
恵美が当惑しているのが気配で分る。
「——さあ、行こう」
と、町田が促したとき、タタッと駆けてくる足音が聞こえた。
誰かが、町田にぶつかる。
「あなた!」
と、恵美が叫んだ。
「どうしても……どうしても……あの子をあなたへあげるわけにいかないんです!」
上ずった声で、谷口良子が言った。「許して下さい!」
良子はよろけて手すりにつかまった。
「あなた……。どうしたの!」
「何でもない!——何でもないんだ!」
「でも血が……」
「いいんだ」
町田は、脇腹に突き刺さったナイフを抜いた。
「早く病院へ——」
「いいんだ。俺は……ここでおしまいでいいんだ」
「そんなこと——」
良子が泣いている。
「さあ……」
と、町田は良子の肩に手を触れ、「このナイフを——持って行って処分したまえ……」
「町田さん……」
良子は顔を上げて言った。
「取るんだ。ひとみ君のために。あんたがいなくなったら、どうなる?」
「でも……町田さん……」
「『あなた』と呼んでくれ」
良子は戸惑いながら、そのナイフを受け取った。
「恵美……。お前も憶《おぼ》えていてくれ。私は……この吊橋から、誤って落ちて死んだんだ」
「あなた——」
「あのホテルを、ちゃんと見てやってくれ……。これで、何もかもけりがつく……」
「待ってたわ。あなた」
背後で声がした。
手すりにつかまったまま振り返ると、貞子が微《ほほ》笑《え》みながら立っていた。
「君か……。懐しい!」
「そうね。でも、分らなかった? あの子を見たときに」
そうだ。——そうだった。
ひとみを見て、思い出したのは、この顔、この声だった。
「分らなかったよ……。年《と》齢《し》取ったんだ、もう」
と、町田は笑って言った。「それにしても……三十何年も待ってたのか」
「あなたにバイクから突き落とされたときも、きっとあなたは戻って来てくれると思ってた」
と、貞子は言った。「時間はかかったけど……やっぱり戻って来たでしょう」
「ああ……。やり直せたら良かった。あのときに戻れて、君を迎えに戻れたら……」
「でも、今からでも遅くないわ」
「そうか?」
「あなたの大事な人たちのために、あなたにはできることがあるわ」
「うん……。そうだな……」
「落ちるのは一瞬よ」
「手をつないで、一緒に飛ぼう」
「ええ」
「頼むよ。——高い所は苦手なんだ」
「そうだったわね」
と、貞子は笑った。
「さあ……」
伸した手を、白い、柔らかい手がつかんだ。
「落ちるんじゃない。舞い上るんだ、と思えば怖くないわ」
「舞い上る、か。——そんな気がするよ」
うっすらと空が白みがかって来た。
町田は大きく息をついて、手すりを乗り越え、飛んだ。
本当に、空へ向って舞い上るような気がした。
「——お母さん!」
ひとみの声で、良子はハッと我に返った。
「ひとみ!」
「今……あの人、死んだの?」
——吊橋の辺りは、明るくなり始めていた。
どれだけの間、立ちすくんでいたのだろう。
良子と、町田恵美の二人で。
「どうしてそんな……」
「何だか、そんな気がしたの。——あの人、私に向って手を振って、落ちていったわ、夢の中で」
「ひとみ——」
不意に、恵美が良子へ歩み寄ると、その手から血のついたナイフを素早く取って自分のバッグへ入れた。
「ひとみさんね。私、町田の家内です」
「あ……」
「主人は……あなたのことを気にしていました。私があなたとのことを責めたので——飛び下りてしまったんです」
「——そうですか」
ひとみは、手すりへ駆け寄って下を覗《のぞ》いた。
良子が思わず娘へ飛びつき、
「だめよ! あなたはだめよ!」
と、抱きしめた。
「お母さん……」
「あの人が死んだのを、むだにしないで。あなたは行きたい所へ行けばいいわ。でも、生きていて!」
「お母さん。私、大丈夫……。大丈夫よ」
ひとみは、良子の手を握って、「冷たいわ。——家へ帰ろう。ね?」
「ひとみ……」
「心配かけて、ごめん。でも——何もなかったんだよ」
「何も……」
「先に病院へ行くって、出て行ったんだもの、あの人」
「そう……。そうだったの」
良子は、娘の肩を抱いて、「帰りましょう。——奥様」
「後は私が」
と、恵美が言って、頭を下げた。
良子とひとみは、底冷えのする朝の中を、身を寄せ合って歩いて行った。
恵美はホテルへ戻って行った。
この町に、夫は何か秘密を抱いていたのだ。
しかし、あの母娘と何の係りがあるのかを知ろうとすれば、それは夫の秘密を公にすることになるだろう。
いや、それは避けなくては。夫はこの町の「恩人」でなければならないのだ。
そうだ。あのホテルに夫の名前をつけて、夫の胸像を飾ろう。
こんな何もない町でも、必ずあのホテルを成功させてみせる。
恵美は、力強い足どりでホテルへと急いだ……。
つかまえた。
ひとみが戻って来てくれた。もう離すものか。
ひとみが吊橋の手すりに駆け寄ったとき、良子はゾッとしたのだった。
良子が母を死なせたように、娘までもあの吊橋で失うかと思った。
良子と橋山の仲に気付いて、母、貞子は橋山の目の前であの吊橋から身を投げた。その後、良子が死なずにいたのは、もう体の中にひとみを宿していたからだった。
ひとみ。——ひとみ。
もう二度と、離れていかないで……。
母は急に老け込んだように感じられた。
ひとみは、この母を見捨てるわけにいかない、と歩きながら思った。
町田とは何もなかった、と言って、母を安心させたことを後悔してはいなかった。
黙ってさえいれば、分らないことだ。きちんとベッドも直して来た。
お母さん……。私より先に、お母さんが幸せにならなくては。
——ふと、ひとみは思った。
もし……もし、町田の子がこの体の中に……。
まさか! そんなことになるわけがない。
たった一度だけなんだもの。
そう……。万に一つ、そうなったら……。
ひとみは母の肩を抱く手に力を入れた。
「どうしたの?」
と、良子が訊《き》く。
「別に。——寒いね」
と、ひとみは言った。
二人はいっそう身を寄せ合って、家への道を急いだ。
——忘れられそうな、この小さな山間の町にも、朝が静かにやって来ようとしている。 あ な た